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​Kitten

 

 

 

 

 

 猫を拾った。それは俺──相州廣光──の部屋「202」と書かれたおんぼろのドアの前に小さな身体でうずくまっていて、こんなところにいられたら誰だって無視はできないはずだ。もう俺が拾うしかない流れじゃないか。

 便宜上猫と言ったけれど、厳密に言えば猫じゃないかもしれない。小さな身体に小さな三角の耳と長い尻尾を生やし俺の手の中でくぅくぅと眠っているから猫のような気もするが、その身体は小さな小さな人の子供のようで、いいとこの子のような白いシャツに紫色の半ズボンを黒いバンドでとめ、細かいことに靴下留めまでしている。俺のくたびれたスニーカーとは対極の黒いピカピカした革靴を履く猫。今時は服を着る猫もいるにはいるかもしれない、かろうじて靴を履くやつも、けれど、流石にこのぷにぷにとした頬は持っていないだろう。ミルクティー色の髪を撫で耳の根元をかき、コスプレなどではないと確認していると、気持ち良かったのか口元をもにもにと動かし、眉間に皺がよった寝顔がふにゃりと緩んだ。土方仕事終わりのくたくたの身体に電流が走り、恐る恐る下を見れば、どうしたことか勃っていた。最近は暑く厳しい現場が多いから、思っていたよりも疲れているのだろうか。

 なんだか得体の知れないものに出会ってしまったが、こんなぴかぴかした猫を外に放り出して置くことはできない。眠る猫もどきをそっと抱え直し、歪んで立て付けの悪いドアを開けた。ドアの軋む音を聞いてぴるぴる跳ねた耳に「……かわいい」とつぶやいてしまったのは……しょうがないことだ。

 冷えたビールと牛乳が入ったコンビニの袋を片手に帰宅する。ドアを開ければ、猫に迎えられる生活は思っていたよりも快適だった。コンビニでどうせなら美味しい方がいいだろうと、熟慮の末に「おいしい牛乳」と書かれたものを買い、帰宅を喜んで飛びついて来るでもなく座布団の上で丸くなった猫にちろりと胡乱げに見られるのは、ほっとするものだ。

 はせべは愛想がないのがいい。そう、家に置くにあたって「はせべ」と名前を付けた。俺の好きなサッカー選手の名前だ。何も思いつかなかったとも言う。名前の通り下を確認したら雄で、確認中はすごい脚力の足で蹴られ続けた。よくよく考えればその絵面は犯罪臭がぷんぷんで、いいとこの坊ちゃんのズボンを下ろす不良、にしか見えなかっただろう。隅で怯えたような様子で震えているはせべに機嫌を直してもらうまで苦労したものだ。正直すまないことをした。はせべにも矜持というものがあるだろう。

 そういえば、はせべが人のように見えるのは俺だけらしい。拾った翌日にスマフォの写真を見せ同僚に自慢したら、見事に話が合わなかった。

 

「へぇ、猫拾ったのか~案外優しいやつだもんな、お前」

「最近の猫は靴を履くのか?」

「え? 一般的には履かないんじゃねーの」

「こいつは人の子のような姿で服を着て、靴を履いているのだが」

「ん? 拾った時は履いていたのか?」

「いや、今も履いているだろ」

 ぐっと画面を近づけても、普段からぼうっとした同僚は疑問だらけの顔をして、「お前疲れてるだろ」とのたまった。

「この写真、靴なんか履いてねーぞ。あれか、靴下模様の猫ってやつ? でもないし」

 可愛さに関してはまわりも認めるところだったが、どうやら彼らには普通の可愛い子猫に見えているらしい。その日はやたらと体調を心配されて、一番楽な場所に配置された。

 

 帰宅し落ち着くと、ひとつしかないマグカップに牛乳を注ぐ。はせべは丸まったままピクンと耳を動かし音を聞いている。興味ありませんという態度を取ろうとして、しきれていないのにきゅうと腹が鳴く。耳とか尻尾というのは正直なものらしい。それを言うなら、俺の下半身も正直なもので、いじらしいさまや無邪気なさまを見せられると、どうにも劣情を催す。いや、断じて俺にはショタや獣姦なんて趣味はない。断じてだ。

「そら、牛乳だぞ」

 テーブルに置いて俺もビールを喉に流し込もうと缶を開ける音にまたひとつ耳を震わせせ、やっと起き出したはせべはおずおずとマグカップに小さな手を伸ばす。はせべはあまり鳴かない。声がでないのかと疑ったこともあったが、喉をくすぐり確かめた時に「ミ」と小さく鳴いたので声帯に問題はないのだろう。一度口をつけてしまえば止まらずに勢いよく喉を鳴らして飲み干したはせべは、けふっと小さく息を吐き出す。その小さな控えめに響く音が、どうも大倶利伽羅の腹の奥をくすぐり、無言で震える羽目になる。

 不思議なことに長谷部は牛乳を飲む以外は食事をしない。猫の食べられそうなものを調べて与えても、一口も口をつけない。衰弱する様子もないのでそんなものかと思うことにした。存在に慣れてしまっているが、こんな猫は世の中にはいないはずなんだ。不思議だらけで結局何なんだ? 妖怪? 概念としての猫? 考えればきりがない。

 実家では犬をずっと飼っていたので犬ならば慣れているのだが、やはり猫の生態は勝手が違う。実家にいるドーベルマンのミツタダは、厳しく強そうな外見とは反対に陽気で人懐こいやつで、今でも俺が実家に帰れば遊ぼう遊ぼうと全力で体当たりしてくる。馬鹿力なので正直痛い。はせべは俺に遊んでくれという素振りはなくて、物静かに眠っていることがほとんどだ。子猫なのだから普通はもっと活動的だと思うのだが。我慢できなくてこちらが構ってやろうと手を伸ばすと嫌がる素振りでもないので、完全に構われたくないというわけでもないらしい。気難しいやつだ。でも、そんなところがウマが合うというか、一緒にいて心地いいのは確かだ。例えば、犬ならば彼らの中で明確な序列をつけて、自分が主人と定めた人間に忠誠を誓う。また、基本的には人というものが好きだし構われるのも好きな方だ。猫ははせべしか知らないが、たぶん俺のことをうるさい隣人ぐらいに思っているのだろう。好き勝手に過ごすのに、同じ部屋にはいるという絶妙なさじ加減の距離感が好ましい。気安い外見でもないのに、何故かまわりからお節介を焼かれることの多い俺には落ち着く空気だ。

 満腹になったのか、またお気に入りの座布団の方に向かおうとするはせべをすくい上げて、膝の上に乗せる。

「ミ」

 不快そうに目を細めるのすら可愛い。だが、牛乳分ぐらいは仕事終わりで疲れた俺を癒してくれてもいいのではないだろうか。どこもかしこも柔らかくフニフニとした身体を撫でながら、ふと思いついてマッサージをしてやる。最初は迷惑そうな顔をしていたが、時間が経つごとにとろけていくのが面白い。これでも実家の犬たちをマッサージで虜にしてきた腕を持っているのだ。真っ白なスタンダードプードルのツルマルはこのフィンガーテクの虜で、捨て犬だった経緯から愛らしい見た目とは裏腹に気難しいところのあるツルマルも俺には慣れてくれている。

 大型犬とは違って折れてしまいそうな骨の感触を感じながら、肩の周りや背骨の周りを揉み込んでやる。頰が上気してフゥフゥと息を吐く様にいけない気持ちになりそうだ。首から下に背骨をたどっていき最後に尻尾の付け根に指を沈める。自由に動く尻尾を持つということはそれを支える筋肉も凝っているのだろうか、コリコリとした感触を感じながら入念に揉んでいると、力ない声が聞こえた。

「ミィ、……ミュ、ミュ」

 思わず手が止まってしまう。触ってはいけないところだったのだろうか。とろとろになって喘ぐように息をしている様に正直くるものがあったが、パッと手を離し深呼吸しながら慰めるように頭を撫でてやる。何度も何度も手を往復させれば、その体温に俺もはせべも落ち着いたようだ。

 この猫もどきという随分と可愛らしい怪現象はなんなのだろうなと今更ぼんやり考えながら、意味なくシルバーの缶に書かれた成分表を見つめていたら、止まってしまっていた手に柔らかいものが擦り付けられている。こちらを見上げたはせべが俺の手に頭を擦り付け、撫でろと催促しているではないか。たまにこういった無防備な甘えを見せてくるからタチが悪い。猫の奴隷となった人々の気持ちがよくわかる。もういいと嫌がって柔く爪を立てられるまで、存分に撫で回してやった。

 

 

 

 最近の俺には悩みがある。不思議な猫のことはいい。あれが家にいるのは当然のことだ。そのはせべにはもうひとつ姿に関して不思議なところがあると最近気づいたのだ。深夜の時間帯に、はせべは大人の姿になっている。ああ、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。

 夜、隣で丸くなったはせべを潰さないように、と思いながら眠りに落ちた俺が寝苦しさを感じて覚醒すると、明らかに成人した男の寝顔が間近にあったのだ。身体に絡みつかれ身動きができない状態で息を飲み、月明かりの中、目を凝らせば、男は年齢は俺より少し上ぐらいで睫毛が長く綺麗な顔をしている。頰にかかる髪色がはせべと一緒なことに気づいて目線を上げると、しっかりとそこには三角耳があった。腕にさわさわと触れている尻尾の感触を感じながら寝顔をじっくり観察して、なんとなくはせべが成長すればこんな風になるだろうなという気になった。可愛いというよりは儚く綺麗な顔が間近にあることに、ひどく落ち着かない気持ちになって思わず目を閉じ、ぷすぷすとした寝息を聞いて俺より少し低い体温を感じているうちに、自然とまた眠ってしまっていたのだ。翌朝、隣にいたのは丸いまんじゅうのままの小さなはせべで、撫で回す俺を迷惑そうな目で見ていた。確かに最近夢見が悪いと思っていたが、夜はこんなことになっていたとは。

 どんな形になろうとはせべが可愛いのは揺るぎない。問題は俺の身体の反応だ。どうもぎゅうぎゅうと抱きつかれ、はせべの甘いミルクの匂いがする息に包まれながら眠っていると、擦り付けられる感触に身体が反応してしまうのだ。前からきゅうと腹の奥が鳴く感覚はしていたが、最近ではくすぶるものが大きくなっていて良く眠れない。

 また、寝ている時だけならまだしも、子猫の時にも身体が反応してしまう。ある時など腕にある龍の刺青に噛み付かれ悶絶するはめになった。まさか魚と間違えたわけではないだろうが、ある時、何を思ったのかはせべはかぷりと俺の腕に噛みついた。その小さな歯は皮膚に穴を開けることすらできなかったのだが、納得がいかないのか首をかしげては何度も噛み付くのを繰り返したはせべは最終的に諦めて、上目遣いでこちらを見ながら慰めるようにあとがついた鱗を舐めたのだった。その柔らかい舌の感触にぎゅうと胸を締め付けられ、甘く苦しいのに下半身は勃つ。男は即物的だ。それは別に悪くないが、このまま無理やり手を出してしまったらと思うとこわくなる。子猫の服を剥いてとろとろに甘やかしたり、成猫を寝ている間に手篭めにして泣かせたり……ああ、想像するのはよくない。最近は家に帰るのが億劫で、今まで断っていた飲みの誘いに乗って眠たくなるまで酔ってから帰っている。

 今日も家に帰れば丸まっているはせべ。その姿は変わりないのに前よりも胸をざわめかせ、こちらを見ないで動く耳のいじらしさが、辛い。

 

 

 

 

 猫がいない。すぐ帰ってくるだろうか。

 

 

 

 今日も猫はいない。もう何日も姿を見ていない。

 俺が頭を撫でて、溜め息混じりに「お前、帰るところないのか?」と言った次の日からだ。今から思えば、はせべは少し寂しそうな顔をしていた。何故あんなことを言ってしまったのだろう。

 帰っても何の気配もないぽっかりと空いた部屋を見て、これが寂しいということかと思った。どうしたらいいか思いあぐねていたけれども、離れたいわけではなかったのだ。小さく響く足音も、甘い呼吸も、手に擦り付けられる温もりも、その不在が堪える。

「はせべ」

 本気で飼うつもりがないなら、名前を付けてはいけない。情が移るからな。そして、直ぐに引き取り手を探すこと。犬屋敷の主である兄貴が以前言っていた言葉がどうしようもなく沁みた。最初から俺は得体のしれない猫をよそにやる気なんてなかったのだ。

 寂しい空間ばかりの冷蔵庫で、ぽつんと飲まれるのを待っていた期限切れの牛乳を流しに捨てる。立ち上る牛乳の匂いが嫌で、勢いよく水で流した。

 

「ふんふんふっふーん、ふんふんふふーん」

 久しぶりに盛大に飲んで、まさに酔っ払いの廣光は満月を目に映し、調子はずれな鼻歌を歌っている。ふと、そのメロディが「犬のおまわりさん」だと気付いて自分らしくもなく、月に向かって「そんなつもりじゃない!」と叫びたくなった。未練がましくて嫌になる。

「お前、最近元気ないからよー。今日は俺のおごりな。女にでも振られたんだろ? ちょっと前まで真顔でデレデレした空気だすとかいう器用なことしてたのによ、今はこわい顔でしょんぼりした空気だしてるぜ。まーどっちにしろ器用だな」

 眉を提げて笑う同僚がそう言って奢ってくれた気遣いに満ちた酒の魔法も覚めてしまったようだ。女に振られた時よりタチが悪い。急に悪酔いしてしまいそうな沈んだ気分になり、ぎぃぎぃ煩い戸を開け布団に倒れこんだ。

 

 何かが俺の頭を撫でている。重たいまぶたを開けば、随分とぼやけた視界に俺よりも遥かに大きい人が映る。

 おかしい。いくら大きいにしても俺の頭を片手で包めるくらいの大きさとはおかしいのではないか。自分の手を確認すると、もちもちとしてとても小さい手に見える。俺が小さいのか? 寝転がった身体に感じるのは自室のベッドではなく薄い布団の感触。俺の目の前の人物は眠たげな声でつらつらと何か喋っているが、何度瞬きをしても視界は明瞭にならず、成人男性ということしかわからなかった。

 

「……ずっと龍がいる腕の男に守られていた……でも、もうあの腕に甘えてはいけないな。いかつそうな雰囲気とは裏腹に優しい仕草の男だった。……優しいから長くなればなるほど変に責任を感じてしまうかもしれない。……ああ、何を言っているんだろう。夢だった。夢……なんだろうな。いつまでもこのままでいられないと気付いてしまったら、もう夢を見なくなった。丁度良かったんだ。だらだらと寝て過ごしている俺は喜んでもうずっと眠り続けてしまうかもしれないものな。なにもかも嫌になって眠りに癒しを求めても、……必ず覚めなきゃいけない。俺は何にでも依存してしまって、取り返しがつかなくなるんだ……でも、あたたかいのは、いいな……」

 力加減を知らない手で俺の頭をかき乱し、男はへくちっと間抜けなくしゃみをした。

「俺も猫でも飼えばいいのだろうか? でも猫アレルギーだからな。本当はお前も抱っこしたらいけないんだぞ。それに……俺は撫でられる方が好きだ」

 この男ははせべなのだろうか。ぼやけた顔の輪郭は確かに覚えがある。お前を待っていたんだ。

「みゃ」

 焦ってなんとか「はせべ」と呼んでやりたいのに喉から産み出されるのは、切実さのかけらもない腑抜けた鳴き声だ。はせべは俺の腕を撫で、「お前も龍を飼っているのか」と囁くように言い、「ふふ。小さくてもかっこいいな。金色の目によく合う」と小さく笑った。

「みゃ、みゃ」

 ――はせべ、はせべ

「くちんっ、夢でも……アレルギーはでるのか……小さい猫型人間はいるし、すごい夢だ……でも、このあたたかさは手放したくないなぁ……」

 静かな寝息ばかりが響くようになった空間で、この感触だけでも残ればいいと俺はひたすら胸に頭を擦りつけていた。




 

 ファンタジーな夢から醒めて、そんなに俺は疲れているのかと寝癖だらけの頭を掻き乱す。喉が乾いて冷蔵庫を開ければ、ぽつんとビールがあるだけで溜め息が出た。ヤケになって休日の朝ビールを決めて、流しの水切りに置かれたマグカップを見つめる。あの猫がいなくなってから随分と経ったが、記憶が薄れて忘れるどころか、変な夢も見るし、癒しがないからか、らしくもなくイライラとするし、慰めにペットショップを覗いてみても違うと思うばかりだ。ただの猫じゃない。あの猫が欲しいんだ。はぁと吐いた深いため息に重なるように、くちんっ、気が抜ける音が小さく響いた。

 玄関の戸を隔てた廊下で特徴的なくしゃみが連発されている。くちんっ、くちんっ、徐々に遠ざかって行ってしまう音に急いで戸を開けると、廊下の先206号室の前で鍵を探している珍しい色彩の男が目に入った。ぼさぼさの甘いミルクティー色、ぴしりとした恰好の猫とは違ってだるだるの長そでシャツにジャージ、つっかけたサンダル、髪の色しか一緒のものはないけれど、あの猫だと思った。

「はせべ!」

 駆け寄り叫ぶ俺の声にびくりと肩を揺らした男がこちらを見る。乾いた唇に不健康な顔色、眠った時だけ会える成猫、そして、猫になった俺が出会った人物とおそらく同じ顔。

「……なんでしょう?」

 くちんっ、またひとつくしゃみをした男の不審者でもみるような警戒心でいっぱいの薄紫色に光る瞳がまた猫のようだ。寝癖だらけでくしゃくしゃの服を着た男に迫られたらそうなるのも無理はない。

「はせべなんだろ?」

「確かに俺は長谷部ですが……あなたは? くちっ、すいませんアレルギーなもので。猫を飼ってらっしゃいます?」

 距離を置くようにすっと後ずさる。

「猫は飼っていないが一緒にいた。俺は相州廣光だ。202号室に住んでいる」

 怪しいやつだと思われているのがわかっても気ばかりが急いて、いつも足りない言葉がもっと足りなくなる。

「はぁ、どうも」

「猫がいなくなってしまって寂しいんだ」

「……はぁ、そうですか」

「ミルクティー色の髪に、紫色の目をしている」

「……ちょっと、俺は見かけてませんね」

 良く見える視界に映る長谷部はくたびれた雰囲気でどこか陰のある印象なのに、それでも綺麗だった。俺の家で丸くなるあの素直じゃないふわふわの毛玉を離したくない。

「一緒に住もう」

「…………はあっ!? なんで!」

「あんたの髪を撫でたい」

「は!? ちょっ! 警察呼ぶぞ」

 冷たい手をとり、自分の頬に当てさせた。

「はっ!? ちょちょっ!」

「目を見てくれ」

 慌てる長谷部に構わず、必死でその目を見つめる。

「え……金色……猫?」

「腕も」

 腕の龍を示してやれば、きょとんとして面食らっている。

「え……だって夢……」

「なあ、俺に飼われてくれないか」

「は……もうなんだこれ、はは」

 力なく泣き笑いの表情をする長谷部の髪に手を差し込み思う存分撫でた。久しぶりの感触にぶわりと胸が満たされた。

「こら、勝手に触るなっ……、あーそんなにしょんぼりするのもやめてくれ……」

 俺は表情が変わらなくて何を考えているのかわからないと言われるのに、良く分かったな。ただの猫じゃない、この猫がいいんだ、とじいっと潤む紫色を見つめて懇願する。拒否されるのなら、なんとかして手に入れる算段をつけねばならない。若い頃、どうしても欲しい美しいフォルムの自転車があって、それを手に入れるために必死でバイトをした記憶と、欲しがるという心の中が燃えるような気持ちを思い出す。人は本当に欲しいものにはなりふり構っていられない。生活をすることばかりに気を取られ、欲しがることを久しく忘れていたことに気付いた。

「あんたを飼いたい」

「くっ……お前いつか言葉が足りなくて刺されるぞ」

「本心だ」

 目を瞠って俯いた長谷部は呻きながら自分の髪をかき回して、がばりと顔を上げた。

「あーもうっ、俺は少し前に会社を辞めて無気力にだらだら過ごす絶賛ニートな若くもない男だ……いいのか?」

「あんたがいいんだ」

 この寂しい猫は俺のものであるはずだと思った。またくちっと音がして、気が抜けるくしゃみが俺の胸を震わせる。家にはいつも犬がいた。小さきものは人よりも直ぐに死んでしまう。幾つも見送った死にいつしか、動物も人もそういうものだと諦めに近い感覚で受け入れた。例え死という決定的な別れでなくても、近づいたり離れたりすることはただ受け止めるものだと思っていた。それが、別れが当たり前でも、例え今だけでも、離したくない。

「はぁ、こんなに素っ頓狂なやつだとはな……お前の家にアイスはあるか? あと、ビール」

 冷蔵庫にビールはいつも入っているが最後の一本を飲んでしまったし、甘いものを食べる習慣がないのでアイスはない。何でだと長谷部を伺えば、クマができた眠そうな目が幾分楽しそうに輝いている。

「俺を飼ってくれるんだろ? 餌ぐらい用意してくれないのか?」

「買ってくる」

 階段を高い音を響かせて急いで降りコンビニに走る俺に、二階の廊下から長谷部が言う。

「エビスとハーゲンダッツのバニラだからなー」

 ちゃっかりとした要求が猫らしくて笑ってしまう。

「あと……帰ったら、御主人様の名前も教えろよ」

 そして、続くひそめられた小さな震える声は俺の胸まで震えさせた。長谷部に向き直り開けっ放しの自分の部屋を指差す。

「202、中で待っていてくれ」

 頷いた長谷部が、「あ、タバコ……JPSも……」と今更遠慮がちに言うのがおかしい。

 些細なわがままくらいいくらでも叶えてやるさ、あんたが出迎えてくれるなら。



 

 ──ある満月の夜、俺は無気力で寂しがり屋の猫を拾った。その猫は甘い色彩をして、俺の隣で良く眠る可愛いやつだ。

 

 

 

​08/09/2016

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