指先にエトワール
「俺を抱いてくれないか?」
大倶利伽羅よりもひとまわり小さくなってしまった身体をふるりと震わせて、目尻が甘く垂れた大きな目をそらさず長谷部ははっきりと言った。
「は?」
理解の範疇を超えた彼の言動は身にしみて知っているが、それにしても直裁すぎる要求はどうなんだ。あまりにもひどい。ひどいという言葉に尽きるが、彼、もとい彼女は、こちらの心情など知らないのだから仕方がない。ただ、知っていたとしても鑑みるということはしないだろうことは想像に難くない。
軽率ともいえる判断で、女性の器になることを選択した彼、──いや長谷部は艶やかな髪を流した先に浴衣から豊かな胸の谷間をのぞかせて、じっとこちらを伺っている。男の身体なら誰もが持つすけべ心がちろりと顔を出し、跳ね除けるように目をそらす。
「……断ったらどうなる」
「他の奴に頼みに行く」
首を傾げ、どうしようかなと視線をさまよわせた後に軽く言った言葉の小憎らしさといったら。夜明けを写し取った瞳を見つめ直し、大倶利伽羅は嘆息した。それはもう思いっきり。もとより、この傍若無人なわがままを断れるはずもないのだ。
大倶利伽羅は長谷部に恋をしている。
本人にはものの見事に通じていないが。
そもそもなぜ彼が女の身体になってしまったかといえば、政府の思いつきにしか見えない要請と我が本丸の審神者の無責任な発言が原因だ。豪胆な性格をした彼女は口癖の「やればなんとかなる」という言葉通り楽観的すぎるところがある。政府からもたらされた被験体募集の通達を、何が起きるかわからないのに、なんのためらいもなく刀に告知するのが証左だ。そして、手を挙げた主命とよく口にする刀が己の意思で志願したと疑わない。
「やりたいことはやればいい。やりたくないことはやるな」これも彼女がよく言う言葉だが、意思という自由を尊重すると同時に、自分の選択による責任を全うせよという厳しさがある。
矜持を持ったわがままであれ。あの人間はよくわからないことを言う。
実際、誰も手を挙げなければ申し出は蹴るつもりでいたのだろうし、そんな審神者から生みだされた刀だ、いまさら戦う上で利点のない選択は誰もしないと思われた。
けれど、この刀は、もう戻れないというのにやると選択してしまったのだ。
へし切長谷部という刀の献身を憎む。けれど、彼のありようを見つめ続けてきた大俱利伽羅は、それがこの刀の美しさでもあることを知っている。愚直な行動に眉をひそめつつも、まばゆい一生懸命さに羨望を覚えているのだ。
人の身を得た最初の瞬間、「阿」の音が喉を通って弾け、開いた目に映った深い青紫の奥にのぞく輝きに魅せられた時から、大倶利伽羅はこの刀を恋い恋いている。初対面から、あぐりと口を開けて惚けた顔を晒した大倶利伽羅は、のちに輝きにふさわしいものの名を知る。
それは星だ。
瞳に星を持つ近侍の刀は本丸では随分と頼りにされた忙しい刀で、大倶利伽羅はいつも遠くから見つめるばかりだった。さながら、遥か遠くの空に浮かぶ星を眺め、その連なりをこころでなぞる人のようだった。
ふたりは演練でもよく見るありふれた刀の長谷部と大倶利伽羅だが、長谷部は少しばかり先走りがちな長谷部で、大倶利伽羅は少しばかり後ろを慎重にいく大倶利伽羅だった。長谷部は人の視線に鈍感で、大倶利伽羅は観察に長けていたともいえる。一向に噛み合わない。だからこそ大倶利伽羅は惹かれてしまった。煌めきを残して一心に駆けていく背中に。
いつもは己の役割と戦果ばかりを見つめる星が、こんな触れられる距離でこちらを見上げている。唾をひとつ飲み込み手を引いて無造作に敷かれた己の布団に誘う。輝きのままに熱いのではないかと思った手は驚くほどひんやりとしていた。
女の身体は冷えがちだという本から得た情報がよみがえり、器が変化することの影響を思う。長谷部も顕現したばかり、もしくは最初から女の身体であったなら話は違っただろう。人の身に慣れたところで形を変えられることは刀でいうならば再刃に近いのだろうか。輪郭が変わることで、ありようが変わることは確かだ。彫られたものに己を定義付けられた大倶利伽羅だからわかる。
だからだろうか。夜分遅くにひとり厨で佇んでいた長谷部にたまらず声をかけてしまったのは。憐憫もあっただろうが、何よりどうしたらいいかわからないとばかりに、立ち尽くす彼をただ見ているだけではいられなくなったのだ。
「眠れないのか?」
「いや……腹が空いているような気がしたのだが、……でも、違った」
まるで迷子の物言いで、浴衣のたもとをしきりと指でもて遊んでいた。
「俺は喉が乾いている。あんたも飲むか?」
「…いいのか?」
「一杯も二杯も同じだ」
落ち着くよう努めながらゆっくりとありきたりな茶を淹れた。手持ち無沙汰にしていた長谷部を作業台の前にある簡素な椅子に座るよう促し、まだ熱い湯呑みを置いた。湯気を見つめる小作りになってしまった横顔に何かを言わなければと口を開く。言葉は、その言葉だけが一人歩きし、不要なものを連れてくるから面倒だと常々思っている大倶利伽羅らしくない行動だった。
「その身体で不便はないのか?」
「ん……ああ、慣れるまでまだかかるだろうが問題ない。女の身体は力で劣るが柔軟性や持久力に優れているらしい。すぐに使いこなしてみせるさ」
湯気が立たなくなって初めて長谷部は湯呑みに口をつけた。
「俺を、いや、もう俺ではないのか……私を馬鹿だと思うか?」
こんなことを訊かれても困るだろうが、と自嘲した。おまえは正直そうだから、とも。ため息をつきたい気持ちを押しとどめ首を振った。
「……軽率な判断だと思うが、あんたの選択を馬鹿にはしない。あと、俺でも私でも好きに言えばいい。人のことわりに押し込める必要はない」
虚をつかれたような顔をして固まる長谷部は、はっと息を吐き出し「簡潔に罵倒してくれるかと」と囁いた。
「おい、それこそ俺を馬鹿にしているだろう。……あんたは刀だ。それは変わらないはずだ。男だろうと女だろうと、形が変わろうと、あんたの目を俺は見間違えない」
ぽかんと口を開けた長谷部は、驚いた、とひとりごちた後に、くふんと笑った。
「しゃべりだしたら……なんだ……おまえの言葉くすぐったくて……悪くない」
今まで見たことがない柔らかな光が瞬くのを目の当たりにして、強く跳ねる心臓に狼狽えた。
そんなことがあって、大倶利伽羅は近すぎる距離のこわさを知ったばかりだというのに────。
思わず手を伸ばした結果あらわになったものに、怖気付くような気持ちが膨らむ。衣を自らはだけ長谷部が晒した眩しすぎる身体を前に大倶利伽羅の身体はぶるりと震えた。いくら少しばかり会話をするようになったといえど、流れ星が突然、地球に落ちてきたような急接近に大倶利伽羅の心臓は破裂しそうに脈打っている。
抱くことを乞われた時のよくわからない理由も相まって頭がぐちゃぐちゃだ。
『体が火照って仕方がない。男が白いものを吐き出すように発散させる必要があるのだが、ひとりだとやたら透明な液体は出るのに熱が溜まるばかりで難しい』
(は?)
『主に相談したら、女の体は鞘だから刀が必要だ。誰かに抱かれれば治るだろう、とおっしゃった』
(あの、くそ審神者!)
『見目の若すぎるものはどうかと思うし、太刀は大きい。打刀で細身のお前ならと思った。口も固そうだし』
(ぐっ)
『…その、お前ならこわくないかと』
(上目遣いは卑怯だ!)
かの彗星の軌道はとんと読めないものだと痛感した。荒い呼吸をして固まる大倶利伽羅を見上げ、長谷部は瞼を震わせ、ふいと横を向いた。
「俺なんぞには興奮しないかもしれないが……すまない」
なぜそこで恥じらう!? さっまでの淡々とした様子はどこに行った?
始まる前から完敗を悟り大倶利伽羅は頭をかきむしった。
「ん、んぅ、っ」
くそっ、これはなんの拷問だ。
長谷部を痛くしたくない一心でぬかるむ女陰を慣らしている大倶利伽羅は、始まる前に感じたとおり、熱く柔らかいものが指を食い締める動きだけで限界を感じていた。汗の浮いた白い身体がくねるさまと、いつもより一段階高い吐息、きゅうきゅうと泣き縋る胎の湿った感触、それだけで正直果ててしまいそうだ。下着の中で膨れ上がった雄が痛い。腹筋に力を入れてこらえ、広げるように襞を引っ掻いていた指をくちりと音を立てながら抜く。 身体をずらし、もっと濡らした方がいいかと舌をねじ込んだ。
「ひぁっ、やっ、そんなこと、す、るなぁ」
髪を容赦なく引っ張られ、張りのある腿が顔を挟み込んでくるが、ぐねぐねと舌を動かし存分に濡らすことをやめられない。初めて見た長谷部の乱れる姿は、もっとおかしくさせたいと、大倶利伽羅に雄の本能を思い起こさせるのに充分な色香を放っていた。逃げ惑う身体を押さえ込み、伸ばした舌を抽送する。
「ぁ、ぁ、ぁ、ンうそぉ」
細やかな震えが激しくなるほど、こころは躍り、舌に残る淫らな味に涎が溢れる。
初めては痛いというから先に果てさせた方がいいかもしれない。
女陰のすぐ上にある慎ましやかな粒を舌先で抉り幾度もじゅうと音を立てて吸った。
「っそこ、や、やぁ、んん」
大倶利伽羅の背中を奔放な脚が叩き、縮こまるように背を丸め身体がびくんと大きく跳ねた。長谷部は絶頂したようだ。顔を伺えばとろりとした涙が目尻から流れ、頰が痛々しいくらい色づいている。乳首が立ち上がった豊満な胸に、汗が光る細い身体、濡れ切ってわななくほと、余すことなく目に映して大倶利伽羅は唾を飲み込んだ。
この刀は毒だ。
ここで終わりにしてやった方がいいのではないか、頭の冷静な部分がそんな綺麗事を言う。立ち上がった愚直な雄は早く中に入りたくて震えている。
身動きできない大倶利伽羅をとろんとした目で見やった長谷部は、「どうした?」と言いながら身体を起こすと、脱ぎ散らかされた浴衣のたもとを探った。
探り当てた何かを片手に、白い指が大倶利伽羅の下着に手をかける。
「主がこれだけはしろとおっしゃったから」
性教育映像で見た避妊具が視界に飛び込んできて、本日何度目かわからない審神者への罵倒を内心で吐く。
なんでそこだけ用意周到なんだ。大事なのはわかるが。
「……かせ」
「おまえ付けたことあるのか?」
「…いや」
「ちゃんと付け方も習ったから大丈夫だ。失敗は許されないらしい」
本当にあの審神者は一度痛い目を見た方がいい。災難にあっても、いい経験になったわと堪えなさそうなところが、また憎らしい。
審神者への罵詈雑言で意識を飛ばしている間に大倶利伽羅の下着を奪った長谷部が、下半身を凝視したまま固まっている。
「……どうした」
大倶利伽羅の息子はこれ以上ないくらいいきり立っていて、あまり見られると恥ずかしい。
「……ぇ、な、なんか、おっき、太くないか……? ぼこぼこしてるし」
自分にあったものと比べてでもいるのか、ひたすらに戸惑っている長谷部の発言に、己では制御できない雄は喜ぶかのように震えた。視線が痛い。
気を取り直したのか、長谷部はブツブツと独り言を言いながら、初めて使う機械を取り扱うかのようにことを進めていく。
「まず、しごいて勃たせる……充分だな。袋から取り出した丸いのを帽子のようにかぶせる。ん? そもそもこれ大きさはあっているのか……? ゴムだからのびるか……? 空気を入れないようにくるくると縁を伸ばして全身を覆う……なんだか苦しそうだな。まぁいいか」
達成感でいっぱいの笑顔が恨めしい。生殺し状態で欲望の塊を玩具のようにまじまじと見られるはめになるとは。萎えない己も己だ。
毒々しい桃色に包まれた息子を哀愁のこもった目で見下ろしていると、「いいぞ」と長谷部が言うのが聞こえた。
視線の先で、ころんと寝転がってあられもなく脚を開き、あろうことかくぱりと膣の入り口を指で広げている。粘膜ははくはくと息づき、ぷちゅり、愛液が伝っていく。
かっと頭に血が上った。息を荒げ獣のように覆いかぶさると、努めてゆっくりと挿入していく。
「ふ、ん、ぁ、ぁ、」
少し抵抗を感じる部分で止め、いいか、と問う。声は無様に掠れていて、食い荒らしたいと胸で暴れる獣を抑えるので必死だ。
星が瞬いて、確かに長谷部は頷いた。
手綱を解き放たれ、一気に奥まで打ち込む。
「っぃあぁっ!!」
ぎゅうと媚肉が締め付けてくる。包み込む粘膜の感触は獣を飢えさせる、もっともっと腰を振り立てたいと。
汗を、ぼたり、ぼたり、降らせながら歯をくいしばり、なんとか身体を抑えている大倶利伽羅の顔を細い指が包み込んだ。
「もしかして、おまえも痛いのか……? 申し訳ない」
眉尻を下げ、強引に大倶利伽羅の頭をたゆんと揺れる胸に埋めさせた。
「男は胸が好きで、癒されるんだろう?」
「…誰が、そん、なことを」
柔らかな肉に顔を愛撫されながらくぐもった声で問うと、「鶴丸が揉みながらそんなことを言っていた」と返ってくる。
どいつもこいつも無神経だ!
国永も一度殴らなければいけない、とこころに誓う。怒りのままに柔い肉を食めばきゅうと雄が締め付けられた。
「ぅ」
上も下ももみくちゃにされ、このまま出してしまいそうな雄に気合を入れて、名残惜しいが胸の誘惑から離れる。
「……すまない、動いてもいいか」
言葉より先に媚肉が期待するように鳴き、長谷部ははずかしそうに頷いた。
長谷部を気持ちよくさせたい。いっときだけでも癒されればいい。反応を見ながら慎重に腰を動かす。熱く潤った膣は充分にほぐれていそうだ。
襞がずろりと雄を舐め上げては引き込むように絞り上げる力を、徐々に強くしていくものだから、つられて打ち付ける速度が速くなる。
「ぁ、ぁっ、ぁ」
長谷部は苦痛の見られない蕩けきった表情で布団を握りしめ、唇から唾液をこぼれさせている。掴んだ細い腰はしきりに捩れ、逃げているようにも押し付けているようにも見えた。
逃げるな。
逃げないでほしい。
肌を叩く音と淫らな水音が激しくなる。ほとんど押しつぶすように身体を抱きしめれば、ふっと間近で光る濡れ切った唇が緩んだ気がした。高い声が脳を掻きまわす。
「ぁん、アッ、……きもち、いいか?」
「ああ」
壮絶だ。人の身体はなんと欲深くできていることか。
「ぃぁ、んん、まって、なんかくる……んっ」
ふりたくっていた腰を攪拌する動きに変え腹の中を荒らしていると、奥で何か違う感触に当たった。新しい玩具を見つけたような無邪気さで執拗に奥を叩いて撫でる。
「やぁっ! ひ、ぁぁぁんっ」
達したのであろう隧道が動かないでくれと抵抗しても、止めることができない。戦慄き続ける腿を抑えつけ腰を愚直に打ち付ける。すまない、という形ばかりの謝罪はもう届いてないだろう。大倶利伽羅の頭を抱え込んだ長谷部は耳元でみだりがましい喘ぎ声を湿った息と共に垂れ流している。
「や、ぁ、なんで、も、ばかぁ…でちゃぅ」
ついにぼろぼろと泣き出すに至り、大倶利伽羅はなぜかほっとした。ああ、やっと泣いたと。
「もっ、はやく、いってぇ」
許可を出された犬のように、思う存分大倶利伽羅は濃いものを吐き出した。
やってしまった。
最後は好きなように食らいついてしまった己に頭を抱え呆然としていると、おっくうそうに身体を起こした長谷部がたぷんと子種をためて垂れ下がった避妊具を取り去った。
「いっぱいでたな」
そこは笑うところか? なんでここのやつは揃いも揃って無神経なんだ。
きゅ、と結んでゴミ箱に放り投げた長谷部は、色ののった吐息をひとつ吐くと、腹を押さえて目尻を下げた。
「まだ中になにかある感じがする」
言葉を失って凝視する大倶利伽羅の目前で膝を立て、ティッシュで女陰を拭った。てろりと光る襞がめくれ、ほんのり赤に染まった粘膜がのぞく。
(……かんべんしてくれ)
もう何も考えたくなくて、また力を取り戻そうとしている性器を隠して布団に突っ伏すると、頭を撫でる感触がした。
「疲れたのか? 俺も疲れた……寝てしまうか」
短刀をあやすかのような態度にほぞを噛む。この生き物はひどい。
「うん、おまえはあったかいな」
ゆるく浴衣を羽織っただけの姿で隣に潜り込み、そんなことを言う、この生き物はひどい。
あんたを前にするといつだって体温が上がるとは言えず、寄り添う柔らかな身体にやきもきしながら呻くことしかできない。
(こんな状態で眠れるか!)
「また……たのんでもいいか……?」
小さくつぶやかれた甘くて苦い誘惑に、掠れた声で肯定する。
「……ああ」
いくら苦しくともこの星を己の手で守る以外の選択肢はないのだ。
きゅ、きゅ、と鳴る廊下を踏みしめ、星への軌道をたどる。近づく時はいつだって躊躇いと喜びが同居する。出陣の予定時間が近くなっても待機部屋に姿を見せない長谷部を迎えに行ってこいと囃し立てられた結果、大倶利伽羅は彼の部屋に向かっていた。
少しばかり近づいた距離。それはふたりの間の空気を変え、周りにも気が合うのだと思われている節がある。噛み合わず遠いままなのに。まるで仲の良い姉弟のようだ、と言った鶴丸は今ごろ頰を腫れさせていることだろう。
大倶利伽羅の信条どおり、馴れ合うつもりはない、と捨て置いても良いのだが、遠くとも夜空に浮かぶ星に手を伸ばしてしまう、人のようになってしまった大倶利伽羅がここにいる。細くとも凛とした背中を見れば近くによってしまうし、振り向いてあの瞳がこちらを映せばこころも浮き立つ。こころがない空虚な戯れといえど、誘われれば身体を貪る。
踊らされている。矜持も何もあったもんじゃない。それでも、見ていたいのだ。
「長谷部、そろそろ時間だ」
「あ、ああ、すまない。入ってくれ」
部屋の中には軽装のまま困った顔をして動けないでいる長谷部がいた。膝の上では包丁が口を開けて眠っている。あどけない寝顔に、ちろり、嫉妬を覚えてからどうしたと訊ねた。
「起こせなくて困っていたんだ。その……こいつは最近夢見が悪いらしくて…俺もついぼうっとしていた……怠慢か? 怠慢だな」
俯くと、さらり、髪が肩を流れ、白い指が包丁の目の下にあるくまをなぞった。
「まだ余裕はある」
布団を押入れから出して敷くと、力の抜けた小さな身体をすくい上げる。
「ぁ」
「これぐらいでは起きないだろ。寝かしといて粟田口の誰かに言付けとけば大丈夫だ」
むにゃむにゃと何かを言っている包丁を転がし、上掛けをかけてやる。振り向けば座った体勢のまま固まっている長谷部がいた。
「……足が…痺れた」
口の中で小さく笑って、がんばれ、とつぶやく。何度か立とうとして失敗した長谷部は「ん」と手を広げた。
「立たせてくれ」
「…………」
内心でため息を吐いて伸ばそうとした手を思わず引っ込めた。
「どうした?」
「いや…その指、俺が触ったら折れそうだ…」
刀を握るには充分なはずの手のたおやかさがいまさら気になってしまった。加州が最近実験台にしていて繊細な指先が淡い桃色に染まっているからかもしれない。
「意外と丈夫だぞ。見ろ、この肉を」
「……骨が細いんじゃないか」
「あぁ、それはそうかもなぁ。だが、五虎退よりは頑丈だと思うのだが」
「……確かに」
「で、なんだっけか?」
つまらない感傷が馬鹿らしく思え、なんでもないと返すと思いっきり掴んで引き上げた。
よたよたとした足取りで装備をつけていく長谷部の支度を手伝う。慣れてしまった手つきで髪をまとめ紐で結ぶ。
「いつのまにか包丁に懐かれているんだな」
「ああ、どうやらこの身体がお好みらしくてな。お菓子とか柔らかな手触りのものが好きなんだろう」
頼られれば突き放せない。柔らかいのは身体だけではないだろうと思うが言わないでおく。敵に塩を送るつもりはない。
防具の紐を背中で結んでやっていると、急に振り向いた長谷部が眼前で星を瞬かせた。呼吸が顔をくすぐるほどに近い。
「ありがとう、いつもこの言葉を言うのを忘れてしまう」
「…………近い」
「え?」
「顔が近い」
「いけないのか? 主は仲間との距離は近い方が気持ちが伝わるとおっしゃっていた。慣れない奴との距離を詰めるのは臆することもあるが、おまえなら近くに寄れる」
「く、それは不用意だ」
「……不快ということか?」
「違う! ただ、ひどく困る」
「困らせたい訳ではない…結局不快なのだろう?」
「ぁー、違う……身の置き所がないだけだ」
「それはどう違うんだ」
「………あんた面倒くさいやつだな…」
「……知っている」
目を伏せるその仕草は反則だ。
「……面倒くさいのも悪いことではない。その、あいつがよく言ってるだろ、ちゃーむぽいんとというやつだ……できたぞ」
「おまえ、よくしゃべるようになったなぁ」
しみじみとした声に脱力する。
「慣れだ……あんたには何か話したくなる」
ぼそぼそと小さな本音を伝えると、長谷部は納得したようにうなずいた。
「なんでも面白おかしい方向にもっていこうとする白いやつや、己の主張が激しい雅なのよりは話しやすいだろうな」
「……いや、そうではなく」
「あれ? でも太鼓鐘はなかなかできたやつなのではないか?…俺が言わなくとも知っているか」
「貞と話したのか?」
「すこし。声は大きいが、きっぱりとした返しがきもちいいな」
「…………」
「目が覚めるというか」
「…………」
「おまえと反対だな」
ぐ、と喉が鳴り、情けなくも離れようとした大倶利伽羅の方に身体ごと向き直った長谷部は、もう戦うものの顔に変化していた。ただ、声は柔らかなままだった。
「おまえとだと気が緩む」
ぐっと心臓を掴まれたここちがした。
「落ち着いたいい声だからだろうか…今度絵本でも読んでもらうか。俺も寝つきが悪いんだ」
「………そういうことを言うな」
「冗談だ」
「冗談でもだ」
脱力した声になってしまうのは仕方がない。いちど許すと獰猛な獣にも全てを許してしまいそうなこころは、どこまでも危機感がなく無防備すぎる。
「軽口の何がそんなに嫌なのかよくわからんが、おまえは真面目だな。うん、良いことだ」
大倶利伽羅は真面目ではない。下心でいっぱいのただの愚かな男だ。含みのない言葉に右往左往する無様な男だ。ため息の代わりに背中を押し、外に促した。
「そういえば、夜おまえの部屋から不思議な光が漏れていたが、なんだ?」
「あれは小型のプラネタリウム…星を模した光をだす機械だ」
「それは楽しいものなのか?」
「楽しい…? いや、あれは──────」
渡した己の上着は勢いよく跳ね除けられた。なんとか敵将の首を討ち取り、みなが無傷とはいかないなかで血に濡れた素肌をあらわにぼろぼろの服を羽織っただけの長谷部は、息を荒げ気が立った猫のようだ。
「いらん。見たいやつは見ればいい。性別など気にしてられるか、俺たちは戦う刀だ」
ぐぅと怒りが膨れ上がった。
「あんたは馬鹿か! そんなことはわかっている。潔いのは美点だが、配慮というものを知れ。目に毒だ」
長谷部は鼻で笑うと、乱れ頰に張り付く髪もそのままに続けた。
「関係ないだろ。刀同士で何を気にすることがある」
それをおまえが言うか。
長谷部にとって大倶利伽羅は同僚以外の何者でもないことが、まざまざと思い知らされる。常になく低い音が喉を震わせた。
「……俺たちが形取っているものは、確かに男の身体なんだぞ。形に引きずられるものがあることを、もう知っているはずだ」
理解しようとしないのなら力で示すのみだ、と無理やり上着で包むと肩に担ぎ上げる。
「何を!」
「好きにしたければ、俺の腕から逃れてみろ」
背中から歯を食いしばる音が聞こえた。
他の隊員の生ぬるい視線をあびながら本丸に着く頃には、暴れていた長谷部も大人しくなっていた。不意に力無い音が転がる。
「……こんなに弱くなっているのだな、俺は」
まるで泣いているかのような声色に、大倶利伽羅は慌てて横抱きに抱え直した。
「すまない…かっとした」
ぱちぱちと瞬きをしている長谷部は意外なことに泣いてはいなかった。
「いいんだ、現実を思い知った」
「…っ」
「もっと体術を学ぶ」
「………………」
「こんど稽古に付き合ってくれ」
「………………遠慮しとく」
「では、鶴丸に」
「なんでそうなる!?」
「あいつはプロレスに詳しいだろ」
プロレスと体術は明確に違うだろという突っ込みは飲み込んだ。
「……俺は総合格闘技に詳しい」
「でも、付き合ってはくれないのだろう?」
「ぅ…………つきあう」
「助かる! ところで、もう降ろしてくれてもいいのだが」
「手入れ部屋までこのままいく」
「いや、大丈夫だが」
「いく」
「……ありがとう……?」
手入れ部屋に放り込むと障子を閉め、廊下に座り込む。手入れ中に特有の僅かな空気の震えを感じながら、かける言葉を探して逡巡していると、か細い声がした。
「苛立ちを制御できない」
「今までできていると思っていたのか?」
「ぇ、理性的なつもりでいたのだが」
「よく舌打ちしていたやつが理性的とは?」
「ぐ」
「……あんたは、」
どうしても訊いておきたかった問いを躊躇いを抑え付けて問う。
「もっと自由に戦いたいのではないか?」
ふたりの間を、羽音のような振動音だけが流れた。
「……方法は問わない。成果を出すことが本望だ」
ずっと見てきたへし切長谷部らしい回答に、ふっと息を吐き出し、頷く。本音がどうかはわからない。けれど、長谷部は強くあろうとし、そう振る舞うのは確かだ。
「あんたはそういう刀だったな」
「武のこころざしのない俺に、呆れたか?」
おまえに呆れられるのは少し悲しい。
小さく続けられた言葉の不用意さが、また大倶利伽羅の胸を突く。
「…呆れてない」
「……もう、おまえと全力で当たっても勝てないかもしれない」
星が弱々しく瞬いている。大倶利伽羅はかの強い光が途絶えるところなど見たくはない────。
「早く新たな戦法を考えねば」
ぱち、と光が弾けた。ああ、なんて刀だ。大倶利伽羅の憐憫など簡単に吹っ飛ばす。役に立ちたいというプライドは人一倍、そして食らいつく根性もそれ以上。まっすぐな刀だ。まっすぐすぎるぐらいに。
「……あんた、思っていたよりも図太いんだな。前の主の恨み言ばかり言っているから、てっきり、」
「恨み言? あれは事実を述べている」
「ははっ」
淡々とした物言いに抑えきれない笑いがこぼれた。
「おまえのそんな笑い声、初めて聞いた……存外幼い。顔が見られないのが残念だ」
「……ガキ扱いするな」
「なんだって?」
「……なんでもない。もう行く」
「ああ…………ありがとう」
親愛が込められた感謝の言葉が、今は憎らしい。彼は大倶利伽羅の遥か上をいく。
星は強く、────どこまでも遠い。
梅雨の湿った空気に気分がげんなりしてしまうのは、人も刀も変わらないものらしい。降り通しのしめやかな雨音を聴きながら足を進める。踏みしめる床が返す感触に思う、木だけはこの湿度を喜んでいるようだ。
向かう先は長谷部の部屋だ。今日はまだいちども姿を見ていない。夕食時に顔をあわせた包丁が言っていたことが引っかかって、みなが眠りにつこうという夜更けに廊下を歩いている。
『体調がよくないみたい。寝てれば治るって言ってた。そっとしておいて欲しそうだったけど、行くの?』
大倶利伽羅の手には『じゃあ、これ渡しといてくれる?』の言葉と共に託されたいくつもの飴と小さな機械が。包丁は無邪気な笑顔で大倶利伽羅に理由をくれた。
ひとつ息を吸って、小さく声をかける。穏やかに眠れているのならそれでいい。
「…長谷部、起きているか?」
灯りの消えた部屋から衣擦れの音が聞こえた。
「入ってもいいか?」
障子に手をかけたところで、いつになく感情があらわになった声がした。
「だめだ」
「…なぜ? 調子が悪いのか?」
「大丈夫、大丈夫なんだ……ただ、おまえには見られたくない」
そんな弱々しい声を聞いて引きさがれるものか。
「開けるぞ」
「まて、」
「お願いだ」
沈黙を承諾とみなし、ゆっくりと開いた先の薄暗がりには、布団を被って丸くなった長谷部がいた。
「どうした?」
わずかに覗く頭を振るばかりの長谷部に近づき、恐々と手を触れさせると、びくり、身体が震える。
「……他言しない。俺にだけは言ってくれないか」
長い長い沈黙の後に、やっと小さな声がした。
「………お腹が痛いんだ。時がすぎるのを待つしかない」
「生理、とか言ったか」
「知っているのか?」
「以前調べた」
治らない不具合でないことにほっとして頭を撫でると、鼻をすする音が響いた。
「痛みになんて慣れていると思っていたのに、頭が回らなくて、身体も重くて…何もする気になれない…………俺は役立たずだ」
そんな自分が許せない。これでは捨てられてしまう。
淡々と紡がれる言葉が孕むひっそりとした寂しさが、許せなくなった。
「それは審神者を馬鹿にしてないか? あいつがそんなに薄情だとでも?」
「違う!」
「……後悔、しているのか?」
「………………後悔ばかりだ」
完全に泣き出してしまった痛々しい声に、暗闇の中を探り濡れた頰を指で拭う。
前を向き邁進する長谷部も本当ではあるけれど、隠された片隅に怯えを孕んだ弱い彼がいるのも本当なのだ。
ああ、やっと俺に見せてくれた。
苦しむ彼を前に、そんな自分勝手な喜びがこぼれた。
「もし……あんたがどこかにやられたら俺が連れ戻す。捨て置かれたら俺が拾う。この働きものの手を離さない。だから安心しろ」
ひゅっと息を飲む音がした。
「……やさしいなぁ、なんで、おまえは、そんなに」
「この本丸にはおまえが必要だ」
ずるい、言い方をした。
「…ありがとう」
「ほらよ」
「ん?」
こんこんころり、色とりどりの飴を枕元に降らし「包丁からだ」と囁く。もうひとつ大倶利伽羅が持参した機械のスイッチを入れると、部屋中に星が散らばった。
感嘆の息が漏れるのを聞いて、ひっそりと笑むと長谷部の布団に割り込んだ。これぐらいの図々しさは許してほしい。
「ど、どうした?」
「少し眠れ、腹は温めておく」
背中から腕をまわし薄い腹に手をあてると、強ばっていた長谷部の身体から力が抜けた。
「星には名前がある。そして、いくつもの星の連なりをなぞった形につけられた名前もある……人は星を見上げて菩薩を重ね信仰することもあるし、死んだものの魂がそこにあるとも言った」
名をつけ、意味を結ぶ。光は道しるべとなる。
「……俺たちも星になれるだろうか……」
「わからない。だが、残されたものが星を見てそう思えば、きっと」
「ふふ、哲学的だな」
「そんな星を産むのは女だ」
痛みに時折震える腹をさする。
「俺は女もどきだ」
「人の身の写しが俺たちだ。変わらない……この身体は大切なものだ」
「…饒舌だな」
弱り切った慕う相手を前にすれば饒舌にもなるさ、とは言えなかった。
「少し…眠いからだ」
ふふとこぼされた柔らかな吐息が苦しい。
「すまない」
不意にぽつりとこぼされた謝罪。いったい何に対してで、俺に謝るな、という言葉は音にならなかった。長谷部の口から抑えきれない嗚咽が転がっていく。子供のように泣きたいだけ泣けばいいのに、必死でこらえようとして失敗している音が溶けていく。
愛しい人が泣いているのに、この腕は無力だ。慰める言葉すら持たない。
「っ……あの、星の、名は…?」
「ドゥーべ」
「ぁ、れは?」
「メラク」
「っ、あっちは?」
「アルカイド」
ミザール、アリオト、メグレズ、フェクダ──────。
長谷部が穏やかな眠りに落ちるまで、大倶利伽羅は耳元で囁き続けた。
星の名に、想いを込めて。
「もう、大丈夫か?」
「ああ」
戦場に向かう背に声をかければ、彼ははにかんだようにわずかに笑んで答え、また前を向いた。
今日は包丁に編まれ少しよれた三つ編みが揺れている。大倶利伽羅の背後から現れた鶴丸が驚かそうと頭に手をかけるのを阻止する。「おーこわ」という言葉には流し目で応えた。大倶利伽羅はまだ長谷部の胸を揉んだことを許してはいない。
「少し、緊張する」
小さくつぶやかれた言葉に、ぽんと背を叩いて返す。そう言いつつも敵を前にすれば、一直線に駆けていくのを知っている。
いつも通りの戦場で、長谷部も大倶利伽羅も、隊員の誰も存分に働き、難なく首級を仕留めた。張り詰めていた空気が緩み、各々が息をついた瞬間、雷鳴が轟いた。
「検非違使!? 陣形を整えろ!」
一気になだれ込んできた青白い光をまとった敵の群れに、陣形も何もあったもんじゃなく、散り散りに分断される。こうなると個々の力に頼るしかない。
「深追いはするな! 隙を見て仲間との距離を詰めろ!」
肩で息をつきながら鍔迫り合いをする。練度の差がない部隊編成だったはずだが、硬さが増している。時が経てばあちら側も学習をし対策をとるのは必定。いたちごっこは続く。視線を走らせ、しぶとい相手に疲労がたまり、徐々に押され出していることに舌打ちした。突き放し袈裟斬りにすると、視界の端で紫に向かう槍の穂先が煌めいた。
「くそっ」
鞘を捨て、必死で駆けて手を伸ばす。細い腰をさらった。
彼はこんなところで埋もれる星ではない。力一杯引き寄せ槍をかわすと、寄り添う鼓動に身体の中で何かが弾けた。
勢いのまま回転し、片うでに筋肉が軋むほど力をこめ、華奢な身体を放る。
「長谷部! 行け!」
力の限り叫ぶ。空中できょとんとした顔が引き締まるのが、ゆっくりに見えた。再度繰り出された槍が草摺を引っ掛けたところで、柄を粉砕しとどめを刺し、また走る。
長谷部はひらり回りながら飛んだ先にいた間抜けな太刀を分断していた。我知らず口角が上がる。遠心力の付加された圧切のぎらついた斬れ味が大倶利伽羅を高揚させた。舞い降りた長谷部の元に殺到する敵を、駆けた勢いに乗って背後にいるでかぶつごと刺しつらぬく。
「俺を使え!」
腰を落とすと、飛んだ長谷部が肩でステップを踏み、より高く舞い上がる。大きく空振りをした大太刀の上から振り下ろされる刀の艶かしさよ。
長谷部は笑った。それは楽しそうに。
くるりと回ったターンを邪魔する無粋な刀を龍は音もなく切り捨てる。視界を遮る敵を返す刀で砕く。
舞い踊る長谷部。
彼のすらりとした脚に蹴飛ばされ飛んできた薙刀を貫き放った。しつこく突き出された槍を長谷部がたおやかな背をしならせ避け、足で柄を跳ね上げたところに滑り込み、下から切り上げる。鈍色が煌めいて、振り返りざまに太刀の腹を長谷部が貫くが、足りない。ならばと、逃れようともがく異形の背中を思い切り蹴った。
がくりと力が抜けて朽ちていく敵をうち棄てる長谷部の微笑み。
ふたりはまるで、くるくると踊る衛星のように近づいては離れ軌道を描く。大倶利伽羅の手から飛び立った星は、重力に引き寄せられ戻ってきては、また跳ねていく。
星が楽しいと歌っている。
倒れた槍を踏みつけ息の根を止めた長谷部がこちらを振り向いた。
瞳の鮮やかさに息をのむ。
夢中になっていた間に各々が片付けたようで、いつのまにか音は消えていた。
「大倶利伽羅────」
「しゃがめ!」
飛び出し、大きく横に閃光を描く。長谷部の背後から迫ってきていたしぶといやつの虚ろな首とともに鈍く光る髪が散らばった。
「すまない」
切り落としてしまった髪の房を拾えば、刀剣から離れた一部は、ほろり、花弁となって消えた。
「手入れされれば直るだろう。本当は短い方が楽なんだ」
「だが……綺麗だったのに」
小さくつぶやき何もなくなった手のひらを見つめていると、ぐいと引っ張られざんばらになってしまった頭に導かれた。
「どうせ愛でるならば、今ある方を愛でろ」
ふ、と息を漏らし目を細め、血濡れの髪を撫でる。頬にかかる煤色をさらって耳にかけた。
ふと見上げる瞳と目があった。凛とした紫がきらきらと息づいて輝き、目尻が溶ける。
「はは」
「ふふっ」
拳を合わせ、ふたりは笑った。
「ヒュ〜随分と楽しそうだったな。あれか? プロレスの練習でもしたか? 君たちはルチャ・リブレが好みなのか? 誰が好きだ? 俺も混ぜてくれよ」
「あんたはだめだ」
「おいおい、冷たいなぁ」
「うらやましいか?」
いたずらっぽく長谷部が顎をそらし言うのに、鶴丸は目を瞬かせた。
「うらやましい? しごく新鮮な響きだ…」
いつもと同じ静かな帰路。それでもふたりの目はたわみ、見合わせては口元が緩む。無邪気な子供のようなさまは、最終的にはあの鶴丸をも呆れさせた。
夜の誘いはなくなった。前を向いて突き進む星らしく、彼のこころも身体も迷うことをやめたのかもしれない。ふたりの凹凸がかちりとはまったあの瞬間に何かが確かに変わったのだ。同じ戦場に立ち、楽しく戦い、少し近づいた距離から星を見守る。それだけでいいわけではないけれど欲望には蓋をして、今はこの距離がここちいい。
まぁ、戦闘後にたかぶった熱を持て余して勃起しているのは仕方ない。甘美な記憶をたよりに抜くことぐらいは許して欲しい。彼の少し甘い体臭と体温を覚えていることも。
前向きな長谷部に感化されたのか、最近は見ていることを隠すこともなくなって無駄に開き直っている。畑仕事の合間に遠くを颯爽と歩く彼を見つめる大倶利伽羅に、脚を開いてガラの悪い座り方をした鶴丸が下から声をかけた。
「なんだその目は? 慈愛にみちた好々爺じゃないか、枯れてんのか?」
「下心はあるぞ、悪いか」
「お、おう」
察しのいい鶴丸にいくらからかわれようと、真顔で返せるまでになった。
隙だらけだと額を押すと、狼狽えた鶴丸は簡単に尻餅をついた。追い討ちをかけるように、にやりと笑ってみせることもできた。
強がりだ。だが大倶利伽羅は強がることができるようになったともいえる。
彼は、彼女は、へし切長谷部は、眩しい刀だ。
身を焼く光の近くに涼しい顔で居られるくらいに大倶利伽羅は強くなった。
夕餉に向かう道すがら、前を歩く長谷部に気づく。今日は乱あたりにでも飾り付けられたのか、長い髪がきっちりと編み込まれ後ろでまとめられている。その背中を見ていたくてなんとなくそのまま後ろを歩いていると、不意にパッと振り向いた長谷部が大倶利伽羅を見つけて目を見開いた。
「いたのなら声をかけろ」
「唇、どうした?」
長谷部の顔はうっすらと化粧をされているようで、唇が艶めかしくぷるりとした光を放っているのを思わず注視する。
「ぐろすとか言う口紅らしい。い、いや、俺は似合わないからと乱に言ったんだ! でもどうしてもと押し切られて……気持ち悪いだろう?」
じっと見つめ検分して、色が乗せられた顔も悪くないが、してもしなくとも長谷部の美しさは変わらないだろう、と内心で頷く。
「いや、似合っている。だが、あんたは何もしなくとも綺麗な顔をしているからな」
「そ、そうか」
長谷部は頰をじんわりと染めた。
そんな風に自然に染まる方が似合う、とは言えなかった。
「これ、あんたにやる」
流れのまま隣に座って食事をしていると、本日の献立につけられたデザートのプリンが目に入って、早々に貢ぐことを決定する。
「……いや、美味しいぞ。おまえも食べた方がいい」
「好きではないのか?」
「好きだが……」
「好きなら遠慮せず受け取れ」
頻繁ではないがそれなりの回数、せっせと大倶利伽羅は甘いものを献上しているはずだ。困ったように眉を下げた顔を覗き込む。
「嬉しいのだが、少し、肉付きが……」
「……わからないが」
「腹のあたりと胸が」
思わず胸のあたりを不躾に見てしまって、慌てて目をそらす。
「邪魔になるものはなるべく付けたくない」
「では半分ならどうだ? 俺には甘すぎる」
少し考えると、納得がいったのか長谷部は頷いた。
「そういえば、味覚も変わったのか。前は甘いものを食べなかったのに」
箸を止めた長谷部は驚いたようにこちらを見た。
「なんで知ってる?」
ずっと見ていたからだとは言えず、「たまたまだ」と返す。心なしか誤魔化すのが雑になってきているのを感じる。恋慕を隠す必要など本当はないからだろうか。幾度も飲み込んできた甘ったるい言葉の数々をぶつけてしまいたいような衝動がたまにわき起こる。どうにも踏み切れないのは、振られる覚悟がまだまだ臆病な大倶利伽羅にできないせいだ。
「ねぇ、ふたりって付き合ってるんだよね?」
向かいで食べていた包丁が不意に問うた。
「「いや」」
「へ? うそぉ」
「「俺は好きだが」」
なぜかぽろりとこぼれてしまった告白の声が重なって、勢いよく顔を見合わせる。
「は?」
「大倶利伽羅は俺が好きなのか?」
「……わからないか」
あんなにもわかりやすい行動をしていたというのに気づいていなかったのか。
「わからない。だって、俺はおまえじゃない。俺は俺のことしかわからない……いつからか、おまえを理解したいと思った。おまえになら触れたいし触れられたい。おまえのことを想像してひとりでしたりもした。こころというのは俺には計り知れないものだが、」
絶句する大倶利伽羅に向かってなんでもないことのように長谷部は言った。
それはもう好きってことだろう?
「あんたこそ……は……言ってくれ……」
「慣れ合うつもりはないと常日頃言ってるやつに押し付ける度胸はない。勝算のない戦いはしないよ…………女はずるいんだ」
勝気な笑みがまぶしくて、大倶利伽羅は目を細め口元を抑えた。ふつふつと笑いがこみ上げてくる。
ばればれの態度をもってしても勝算がないとは、なんて臆病で鈍感なんだ。
へし切長谷部はくるくると姿を変えて大倶利伽羅を翻弄する。流れる星につられて走り出した愚かな男の手をいつのまにか引いて、もっと加速する。
「あんた、最高だよ」
長谷部は頬を染めて、「あたりまえだろう? 切れ味鋭いへし切長谷部だぞ」と胸を張った。くすぐったくてますます笑いがこぼれた。
長谷部の強さが何よりも愛しい。きらきらと輝く星に見つめられて、体温は上がり続ける。
「……天然にはかなわないなぁ。からかっても面白くない! こういうやつらをバカップルって言うんだぞ! あー暑苦しい!」
ぽかんとしたままの包丁の隣で珍しく静かにしていた鶴丸が、耐えきれなくなったのか急に声を張り上げた。耳を押さえながら包丁も負けじと叫ぶ。
「流石の俺でもこれは言っちゃうね……甘すぎる!! そして、いまさら!?」
「ははは、違いない」
「ちょっとにぶすぎない? 鶴丸さん教えてあげればよかったのに」
「こういうことは自分で気づかなきゃだめじゃないか、やぼだろ」
「ふーん、本音は?」
「ずるいだろ、人の身を謳歌しちまって」
「あなたがいう?」
「おいおい、俺は足りないぞ! 全然足りてないぞ! あいつら楽しそうなのに混ぜてくれないしよ。ずるいだろ!」
「あ、構ってもらいたかったんだ〜」
「ぇ、おいおい、……なんだそれ……恥ずかしいな」
正面でまた柔らかな音が弾けて目を向けると、耳まで真っ赤な顔で屈託なく笑うという器用なことをしているふたりがいて、しかめっ面をしていた鶴丸と包丁も堪えきれずに吹き出した。
「なんかふたりの笑顔、悪い顔だよね、にたぁって感じ……似てる」
「へったくそだなぁ」
ざわめきも耳に入らないくらい、恥ずかしさと嬉しさでいっぱいのふたりは、周りに気味悪がられながら仲良くプリンを半分こし、形の変わったふたりの関係を噛み締めた。
人も物も未来に向けて自ずと変わり続ける。それはきっと悪いことではないと長谷部が教えてくれた。苦しくとも悲しくとも何が待ち受けていようとも、大倶利伽羅はひとりでいいとはもう言えないだろう。
「お、楽しそうだね」と背中から覗き込んだ審神者を、大倶利伽羅が積もり積もった恨みの条件反射ではたいて長谷部と喧嘩になるのは、また別のお話────。
07/07/2017