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sugar, water,vodka.

 

 

 

 

 

 そろりと箱を開く。ポコポコしたおうとつがキラキラと光る豪奢な外装は、きっと高価な焼き菓子に違いない、と確信をもってとにかくお菓子に目がない包丁藤四郎は静かに唇の端を上げた。重みからいって中身がぱんぱんなことは明白だった。

 お菓子はいい。肉の器を得てよかったことのひとつだ。口の中に甘さが広がった瞬間の幸せなことといったら。

 常に持ち歩いている鞄いっぱいに詰め込む様を思いうかべ包丁は────、

「ええ!?」

「うるさいぞ」

 予想外の中身に思わず出た声に重なって咎める声がした。箱の正当な持ち主であり、この部屋の住人でもあるへし切長谷部は、書き物をしていた机から離れると戸惑いと落胆で眉を下げる包丁を見やって小さく笑った。

「なにこれぇ。詐欺だよ〜罠だよ〜お菓子がいっぱいだと思うじゃん」

 箱の中には鮮やかな色をしたハンカチにリボン、折り紙にペン、手のひらサイズのクッションに、他にも極めて小さな猫の人形や帽子、果ては精巧にできた番傘までが、きっちり区画にわかれて丁寧におさまっていた。まるで人の子がするお人形遊びの道具一式を見つめて、包丁は閃いた。

「もしや……! 長谷部さんには隠れた趣味が!?  秘密にしたければお菓子を、って!」

ぴしりと額を指で弾かれた。

「ちがう」

「だって、それ以外理由ないじゃんよ〜ごまかそうとしても無駄なんだぞ!」

 みんなに言っちゃうぞ!  言っちゃうぞ! と囃し立てる包丁を呆れたように半目で見ていた長谷部は、大きなため息をついて唇を開いた。

「……それにまつわるおとぎばなしをするか」

「なになに? それおもしろい?」

「……こわーい話かもしれんぞ」

「おれは子供騙しな話なんかでびびったりしないぞ!」

「ふん、そうだな。むかーし、むかしの話だ────」




 

 ことはいつもの気まぐれで長谷部の部屋を訪ねたことに始まる。

 暇を持て余した包丁は軋むような感覚のする身体の違和感には目をつぶり、寝てばかりいてはもったいないと探りがいのある空間に転がり込んでいた。

「家探しするなら俺のいない時にこい」

「誰もいない部屋を探っても面白くないじゃんよ〜。ぐぇ」

 棚に収めるでなく部屋の隅に積まれ放って置かれている本をぱらぱらとめくると、びっちり詰まった字に思わず苦悶の声が出てしまった。めくっているうちに、はらり、こぼれ落ちてしまった栞を慌ててつかまえつつ、背後をそろりと伺う。こちらに背を向けて机に向かっている長谷部の、ぴんと伸びた背中は変わらずにそこにあり胸をなでおろした。おおよそここらへんだと思われる場所に、手早く栞を滑りこませようとしたところで手が止まった。ふっと甘い香りがした気がしたのだ。自他ともに認めるお菓子フリークの包丁は甘味の存在を感じさせる匂いには敏感だ。

 紙の匂いにまぎれてひそむ香りの元である栞を、まじまじと見つめる。

 最近発表された学術書だと思われる新しい本には不釣り合いな古ぼけた栞だった。小ぶりの押し花のみのそっけない紙片に色褪せたリボンが結ばれ、きっと手作りなのだろう、端の処理などにどこか粗が目立つ。押し花からも香りはするものだろうか、首をかしげつつ、もはやどのページに挟まっていたのかまったくわからなくなってしまった栞を適当に戻して放った。

「丁重に扱えよ」

「えへへ、もっちろん」

 こちらを見ずに長谷部は平坦な声を出した。午前の出陣の報告書か今週の資材の収支、もしくは、彼の個人的な習慣である細かな覚え書きを書きつけているのであろう背中は、包丁がこの場に生み落とされてからというもの変わらない。主命に関することを別にして、長谷部は余計なことを言わない。だから、包丁は勝手に彼の部屋で暇つぶしをしていられる。油を売っていたら怒られただろうが、昨日の出陣でヘマをした包丁はすっかりなおったというのに、大事をとって今日は休みなのだ。

 審神者と呼ばれる刀たちの所有者は、慎重にことを進める気の弱そうな女性だ。人妻とはいかなかったので包丁の好みからは外れているが、もどかしさを感じることは多々あれども、まぁ、悪いひとではない。厳しくて素っ気なく見える長谷部も。

 厳しいのは確かだがそれは自分にも他者にも等しく同じであるし、まとわりつく包丁を決して邪険に……することはあるが、自由時間は好きなようにさせてくれる近づきすぎない距離感を包丁は気に入っている。風紀の面では口うるさいところがあっても、日常では静けさを好む長谷部の部屋がとにかく好きなのだ。面白いものは何もないが、包丁の思いつきに真面目に答えてくれる、打てば響く空間が。

「うぅ〜〜ん」

 物の少ない長谷部の部屋をあさるのに飽きた包丁が、気の抜けた声を思いっきり出して背を伸ばすと、まだ見ていない押し入れが目に入った。声に驚いたのだろうか、長谷部が書き損じに横線を勢いよく書く音がする。彼は頑なに修正液や消せるペンを使わないのだ。

 にんまりと口の端を上げた包丁は、そして、押し入れに詰め込まれた空き箱の数々の奥で、丁重に風呂敷に包まれた箱を見つけたのだった。



 

「まだこの本丸が発足して間もないころの話だ。人の身を与えられて戸惑う刀と、優しいがゆえに刀に怯える少女がいた。刀は困惑しながらも自分に力与え生み出したものに、己の手で報いられる環境に張り切っていたのだが、ことごとくやることなすことが裏目に出る。あまりにも不器用過ぎたんだ」

「長谷部さんと主さんだろ」

「おい、野暮なことはいうな。……気後れして刀に強いことが言えない少女に、刀はできることがないかと主命をせまる毎日だったのだが、それが重圧に感じられた少女はなおさら刀に遠慮をして遠ざけることとなった」

「だから長谷部さんでしょ」

「おい! ……まぁいい。ぎくしゃくした刀と少女の関係は他の刀が間に入ろうと改善しなかった。その刀が筆頭ではあろうが、少女は等しくすべての刀にどう接したらいいのかわからないようだった。刀たちも少女は自分たちが嫌いなのではないかと誤解していた。表面上は問題なく運営できていたが、よそよそしい空気だけが消えなかったのだ。そんな日々を過ごすうちに俺は睡眠中に悪夢を見るようになった」

「やっぱり長谷部さんじゃん!」

「……深く眠れず夜中に何度もうなされ目が覚めるようになり、俺は道場に向かい素振りで身体を酷使してから寝るようになった。多少はよくなったが、それでも眠りには苦しさがつきまとった。寝苦しい夜を重ねていたある日、うなされ意識が浮上した瞬間にふっといい匂いがして気分が和らいだことがあった」

「誰か夜中にお菓子焼いてたの?」

「ちがう。翌朝枕元には小さな花が一輪落ちていたんだ。……それが何日も続いた」

「え? 毎日とか逆にこわい。誰?」

「いっそのこと起きていて確認してやろうかと思ったんだが、ただでさえ眠りの質が悪いのにこれ以上疲弊しては出陣に触りがでると、害はないことだし放っておいたんだ」

「え~流しちゃうの。おおざっぱなところあるよね、ほんと」

「そしたら、花だけではなく歌が聴こえるようになったんだ」

「こわ!」

「それがまたいい声で、俺はぐっすりと眠れるようになった」

「え~~? そこでそうなる~?」

「まぁ、でも誰かが毎日枕元で睡眠をけずって歌っているのはかわいそうだなと思った俺は、体調も良くなってきたことだし捕まえるために起きていることにしたんだ」

「うん、気にするところおかしいし、決意するの遅い」

「寝たふりをし、いつもと違うと怪しまれるだろうから、時々うなされる演技もしつつ時を待った。何度目かに迫真の演技をした時だった。……耳元で歌が聴こえた。俺が瞬時に音のもとに手を伸ばすと、感触がおかしい。誰かの身体にふれるかと思ったのに、すっぽりと手の中におさまってしまう何かが蠢いている。慌てて灯りを付けて確認すると、」

「…………」

「ぎゃ~~~~!!!」

「ひゃあ~~~!!……び、びっくりさせるなよォ」

「そこには小さな人間のような生き物が動いていて、思わず叫びながら俺は主の部屋まで走った。取り乱した俺が手の中に閉じ込めたものを主の眼前に差し出すと、主も、ぎゃー!っと叫んでいたな。何事かと本丸中の刀たちが集まる中心で、その小さなひとは平然と座っていたがな」

「わーぉ……とっても騒がしい夜だね」

「その小さなひとは主の持ち物である人形だったんだ。戦争の合間に人形遊びをしてるなんて軽蔑されると思って、押入れの奥に隠していたらしい。小さな小さな声で教えてくれたよ。子供じみた趣味であることを主は恥じているようだった。どうやら人形は霊力に満たされた本丸で保管されるうちに意思を持ったようで、たまにそういう事例があると問い合わせたら政府が教えてくれた。そのうち物の耐用限界がくるから騒がしいが放っておいても問題ないと」

「どんな人形だったの? かわいい?」

「大倶利伽羅だ」

「は?」

「大倶利伽羅そっくりの人形だ。小さいながら精巧にできていてな、目つきとかそっくりだったぞ。本来はぬーどるすとっぱーという用途に使われるやつらしい。他にも加州清光の姿のものが販売されているとのことだ」

 大きさはこのくらいだな、と長谷部は胸の前で両手を開いた。本丸にいる大倶利伽羅の姿を思いうかべて、かわいくはないなと包丁は内心で頷いた。

「おまえのお菓子も大事に隠していると、喋り出すかもな、食べられたくないと」

「げ」

「……騒動をきっかけとして、驚いたり好きなものがあったり、お互いそう変わらない存在だと気がついた刀たちと少女は、徐々に胸のうちを話すようになった。主は刀が嫌いなのかと誤解していたが、むしろ好意にあふれていて恐れ多いと感じているがゆえに、意思の疎通がうまくできていなかったとわかると、ぎこちなさは消えないが主と刀の間には信頼関係が少しずつ築けるようになっていった」

「話すのは大事だよね~」

「きっかけを作った人形の大倶利伽羅、通称から、はそしらぬ顔をしていたがな」

「大倶利伽羅さんと一緒だ」

「いや、人形だから表情まではあまり変わらないんだ」

「ふぅん、そこは物のままなんだ」

「体温もない。あくまで身体は物なんだが、動く手足と自由な意思をもったということだ。あと、しゃべることもできた……ただ、話すことはできるんだが、何を話しているかはものすごく近くに寄らないとわからなかった。どういう仕組みかはわからないが、距離があると音がしているのはわかるが言葉だと認識できないんだ」

 

 低くやわらかな質感の声だった。

 

 思い出すように長谷部は小さな道具たちを見やった。

「……同じ刀でも遡行軍とは言葉通じないし、何かが違うのかなぁ……違う国のひとみたいに」

「……そうかもな。彼はどうやら箱を抜け出して、本丸の敷地内で隠れながらサバイバル生活をしていたらしい。事件のあとは自由気ままに動いている姿が本丸内で見られたよ」

「そこは大倶利伽羅さんっぽい。急いでたら踏んじゃいそうだね」

「実際、軽い事故はあったがな……彼は、なぜか俺のあとをよくくっついてきたものだから、言葉の問題もあって、俺はよく彼を肩に乗せていた。……寝る時も離れないので一緒に寝た。変わらず花や歌を贈ってくれたな」

「じゃあ、長谷部さんはぐっすりだ」

「……ああ。ある時、訊ねたんだ。なんで、お前は俺に様々なものを与えてくれたんだって」

「うん」

「耳の近くで彼が言うことには、最初のきっかけは俺なんだと。夜、本丸内を探索していた時に素振りをする俺を何度か見たらしい。彼はなんとなくその動きが気になって追いかけ、気まぐれに部屋の様子を伺っていたら中から唸り声が聞こえて、苦労して戸を開けた、と。そして、間近で観察しているうちに、無意識に動いた俺に身体をつかまれたらしい。彼は言ったよ。初めて熱を知った。俺の手の中にあることで、あたたかい、という感覚を知ることができた。あまりにも必死につかむものだから苦しかったが、ひどく胸が満たされたんだ、と。箱の中にずっと仕舞われていた彼にとって、その感覚は何よりも感動したことらしかった。だから、俺に何かを返したかったらしい」

 わからないでもない。物が意識を開花させて初めて目に映った人間を戸惑いを持って見つめていると、すっと差し出されたか弱い手に手をとられた。はじめまして、の言葉とともに握手した時の感触は忘れられない。目が覚めたら暗闇で箱に閉じ込められていた彼の、小さな恐怖と冒険を思い浮かべると、きゅ、と胸が鳴いた。

「彼は変わらず俺に小さな手に抱えた花を贈り、よく歌ってくれた。すっかり快眠できるようになっても。また、何を言っているかわからなくてもいい声なんだよな。主から貰った人形用のクラシックギターを抱えて、弾き語りするようになった時は様になりすぎてて笑ってしまった」

 調律とかどうなってたんだろうなぁ、つぶやきながらくすりと笑う長谷部の表情に包丁は目を見張った。あまりにもやわらかい、見たことがない種類の微笑みだったのだ。

「そのうち彼の歌は評判になるんだが、刀たちがじっと聴き入ると恥ずかしがり屋なのかやめてしまうので、みな彼が歌っていると素知らぬふりして通り過ぎたものだ。耳は最大限そばだてながらな」

「へ〜いいなぁ。長谷部さんはもちろん何回も聴けたんだよね?」

「ああ。俺にはよく聴かせてくれた。まだ、耳に残っているよ」

「それって兄弟が歌っているようなやつ? なんのうた?」

 兄弟である秋田藤四郎がよく歌っている数え唄を思い浮かべながら包丁は訊ねた。

「……普段は彼の正面に陣取って聴いていたんだが、ある時、耳元で歌ってくれたことがあって、やっとわかったんだ。よく彼がうたっている歌は愛の歌だった……俺は意外すぎてかたまった。てっきり子守唄かと思っていたんだ。……そんな俺の目を見つめて、からは最後まで歌った……物だとしても感情が込められているのはわかったよ」

「……んん? もしかして、それって告白? なんかすごくかっこいい! モテそう!」

「……さあな、彼は歌をうたうこと以外はそういったことは何も言わなかった。俺も歌の意味を訊かずに一緒に暮らした」

「え~はっきりしない男はモテないぞ! 男はきっぱりすっぱりだぞ」

 つめよると長谷部は口元だけで笑った。はぐらかすような笑みが気にくわなくて、包丁は少し意地の悪いことを訊きたくなった。

「じゃあ、長谷部さんは?」

「ん?」

「長谷部さんは好きだったの?」

 わずかに視線を己の肩にはしらせた長谷部は、ふ、と小さく息を吐き出した。勝ち気な眉が下がり、目尻が甘く垂れる。包丁は何かを言おうと思わず唇を震わせた。

 

「長谷部、失礼する」

 不意に外から声がして、肩を揺らす。

「……ああ」

 開かれた向こうにいたのは大倶利伽羅だった。鼈甲飴みたいな目がこちらを向いて、彼はこんな瞳をしていたのかと改めて気づく。

「また、宗三左文字と薬研藤四郎が殴り合いの喧嘩をしている。これはあんたじゃないと止められないと判断した」

 またか、と呆れたようにため息をついた長谷部は、よっこいしょと年寄りじみた掛け声をかけて立ち上がった。

「仲がいいのはわかるが、あれはどうにかならないのか。また襖が壊れた」

「あ〜……すまない」

「俺に被害はないからいい。ただ、困るのはやりくりするあんたの方だろ」

「まぁ、あいつらにはそのぶん働いてもらうさ。じゃあ、行ってくる」

 散らかすなよ、と言い置いて長谷部は大倶利伽羅とともに行ってしまった。

 

 ぽつんとひとり残された包丁は急に静けさが耳について心細くなった。長谷部の答えを聞けなかったことも釈然としない。

 でも、────聞かない方が良かったのかもしれない。

 開かれたままの箱を見つめる。変わらずに小さなサイズの様々な道具がそこにはあった。だが、あるのは痕跡ばかりで当の人形はいない。包丁はそんな話をほかの刀から聞いたことがない。大きな大倶利伽羅からも。

 ぽっかりとした空白があった。

 長谷部の作り話か、それとも、おいしいものほど口の中で消えるのが早い飴のように存在が消えたのかもしれない。気まぐれに命を得た人形が動ける時間が長いようには思えなかった。

 日々の営みの残り香をたどるように箱の中を覗き込むと、自分がしゅるりと小さな存在になったように感じる。小さな長靴を履き傘をさして雨の中を歩いたこともあったのだろうか。目の前には湖のような水たまりが広がり、雨粒はなんと大きかったことだろう。頭の塗装がはげている猫の理由は幾度もなでたからだろうか。人形だとしてもかわいいことには変わりがなく、見よう見まねでなでていたのかもしれない。生真面目な長谷部に熱中症になるぞと注意され、麦わら帽子をかぶって夏を過ごしていたのだろうか。畑に行ったら大きな葉に取り囲まれ迷わないように必死だっただろう。

 小さな彼は、どんな気持ちで長谷部を見上げていたのだろうか。肩から見る長谷部の表情はきっと鮮烈に小さきものの目には映っただろう。そして、長谷部は、どんな気持ちで彼を見つめていたのだろうか。

 頭に次々と浮かぶ映像には際限がない。自分の感情を追うのに手一杯だった包丁は他のものの心情を想像するのは初めてかもしれない。しかも、もう変えられない過去のことをこんなにも考えるなんて。包丁には未来しか道がないというのに。

 おそるおそる小さなギターにふれると、弦が空気を震わせる音がした。

 不揃いな音に続いて知っている歌が聴こえた気がして、頭の中で音の余韻をたどれば、それは長谷部が集中して無防備になっている時にだけこぼす鼻歌だった。

 ぐ、と喉がつまる。何かの折に見た鼻歌を歌いながら書き物をする、すぅと伸びた背中が浮かんだ。

 慎重な手つきで箱を閉めると、簡単には取り出せないが大事に守られた押入れの奥へ戻した。箱の中身はもう使われることは無いけれど、ここになければいけないのだと思った。ずっとここに置いて長谷部が暮らしていく未来まで想像ができた。

 くっとひとつ唇を引き結んで、思いついたままに机にある書きかけの覚書の上にとっときの飴を置く。簡単には舐めきれない大きな飴だ。ついでに行き場のない寂しさを訴える自分の口にもとびきり甘いのを放り込む。ばりばりと歯を立ててしまいたい衝動を必死に堪えて、舌でなでると、からころ、歯にぶつかる音がした。

 わけもなく周りを見渡して、己の周りにできた空白が滲んでいることを知った包丁は障子を開く。誰もいない長谷部の部屋は形も色も音も静かすぎて嫌いだ。

 喧騒を求めて一歩踏み出した足はどんどんと加速した。ほおを風がなでる。靴下が滑った。必死で呼吸をする。心臓が拍動する音がうるさい。汗が吹き出す。握りしめた手は少し痛い。鞄の中で飴が跳ねる音がやけに大きく聞こえる。誰かが包丁を呼んでいる。

 ────全身に満ちる〝生〟の感触を抱きしめ走り続ける。

 もっと! もっと! 俺はまだまだ走れる。



 

「おい、廊下は走るな」

 気がつけば、もみくちゃにされたのか乱れた髪のままの長谷部が目の前にいた。

 ───、痛い。

 ぶつかった鼻がじんと痺れ、口からはひっきりなしに息がもれる。よく見ると長谷部は随分とやりあったらしく、シャツのボタンをなくしてよれよれの姿だ。

「はっ、はっ、はっ、…長谷部さん、おれ、はやく出陣したいぞ。めちゃくちゃ元気なんだ」

「…………そうだな。主に言いに行こう」

 見上げた包丁の瞳にゆるりと目尻に皺が刻まれるのが映って、まだやわい小さな手にふれた硬い皮膚の感触に、くぅ、と小さく胸が鳴いた。

​11/01/2018

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