In the small box
年季の入った木のざらりとした質感を横目に、自分が三人縦に並んだとしても届かないような高い門から飛び出す。包丁は素朴な日本家屋といった風情の居住空間を目に映し、瞬かせた。屋根から何から桃色に染まっている。いくら春の盛りといえど、この桜の勢いは異常じゃないか。雨樋が花びらでつまりそうだ。庭掃除に励む五虎退が集めて山にしたそばから風が花びらを攫っていく。随分と風が強い。こんな気候の時は、目の前をいく彼──へし切長谷部──が自分の服に鬱陶しそうにするさまが見られる。何を酔狂なと思われそうだが、包丁は苛立ちを隠しもしないしかめっ面を見るのが好きだ。審神者の前での澄ました顔よりずっといい。だが、不用意に近づくとあの細長い布にしたたかに頰を張られる羽目になる。
長谷部は帰路につく間中ずっと加州と話しこんでいて、今はしきりに頷いている。手には細長い布を束ねて捕まえていて、しごく真面目な横顔と合わず間抜けだ。きっと演練の結果を受けて改善点を話し合っているのだろう。ふたりの後ろ姿に小さな違和感を覚え、ひとつ首を傾げてから長谷部の背中を追いかけた。戦績について話しているのなら褒めてもらわなければ、と言葉をねだりに。
長谷部と包丁は拾い物でも鍛刀されたのでもなく、同じ時に外から譲渡されてきた。その際に必要な処置として記憶を抹消されていたので、長谷部と以前から面識があったのかはわからないが、同僚として包丁は彼にとても懐いている。記憶がないことに不便はないが、ひどく心細くなる瞬間がままある。包丁も長谷部も習熟度が高く強いと評価されているが、成長している間の記憶がないものだから、ひどく心と肉の身体がごちゃごちゃに感じられる瞬間が、ぽつん、と訪れるのだ。
そんな時、同じ境遇の刀の毅然とした背中が隣に在ることは、とても心強い。刀の時分の喪失と比べて、二度目の喪失は孤独ではない。
いまだ議論中のふたりに近づくほどに、内容を捉えられるようになった。
「そうか。あえて下がってからの方が」
「あそこで兵を失っても意味がないだろう。時には時間をかけた方がいいこともある。今回は特に、馬なしの条件だったからな」
「うんうん」
解が出て弾けるように笑った加州の表情が眩しい。包丁は彼を見ていると無意識に目を細めてしまう時がある。
「ほんと長谷部って頼りになる、戦力としてはもちろんだけど、冷静で慎重だから……でも意外だったよね。他のところの長谷部見てると血だらけで笑って捨て身の攻撃して、特攻が好きそうな感じがしたから」
「たまたま血の気の多い個体を見たんじゃないか? ……とにかく生きてこそだろ」
「そういう言葉を使うようには、どうしても見えなかったんだよなー。ま、でもそうだね。うちの主と相性ぴったりだよ。包丁もね」
背後に控える包丁に気づいた加州に笑みを返す。まだ、己の主という存在には慣れないけれども、力になれているなら何よりだと思う。長谷部と包丁以外はまだまだ練度が低い。指示をするのが物慣れない様子の青年が、刀が無事に帰ってくるたびにホッとした顔をするのを見るのは悪くない。中にとろりとした蜜が詰まった飴玉のようで胸がぷくりと膨らむここちがする。
「でも、ふたりとも強いのに、騎馬術と刀装作りはさっぱりなのが不思議」
クスクスと笑うのに長谷部が苦笑を漏らし、「誰にだって得意不得意はあるさ。真剣にやっているのになぜかいつも真っ黒になるんだ」とぼやいた。包丁ですら色付きぐらいは作れるというのに、厳しい表情で作り出される真っ黒な炭は、ある意味芸術品だ。
「加州〜」
玄関から柔らかな声がして、せっかちだなぁ、また後で、と手を振り加州は審神者の元に急いだ。ソワソワと身体を揺らしながら執務室に向かう青年の背中は微笑ましい。帰ってきたのだな、という感じがする。
隣で同じように足を止め、見送っていた長谷部の横顔をみやり、ちょいと袖を引いて耳元に囁いた。
「今日、何かもらっていたでしょ、あのひとに」
ぐぅと喉を詰まらせた長谷部を見て、包丁はにやぁと笑った。
演練施設にはある風変わりな刀がいる。長谷部が彼から何か小さな箱をもらっているのを、包丁は見逃さなかった。いつのまにかそれなりの時が流れて、ふたりは贈り物をする仲にまでなったのか。
彼と長谷部が出会った瞬間を包丁は今でも鮮明に思い出せるが、それはあまりに不審な出会いだったので、思い出すたびに苦笑いが遅れてついてくる。まだまだこの本丸にも馴染めていなかった頃、包丁が長谷部の後ろを離れなかった頃の話だ。ひらり揺れる服の裾を追う、金魚の糞状態の包丁に長谷部は不思議そうな顔をしつつも遠ざけはしなかった。試合の合間の休憩時間に、飲み物を買おうと長谷部が自販機に向かった時も包丁は付いて行った。
「お前は何にする?」
「どうしよっかなぁ。今日の季節設定暑かったから〜。長谷部はいつもの?」
「いや、うーん……」
こういう時は優柔不断な長谷部が決めるまでゆっくりと待つ。どうせ最終的にはいつも同じものを選ぶのに毎回悩むのだ、このひとは。戦での即断即決はどこにいったのだろう。
通貨がわりのカードを取り出した長谷部が、とり落とした。いくらなんでもぼんやりし過ぎだと包丁が拾う前に、すいと褐色の指が攫っていく。
「え?」
拾った人物を見上げて目を剥く。頭にバンダナを巻き、左耳には紫色のピアス、袖を捲り上げたTシャツに濃紺のエプロンをした大倶利伽羅らしくない大倶利伽羅がいた。見慣れない姿にぽかんとするふたりに構わず、カードをかざした彼は迷うことなくボタンを押し、白手袋に包まれた手に返すと何も言わずに去っていった。
「なんで……」
なんか言えよ! と思っていた包丁は驚きを滲ませた長谷部の声にハッとする。紙コップに注がれていたのは、ホットココアだったのだ。暑い時に熱い飲み物なんて嫌がらせにも見える行動は、ことココアになれば話は違う。いつも長谷部が最終的にはホットココアを頼むものだから、湯気とともに漂う甘い匂いにも慣れてしまっていた。長谷部がひとくち飲んだあとに小さく首をかしげる仕草までいつもと同じだった。大倶利伽羅という存在以外は。
そんな出会いがあって、変わり種の大倶利伽羅に包丁は多大な警戒心を抱いたのだけれど、無表情な褐色の男は演練施設に行くたび、ふたりの前に現れるようになった。もしや、ストーカーなのではと思ってしまっても仕方がないだろう。
当の長谷部は最初、毛を逆立てた猫みたいに訝しげにしていたくせに、男の存在に慣れていってしまっているのが時の経過とともに伺えて、包丁は苦笑したものだ。絆されやす過ぎではないかと。
包丁から見れば不審者である男は、演練施設の飲食店で料理人を務めているらしく、食堂で持参した弁当を食べているふたりの前に惣菜を置いていったり、お八つ時なら焼き菓子を押し付けていったりした。
最初は食べていいものか、おかしなものでも入っていやしないかと、包丁と長谷部はほかほかのだし巻き玉子を前に顔を付き合わせ唸っていたのだが、美味しそうな匂いに負けた長谷部が包丁の止める間もなく小さな欠片を口に含んだのだ。
「あっ」
喉仏が上下し、呆けたようにぱちりぱちりと瞬きした長谷部は「おいしい」と呟いた。
ままよと、と口に放り込んだ包丁も長谷部と同じような表情になり、首をかしげる。
おいしい。とびきりおいしいのだが、それだけではない。そう。知っている。じわじわと舌に染み込むこの味を知っていると思った。ふたりは少し潤んでしまった瞳を瞬きで隠しながら、黙々と食べた。美味しいからって泣くなんて飢えてるみたいでおかしかった。
おいしいものをくれるひとは悪いひとではない。という包丁の信念は別にしても、その一件から長谷部と包丁は手が空いた彼が同席するのを許すようになった。職人らしく口数の少ない彼は、呆れたことに長谷部のこととなると多弁だった。自分の作ったものを食べて緩む藤色に微笑み、「きれいだ」と囁く。肌を粟立たせながら、何を言っているんだこいつは、と思った包丁の内心など構わず、彼は真正面から長谷部を口説きだしたのだ。
おいしいもので下がった大倶利伽羅の不審者指数が、爆発的に上がった瞬間だ。
響きはあくまで真剣だが、甘ったるい陳腐な言葉を目の前で吐かれたところで、長谷部は真に受けず流していたが(彼は戦においては自信家だが自己評価は驚くほど低い)、それが毎回繰り広げられ続けると、よもや本気なのではという可能性が長谷部の中で芽吹いたのであろう。頰を染めるようになったのに気づいた時は嘆息した。包丁は簡潔さだけが取り柄の言葉を聞くたびに鼻を鳴らすという抗議を続けているが、大倶利伽羅には効いていない。
まっすぐな想いとは何てこわいのだろう。硬い石を少しずつ穿ち、形を変えさせてしまう。そんなしたたかな料理人が、言葉や食べ物ではなく手に残る、物を渡したとなれば次の一手はなんだと興味がわく。
「ああ、これなんだが」
まだ中は見ていない、と何とは無しに小さな白い箱を開け固まる長谷部の手を引き、遅れて覗き込んだ包丁はうなじが粟立つのを感じた。
そこには鼈甲飴みたいな石が輝く簡素なピアスがひとつ収まっていた。
「ぅわぁーろこつー」
金色の瞳をもつ男から贈られたピアスはとても上品できれいなのだが、暴力的な甘さの外つ国製の菓子を食べた時のような気持ちになってしまうのを抑えられない。
しかし、彼はどこで知ったのだろうか。長谷部の耳に手入れでは治らない穴が開いていることを。小さく、髪の毛が邪魔をしてよくよく見なければわからないはずだ。包丁は途端に落ち着かなくなって、自分の耳にもある穴を触った。
「これってガラスじゃないよね?」
「たぶん宝石、希少価値の高い石だな。……あいつはどういうつもりなんだ……」
「この本丸に料理番として雇うかもって加州が言ってたよ〜刀が増えてきて大変だからって、まぁ普通は政府が派遣する人間に頼むんだろうけど」
「は?」
「戦いではいつも先手をとる方だから、長谷部は押されると弱いんだぁ」
「いや、聞いてないぞ?」
「まだ本決定じゃないもん」
大倶利伽羅の料理はとびきり美味しく悪いやつではないと口添えしたのは秘密だ。混乱している長谷部を横目に、なんとなく優しい味の鼈甲飴が食べたくなって鞄を探ったところで、ずっとそこに在る存在を思い出す。
「そうだ! これも宝石かな? 宝石なら高いんでしょ?」
白いハンカチに包んだものを取り出し広げた。
「なんでか鞄の底が二重になってて隠されてたんだ。ぱっと見は黒い鋼なんだけど、光に当てるといろんな色に光ってすごくきれいなんだよ。前の俺の隠し財産だったのかも」
長谷部は何も言わない。不審に思い顔を伺えば、包丁の手のひらにころりと転がっている小さな欠片を目を見開いて凝視していた。震える指が摘み上げると、石は光を反射して鈍く光った。
「どうしたの? もしかして希少価値の高い石?」
強い風にいちど目をつぶった包丁は、いまだ呆然としたままの長谷部に首をかしげる。
「いや……」
「たまに長谷部の目みたいに紫っぽくなる瞬間もあるよ。気に入ったのならあげようか?」
「………うん」
口元をまごつかせた長谷部は、おもむろに唇を開くと、石を落とした。
「え!?」
喉仏がごくりと上下する。
「え? え? 飴じゃないでしょ! ばかばか! お腹痛くなるよ!」
引き結ばれた唇が震えている。葡萄味の飴玉みたいな瞳の奥でプチプチと気泡が弾け、割れてしまう、と思わず包丁が届かない手を伸ばした先で、頰をひとつぶ雫が伝っていった。それはその小さなひとつぶに痛みがめいっぱい詰まったかのような重みが感じられた。
だって、包丁は長谷部が泣くところなど見たことがない。
「あーもー! 痛いんでしょ! 手入れ部屋!」
服をぐいぐいと引っ張りうろたえるばかりの包丁の手をとると、長谷部は小さく空気を震わせた。いつもはほんのりと冷たい手袋が取りさらわれた手は、熱く血が脈打っている。
「……違う、痛くなんてない。……うれしいんだ」
「え?」
膝をついた長谷部が包丁を抱きしめる。
「え?」
頭の上で、ありがとう、とくぐもった声が聞こえた。
「え?」
混乱する包丁を包み込むように柔らかな声がする。
「このピアスつけてくれるか?」
長谷部の手の中にずっと包まれていた鼈甲色を間近に見て瞬く。「プロポーズ受けるの?」なんて、いつもなら言える軽口が出てこない。促されるままに恐る恐る手に取ると、まっすぐな髪をすくって耳にかけた。こめかみを汗が伝い、手が震えるのはなぜだろう。ぎこちなくしか動かない指で苦労して穴に通せば、小さく肉を貫く感触に戦く。
ありがとう。
もういちど呟き降り続ける花びらをあびながら立ち上がった彼は、耳にそっと指を触れさせた。
拗ねたように唇がいちどとがり、潤んだ目を細め、────ほほえむ。
ふあ、と間抜けな音をした息が包丁の口から吐き出された。驚きと感嘆と羨望、なにか色々がぎゅうぎゅうに詰め込まれた柔らかい空気のかたまりが。
「……きれいだね」
呆然という包丁に長谷部は笑う。
「ああ、お礼を言わないと」
────ちがう。
包丁の風で乱れた髪を撫で、玄関へ向かう背を見送る。花びらと布が盛んにダンスを踊り、五虎退の虎が追いかけていく。おかえりなさーい。高い声が遠く聞こえた。
────きれいなのはあなただ。
包丁はそっと自分の耳を触る。見えないけれど小さな小さな穴が確かにそこにあって、わけもなく滲む視界を瞬きではらった。
────泣きたいくらい、きれいだった。
でも、泣くものか。何に対しての意地かはわからないけれど、ぐっと唇を引き結び、背を伸ばして包丁は駆け出した。
Promise with You
13/06/2017