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​冬の海​

「好きにしろ」

 

 そう言って国永はもどかしいふたりを蹴りだした。瞳ばかりが雄弁な長谷部と大倶利伽羅が、困惑した目でこちらを見つめてくるが、しっしっと手で追い払う。切符の手配も荷物の用意も、面倒くさいことが嫌いな国永が手配してやったのだ。もっとも荷物の準備は光忠が鼻歌まじりに喜んでやっていたが。

 あとはあいつら次第。時代遅れの仰々しい鍵まで丁寧にかちりとかけて顔を上げた。

「手がかかることだ」

「手をかけるのが好きなんじゃなくて?」

「……おせっかいが過ぎたか?」

「いや、ふたりには図々しく押しつけるくらいがちょうどいいんじゃない?」

 じゃなきゃ、僕が瞬間接着剤で物理的にくっつけるところだったよ、と光忠が堂に入った実にいい顔をする。

「はは、そりゃいいや。どうせなら、赤い糸をぐるぐる巻きにしてやるか」

「んー、ロマンチックで悪くないね」

「ロマンチックかどうかはわからんが、帰ってきても、まーだしけた顔してるようだったらそうしてやろうか……いや」

 ふと口をつぐんだ国永が、「それでもだめなら縁をちょん切ってやろう」真剣な口調で言い、にたり笑うものだから、光忠は目を見張った。

「あいつが君の弟なら、あれは俺の息子みたいなもんさ。……頑固おやじにならなきゃな」

 目を瞬かせた光忠の耳は、続けて小さくこぼされた音を確かに拾った。

 初恋の人に似ているのさ。

「……それって」

 秘密な。光忠は頷いて、暖かな蜂蜜色した目を眩しげに細めた。悪戯好きの少年のような悪だくみをする大人のような何とも言えない顔で笑いあい、国永と光忠はふたりの旅路を祝福する。

 手荒くふたりを旅に送り出したのにはわけがあった。


 一足先に戦場に向かった光忠が、いってきます、の言葉とともに置いて行った珈琲を啜り、国永は息を吐いた。送り出した先で、ふたりの子供はヴァイオレットとアンバーに何を映してくるだろうか。

 大倶利伽羅が記憶が取り戻したあの時、長谷部の瞳からこぼれたしずくを思い出す。国永は長谷部が泣くのを初めて見た。いくら濡れようとこぼれなかったそれが、こらえきれないとばかりにあふれた瞬間、国永は安堵した。やっと泣けた長谷部に。見届けられたことに。そして、光忠とともに喜びを弾けさせ、抱きあうひとつのかたまりに覆いかぶさって手荒く祝福してやったのだった。ふたりの呻き声と、ついでに国永自身の悲壮な声を背景に。

「ミツ坊、さすがに君が一番上は問題がある……中身がでそうだ」

 その後、大倶利伽羅は検査の結果問題なしと判断され、通常より遅れて兵士になった。同僚としての日々が始まったのだ。だというのに、それから彼らは一年近くも、もだもだと煮え切らない態度で過ごしている。お互いが嫌になったのなら、それでいい。人は変わるものだ。悪いことじゃない。しかし、ふたりはお互いを大事に思っているのに何かに怯え、躊躇し、のばしかけた手を握りしめているように国永には見える。ふれることを躊躇って近づかないのに、視界から消えるのを厭うて離れもしない。そんな絶妙な距離を、まあ長いこと飽きもせず続けている。どうせ離れられないのだから、足を竦ませるしこりなど粉々にしちまえと国永は蹴りだした。元来、国永は光忠と違って飽き性で短気だ。

 なるようになれ。大丈夫さ。今まで歩いてこれたんだ。嫌味のない苦さが舌に馴染む珈琲をぐいと飲み干し、肩をまわす。目を覚まさせる芳醇な香りが鼻腔から脳に抜けた。

「さーて働くか」

 口笛を吹いて国永は戦場に向かう。厳しい現実を躍るのは、嫌いではないのだ。

 

 いくら時間がかかろうと、この目が動いているのを確認できる速度でゆっくり運ばれるのはいいものだ、と思いながら大倶利伽羅は座席に背をあずけた。慣れない空間転移装置の、身体が一度ばらばらに分解され死を通過するような感覚よりはずっと。本来なら移動したという結果が重要で、実感が持てないと戸惑う頭のことなど放っておけばいいのかもしれない。ただの機械ならば。だが、時間を奪われた経験を経て大倶利伽羅は思う。人は成果のためだけに生きているのではないと。時を消費し感受することは贅沢な喜びなのであろう。コストがかかるからと転移装置が軍事目的にしか用いられないのは僥倖だ。壊れ磨り減るまで資源は再利用され続けるこの世界で、大昔の遺物である電車に揺られ、褪せた色をしたクッションの上で尻を跳ねさせ、流れる景色に見惚れるのは悪くないものであるはずだ。けれど、視界の端に映る鋭い針のようにまっすぐで鈍く光る髪が、ちくちくと心を責め立てる。

 四人がけのボックス席で窓枠に肘を置き、外ばかりを見ている長谷部。精緻な横顔が人形のようで、陽の光に照らされた頰も冷たいのではないか、引き結ばれた唇はもうほころぶことはないのではないかとすら感じる。美しいものはふれることを躊躇わせる。何よりも、美しい熱量を秘める澄んだ結晶のような瞳が俯きがちなせいで前髪に隠れて伺えないことが、彼のありのままの姿を覆い隠している。暴きたくて震える手を握りしめてとどめた。隣にも向かいにも座ることのできなかった大倶利伽羅は、対角線上からひたすら見つめるばかりだ。

 不明瞭な音で次の駅がアナウンスされるのを聴いて、ふと思い立ち光忠が用意したのであろう包みを開けると、おにぎりにホイルの包み、お茶にみかんと絵本で見たような行楽弁当が顔を出した。窓際の小さなテーブルにお茶を置く際に据え付けられた灰皿が目に入り、車両の古さが知れた。高額な嗜好品である煙草を吸う人間など近くでは国永しか知らない。彼に押しつけられるまま指示通りここまで来てしまったけれど、長谷部は何を思っているのだろうか。

「みかん」

 大倶利伽羅の呼びかけに髪が僅かに揺れるが、こちらを向くことはない。

「…食べるか?」

「……ああ」

 橙色をお茶の横に置いて、大倶利伽羅も代わり映えのしない冬の田園風景に目を移す。刈り取られ丸裸なベージュ色の群れに、ぽつりぽつりとある民家がアクセントを添える。移動速度に合わせてぼやける風景は、記憶が封じられていた頃のおぼろげな映像に似ている。

 あの頃、大倶利伽羅は意思も感情も持たない存在としてぼやけた映像を眺めていた。寂しげな青紫色の瞳、舌足らずな音で大倶利伽羅の名を呼ぶ唇、痛ましげな様々な顔。そして、ねじれて果たされたふれあい。苦しそうに大倶利伽羅を慰める長谷部。頭に残る光景をひとつずつ思い出すほどに自分の罪に震えた。「おぉくりから」耳に残る、痛々しい響きで自分を呼ぶひしゃげた声。大倶利伽羅は長谷部を決定的に傷つけた。意識がなかったとか、そんなことは言い訳にしかならない。小さな頃に受けた傷が忘れられない数々の兵士たちがいるように、大倶利伽羅だって幼い頃の別離を忘れることはできないのだから。大倶利伽羅が長谷部を傷つけた事実は一生消えない。

 ふわり、花の香りがして意識が戻ってくる。清涼で柔らかな香りがするそれは彼によく似合う。

「ジャスミンティー…相変わらず好きなんだな」

 こぼれるかすれた声に長谷部は当たり前のように答えた。

「ああ、そうだな……ずっと好きだ」

 日常で思い知ることも多い三人との距離を、一瞬で引き戻す香り。ずっと好きでいて欲しい。変わらないものの尊さを思い知る。いっそこのままふたり、どこかへ逃げられたら。さわることすらできないのに、埒もないことをちらりと思う。馬鹿なことを。自分はこんなにも臆病な男だったのかと唇を歪めた。

 それから目的地である終点まで、大倶利伽羅は消えてしまいそうに細く呼吸をする長谷部の荒れた唇を見つめていた。本当は国永がしていたように、ベールの役目を果たしてさらり流れる前髪を優しくすくって、梳いて、耳にかけてやりたいと思っていたのに。

 その目に大倶利伽羅を映して欲しいと。


 機械化された無人の小さな駅を出て、これ以上の先はないという地に降り立つ。ポケットの中でくしゃくしゃになった国永の指示書には、彼の跳ねが独特の字で 『海に行け』とだけ書かれていた。海。つんと鼻を刺す生臭いような香りが潮の匂いかと今になって認識した。

「……海か」

 ぽつり呟いた長谷部を横目に伺い、駅からまっすぐのびる道を指差す。

「少し歩くようだ」

 どちらからともなく歩き出した。海は、ふたりの約束の地だった。


 錆びついたシャッターが並ぶ人っ子ひとりいない寂れた商店街を抜け、車の影すら見えないのに綺麗に整備された車道を横目に、ぽつぽつとある民家のかたわらを過ぎていく。建物で遮られ海の姿は見えないけれども、徐々に潮の匂いが濃くなる。多分に塩分を含んだ風に浸食され、赤茶けた錆びが目立つ街だ。人の気配がないのも相まって、ここも捨てられたのだろうと感じる。数が少なくなった人々は中央に集い、辺境の街は切り捨てられ、朽ちるのを待っている。

 歩幅は違うのに付かず離れず進んでいくふたりは無言だ。揺れる手がふれてしまわないように慎重に空けられた距離。海を見る約束をしたあの時、大倶利伽羅が欲しかったものはこんなものだっただろうか。不甲斐なさは人を臆病にする。自分の手で実感することが好きだった己が、さわる前に諦めるなんて。

 不意に音が、ひとつ扉を開いたように、波が砂を洗う音が強く耳に届いて、ふたりの歩く速度が自ずと速くなる。ふっと暗くなった視界にそびえる、馬鹿みたいに高い防波堤を抜ければ、そこに。

 きらり、きらり、輝く波が打ち寄せる砂浜が広がっていた。

 誰もいないここでは盗むものもいないだろうと背負っていた荷物を放り、大倶利伽羅はひとつ唾を飲み込んで、長谷部に手を差し出した。

 ────ふたりで見にいくと約束したのだから。

 同じく荷物を置いた長谷部は褐色の手を見て俯いた。海風に流された前髪の下から下がった眉が覗き、唇が何かを形づくろうとしてつぐまれた。震える唇から何かがこぼれる、そう思った瞬間、大倶利伽羅の手から顔を背け、急に走り出す。さくりさくりという速い音とともに、光を弾いてなびく髪が遠ざかる。

〝行かないで〟
 幼い自分の叫び声が聞こえた。瞬発的に筋肉を躍動させ追いかける。走れ。追いかける足を、のばせる手を持っているのだから。乾いた砂は己の足を止めはしない。

 目の前で俊足の長谷部が砂に足を取られバランスを崩し、転びそうな身体を間一髪抱き込んだ。以前より細く感じる身体を抱えて、いつのまにか大倶利伽羅は長谷部の背を追い越してしまっていたことに気づいた。呆然としているうちに大倶利伽羅の胸を強く押し、長谷部が腕からすり抜ける。明確な拒絶に、つきり、胸が痛んだ。自分のことを棚に上げて、唇を噛み締めてばかりの長谷部に募った苛立ちが弾けた。

「……何を怒っている」

「怒ってない」

「怒ってるじゃないか」

「……怒ってない」

「強情をはるな」

「お前が言うな!」

 振り上げられた手が頰で弾けた。 

「今は怒ってる! お前がしつこいから!」

 強く言いながらも震える右手を握りしめ、長谷部はどんどんと俯いていく。怒りか寒さか、冷え切って紫色した唇を見つめて懇願する。

「……何か言ってくれ」

 どんなことでもいい。怒ってくれてもいいんだ。

「……何を、話したらいいのか、わからない……」

 ひどく幼い声がこぼれ落ちた。

 冷たい風が、また、ふたりの間を吹き抜け長谷部の髪をさらう。

「確かに嬉しいのに…今を喜べばいいのか、過去を謝ればいいのか、未来を、怖がればいいのか……何もかもがぐちゃぐちゃになって、何も…何も、」

 そう、不器用なのは大倶利伽羅だけではなかったではないか。目の前の男は見かけよりずっと不器用な男だった。

「…あんたが何を抱えていてもいい。顔を見せてくれ」

「お前だって……お前だって! ただむっつりしてるだけじゃなくて、怒ればいい! お前の時を奪った世界に! お前を汚した俺に!」

「あんたのせいじゃない! この結果は俺が背負うべきものだ!」

 久しぶりに向かいあい視線を絡ませ、言葉を交わしている。

 あんたはずっと、こんな泣きそうな顔をしていたのか。俺もきっと────、

「俺は……俺は悲しかった。ずっと、ずっと悲しかった。お前まで失ったのかと。待つと決めたけど…ずっと苦しくて、どんなお前も優しいけどっ……優しいから、……とても意地悪だった」

「お前もなんか言え!」と太陽の光を反射する瞳がきっと睨みつけ、力なく歪んで溶ける。

「未練がましくずっと待っていた俺がいやになったのなら、言ってくれ……」

「違う!」

 なんて不甲斐ない。本当は不器用な彼の背を守る存在になりたかったのに傷つけた。かける言葉が見つからず、せめて思う存分泣かせるために腕で囲ってやりたい、と手をのばす。

 ふっと記憶が失われていた時の光景がよみがえる。彼にひどい仕打ちをした自分がふれてもいいのだろうか。意識がなかったとはいえ、紛れもなく幼い自分がしたことだ。ガキの頃に散々味わった苦く懐かしい感覚が身体を満たし、大倶利伽羅は呆然と目を見開いて途方にくれた。身動きできない環境に絡め取られ、元気でいて、と離れて行く柔らかい母の手。

 家族と幸せになりたかった。

 大切な人を幸せにしたかった。

 願いはそれだけだったのに。

「……すまなかった」

 奥歯を噛みしめる。宙ぶらりんな手を、睫毛に露を纏わせた長谷部が強い力で握りしめた。

「もういい! いいんだ! ……俺たちはふたりとも未熟な子供だ。だから、だから、泣いたって、いいだろう?」

 必死に言い募る長谷部に促されるように、ひとつ、足を踏み出した。

「……ああ……そう、だな」

 近づいたふたりの距離。落とした視線の先でくたびれた靴のつま先とつま先がふれあう。格好つかない歪な表情で、喧嘩するのすら下手なふたりは、やっと、お互いの手を絡めた。


 抱きあいほとほとと泣くふたりでひとつの嗚咽に被さるように、風に乗って甲高い猫のような声が響いた。ぱっと離れたふたりが涙のあとを拭いながら音の方を見やると、赤い髪を逆立てた十代後半ぐらいの青年と音の発信源である空色のベビーカーが、砂浜に足元を埋めながらこちらに向かってきていた。

「あれ? その目の色はお兄ちゃんたちも刀の人?」

 目を見開くふたりに構わず、子持ちというには若く見える青年は泣き続ける子供をあやしている。幌が広げられ、こちらからは小さなクリームパンのような手がぱたぱたと飛ぶ様子しか見えない。

「はいはい、どうした〜……もしかして誰かに言われてここに来た?」

 肯定は必要ないのか、ベビーカーをゆらゆらと揺らし明るい声で続けて問う青年に肯首すると、「そっか」と呟き、「ついてきて」とベビーカーを押して歩き出した。

 顔を見合わせた大倶利伽羅と長谷部は遅れてあとを追う。あの色彩はふたりとそう遠くはない境遇の人間であろうとの確信を持って。


 ベビーカーを先頭に隊列は海岸線を進む。無邪気な笑い声が風に乗って踊り、遠ざかって行く。さくさくと足離れの良い砂をしばらく蹴り進めて、砂浜に突出した崖を波で足を濡らしながら回り込んだ先にあったのは────、

 拓けた砂浜に突き刺さるおびただしいほどの刀とそれを洗う白い波だった。

「……ここは終わりの地なんだ」

 青年はそれ以上、何も言わなかった。何の説明もいらないのだ。

 この身体が共鳴し鳴いているから。

 

 時には厳しくあたり、時には優しくなで、潮風は自在に刀を慰撫する。そして、気まぐれに刃に切り裂かれ、ひぃひぃと高い鳴き声をあげる。刺さる根元の砂は鉄を含むのか、乾いた血のような赤茶色が滲む。遠く白波がさざめき笑い、打ち寄せ置いていかれたゴミの残骸、生活の残滓、自然の欠片、戦いの遺物が力なく横たわる。視線を遥か高く投げれば、雲ひとつない空が不思議だ。遠く陽炎のように見える煙はどこかの戦さ場か。

 嗅ぎ慣れた香りが漂い振り返れば、青年がポットから注いだ飲み物を差し出していた。受け取ると湯気が冷え切った顔を温める。

「コップひとつしかないから、一緒に飲んでよ」

 猫舌の国重が横から何度も息を吹きかける度に、ふわり、ジャスミンの花が散らばる。研がれることもなく自然に欠けて曇りきった刀たちは、柔く光を反射して、ただそこにじっとしている。捧げるように砂の上にコップを置いた。

 そこに在る、剥き出しの欠片たちを目に映して、砂浜に座り込んだふたりは動けない。

「なぁ、……これは嘘をつけないな」

 内緒話のように国重が囁いた。

「ああ」

 ひぃひぃと風は鳴き続ける。

 あうううぅううアァァァ。

 りんごろりんごろ、青年が揺らす玩具の音と赤子の鳴き声が木霊する。

 はいはい。

 慈愛に満ちた、ただ全てを肯定する青年の声が、全ての音が、この空間を慰めているかのようだった。風に吹かれ続けこわばる指を、同じく冷え切った国重の指に絡めた。冷たい指と指をそわせても温めあうことはできない。ふたりは決してひとつにはなれない。この胸のうちを共有することはできない。

 けれど────。

 ふたりは青年が「潮が満ちる前に帰れよ〜!」と言い残していなくなっても、陽が落ちて錆びた刀が赤く燃える光を放つまで、ずっと名残惜しくよりそっていた。


 すっぽりと街を包む暗闇を、人がいなくとも規則的に据えつけられた街灯の不健康に白い光が照らしている。大倶利伽羅と国重は国永の指示する宿への道をたどっていた。昼間と同じように無言で、しかし、その沈黙は悪いものではなかった。湿った靴の感触が冷たく不快なだけだ。

 道すがら、ひときわ明るい蛍光灯の光が眩しいコンビニにいきあたり、吸い寄せられるようにふたりは足を向ける。

「いらっしゃいませ〜」

 第一印象が女性にも見える、高くかすれた声をした店員が軽い調子で挨拶するのを聞きながら、適当な飲み物や食べ物を思いつくままにカゴに入れていく。店内の品揃えは量が少ないものの充分に揃っており、人が住んでいない訳ではないらしい。数は少なくとも、この地を離れない人間もいるのか。終わりを見守る青年のように。店内の暖かさで少し頰を紅潮させた国重が、嬉々としてチョコレートをカゴに入れていく。

「食べられるだけの量にしろよ」

 頷き吟味するようにお菓子が並んだ棚の前でしゃがみこんだ国重を置いて、店内をゆっくり物色し、周りきった先で目に入った箱に思わず手をのばした。急に現れた骨ばった指が止める。

「…何にも隔てられたくない……馬鹿だと思うか?」

 首を振り、代わりに入れられた真っ赤なチョコレートの箱に少し笑う。本音を言えば、大倶利伽羅はいつだってそうしたいと思っているのだから。

「ありがとうございまシター」

 やはり軽い調子で告げる店員を背に冷たい空気に足を踏み出すと、眼鏡をした少年とすれ違う。

「蛍〜サービスとか言って落としたコーラ渡しよったな!」

「はいよっと」

「ってこれ雑巾やないか」

 不思議とこちらに余裕をもたらすテンポの会話を光のもとに置き去りに、ふたりは肩を竦めてカサカサと袋を鳴らしながら早足で宿への道を急いだ。大雑把な店員に大胆に詰め込まれた炭酸飲料が倒れ揺れても、売れ残りのおにぎりが潰れようとも、逸るこころはとどめようがない。


 肩と肩をぶつけ合いながら部屋になだれ込む。

 国永が書いた不親切な案内に従ってたどり着いた先、ホテルのフロントには愛想笑いのもてなしも何もなく、自動販売機のようにパネルで選んだ部屋の鍵を購入するシステムは寂れた土地では至極合理的で、予約は必要なかったのではないかとすら思えた。

 いっそ乱暴とも言える力で押し倒した身体が衝撃で乱れたシーツの上に沈んでいる。灯りをつけなくとも視界が効く室内は広い車道を挟んで海に面しており、道沿いに並ぶ煌々とした街灯が嫌に青白い光で広い窓の外から照らしている。あいにく防波堤に遮られ海の様子は伺えないが、穏やかな間隔を空けて刻まれる波音だけが届いては消える。どことなくけばけばしい室内の色彩も、もはや気にならない。

 期待に潤んだ瞳がこちらを見やり、誘われて白いシャツに指をのばす。横着して同じデザインのものばかり持っている、けれど、彼にはよく似合うそれを包み紙でも開く心地で暴いていく。硬質な輝きを放つクリーム色が、ふわり、眼前に咲く。街灯が波音とともにちかちか瞬くものだから、波に研がれていく貝殻のように錯覚してしまう。

 さわれば意外なほど柔らかく温かい。とくとくと心臓の動く音が掌に伝わる。優しく。そう、とびっきり優しくしてやりたい。この健気な心臓を限界まで甘やかし、そして、最後に歯を突き立て食べてしまいたい。

 ふたりを隔てるもの全てを脱がし脱がされ、冷えた脚を絡ませて皮膚と皮膚を際限なくふれあわせる。じわり、侵食してくるかそけき体温。とくり、とくり、注ぎ注がれ、こぽりこぽりと胎内にあふれる甘やかでぬるい水。やっと、大倶利伽羅は大倶利伽羅として国重にふれている。

 臆病なくせして、ずっとしぶとい魂に。

「お前は……あたたかいな」

 ぎこちないのに綿菓子みたいな感触の笑みを浮かべる国重の、ひそめられた声が大倶利伽羅の背をなであげた。

「冷えたからな」

「そういうことじゃ」

「わかってる」

 この身に埋められた鉄は冷たく肉体を凍えさせる。だが、熱が伝わる速度が速いのもこの物質なのだ。そわせればがちゃがちゃと鍔迫り合いする身体にも、ふれあえば伝わる熱がある。背骨にそってぴりぴりと電流が走る心地だ。這わせた手は全てを覆い尽くすには小さく、それでもこの肌を舐め上げたいとさまよい、胸から締まった腹、産み落とされた証の臍、薄い尻をたどり、のびやかな筋肉を蓄える脚に軌跡を描いた。おもむろに、白く浮かび上がる脚を抱え上げ、腿から先に唇を押しあて食みながら足先までたどり着くと口に含んだ。

「そこっ、や、汚いだろっ」

 こそばゆいのか身悶え逃げをうつ身体に構わず、ちゅるちゅると一本ずつ丹念に舐め啜れば、舌の上には海の味が広がった。抵抗は視線ひとつで封じて、指の股にちろちろ這わせた舌は柔らかな皮膚の感触に悦んでいる。桜貝のような爪の根元をくじり、ちりちりと疼いて痒みを覚える歯を立てた。ひくひくと跳ねる身体を目に映しながらもう片方も同じように愛でて、唾液まみれにしてやる。自身の濡れた唇も舌で拭い、顔を隠してしまっている国重の腕を取り指に吸いついた。

「な、そん、な、もぅ、なめるの、やめっ」

 答えるようにじゅうじゅうと吸い、唇で扱いてべたべたにしてやる。

「く、ぅん」

 子犬のように鼻を鳴らして、抵抗にもならない抵抗をしている国重はなんといたいけなことか。許されている。大倶利伽羅はいたいけな魂に許されているのだ。

 次はどこを可愛がってやろうかと目を光らせる大倶利伽羅に、ちらり、怯えた目を向ける国重は美しい。ちかちかと、街灯の瞬きの合間に影を浮かせる胸の飾りに舌をのばした。怯え隠れがちなそれを尖らせた舌で何度もえぐり誘い出すと、ぷくり、頭を覗かせるので、逃がさないように指で捕まえ、こりこりと擦りあわせ舌先でたっぷりと濡らして頭をなでる。

「んあっ、あっ」

 吐息より一段階跳ね上がった高い音がとろとろの口からこぼれた。ここが好きらしい反応に、唇で挟み込み舌で執拗にねぶってはじゅるじゅると水音を立てて啜る。国重を気持ちよくしてやりたい。今の大倶利伽羅にはそれが全てだ。ひくつく身体がふれあってお互いの雄が緩く立ち上がり露をこぼし始めているのを知る。溶けあえない身体が溶けあってしまえるくらい気持ちよくなりたい。甘えるように胸の尖がりに吸いつくことはやめずに、陰茎をふれあわせて腰を揺する。噛み殺せない喘ぎが国重の口から転がり落ちるほどに、耳を愛撫された大倶利伽羅の背が痺れた。完全に腫れあがり逸る雄を腹に力を入れて抑え、ぬかるむ国重の口を指で犯す。熱くぬとぬとと濡れた粘膜から唾液をこそげ指に纏わせて、しどけなく投げ出された脚を抱え上げた先にある後孔に指を這わせた。ひくんと震える身体。膝頭に口づけを落として許しを乞う。

「いいか?」

 あんたの許しが欲しい。

「許すと……言って欲しい」

 ずるい男の懇願に目を瞬かせた国重は、ひとつ息を吐くと、目を細めて言った。

「…大倶利伽羅、許すよ……お前が欲しいんだ」

 歓喜が胸を満たし、額に口づけをひとつ落として、「ありがとう」と濡れた声で囁いた。


「ひっ! あっあっアッ、ぅんん、も、もうだいじょぅぶ、だからぁ!」

「だめだ。く、あんたの大丈夫は、あてにならない」

 いまや大倶利伽羅の指は三本、国重の後孔に喰まれ、咀嚼するように蠕動する動きに必死で耐えている。もっと柔くこねて彼を快楽に沈めなければならない。隧道の中を広げた指で割り開き、肉の柔らかさを思い出させる。大倶利伽羅が塗り込んだ唾液が、腸壁から滲み出た体液が、くぱくぱと粘度の高い下品な音を立てて堪らない。際限なくあふれる唾液を飲み込み、尖らせた舌を目の前で立ち上がり震えるすらりとした雄の幹に這わせた。何度も歯を食いしばり続けた口の中に押し込められていた舌は熱を持っていることだろう。蜜が絡んだ舌が、つうと裏筋を這った。

「ぃあああッ、だ、だめっ、ぁ」

 潮に似た味が舌を痺れさせ、後ろを締めつけながらびくびくと身体を震わせる国重の反応にも構わず、あふれ出る液体をもっともっとと舐めとり、口の中に迎え入れる。暴れる国重の踵が大倶利伽羅の背中を打つが、この男にいくら打たれようと甘美な痺れがもたらされるだけだ。ずっと待っていてくれた男を大倶利伽羅は徹底的に甘やかさねばならない。妄執に近い信念がこの身を焦がす。頰の粘膜に亀頭を擦りつけ鈴口を舌先でほじり、雁首を包み込む。丹念な愛撫は国重を鉄ではなく蕩ける肉にする。海に守られた真珠のような身体から生み出される震えは、大倶利伽羅の沸騰する血潮に伝わり、ひいてはこころまで到達する。きゅうと喉奥で乱暴に締めてやって、今にも弾けそうな己の肉体に喝を入れた。穴を犯す指の動きを前立腺を揉み込む激しい動きに変え、

「や、ぁ、ぁ、あっ、っあ」

 甘くかすれた悲鳴を途切れることなくあげさせれば、大倶利伽羅の身体から汗が吹き出し待ちきれないと雄が震えた。ぐちぐちとした水音とどろどろに溶けた声が、耳から大倶利伽羅の脳にまわり熱を上げ続ける。

「ア、ぃぁっ──────っ!」

 喉奥に叩きつけられた種が麻薬のように頭を酩酊させ、大倶利伽羅は限界まで吐き出させるように吸い上げながら穿つ指を止めることができなかった。登りつめた身体に過剰な快楽を叩き込まれ、哀れな肉体は声にならない声で空気を紅く染めあげ痙攣させることしかできない。ひときわ強く大倶利伽羅の骨ばった指を食い締めたと思ったら、国重の身体は糸が切れたように弛緩した。しなだれる陰茎から口を離し、濡れた唇を舌で拭う。力なく折り重なる脚の間でひくつく後孔に泡立つ液体がべったりと纏わりついているのを目に映して、大倶利伽羅はふやけた己の指をしゃぶった。ときおり不随意に身体を震わせながら国重は溶かされた身体を守るように横を向き丸くなっていく。薄く開いているのがやっとの目からは、ほろほろと止められない涙を流し、唾液でべとべとの唇で自分の親指を含んだ彼は、安心したように微笑んだ。幾度も噛み締められて紅く染まった唇の隙間から指にやわやわと這わされる短い舌が覗いた。

 どくり、心臓が強く跳ねる。獣のような俊敏さで大倶利伽羅は縮こまる身体を開き、手をシーツに縫い止めて戦慄く唇を食んだ。差し込んだ長い舌を短く幼げな舌に絡ませ、丹念になでさすり甘やかす。ら行の発音が甘くなるこの舌が己の名を呼ぶ時、「おぉくりからぁ」と溶けてしまった飴玉みたいな感触を持つのが何よりも好きだった。

「んん、ん」

 眉根を寄せ、混じりあう唾液を嚥下している口に指を忍ばせ、ぬめって滑る舌を捕まえる。指で嬲るそばから舌で慰め満足感を覚える。溺れてしまいそうな国重の呼吸の限界を感じて、名残惜しく思いながらも離れれば、ひぃひぃと必死で酸素を取り入れながら震える腕がのばされた。ぱくぱくと開閉する口に耳を寄せると、

 ひ、と、つ。

 大倶利伽羅の暴力的な衝動を許す言葉が与えられた。目を見開き、次いで眇めた大倶利伽羅は、ぱつんと膨れ上がってだらだらと先走りをこぼし続ける自身の雄を扱いて完全に頭を出してやると、汗でしっとりした脚を抱え上げ、誘い期待に震える穴を穿った。

「はぁ……国重…好きだ」

 火照った肉がいきり立つ雄を優しく愛撫する。舌を絡ませ、奥の奥まで雄を沈ませた。きつく絡まったふたりの身体は決してひとつにはなれない。けれど、好きなんだ。背中に食い込む爪も、絡みつく脚も、乾くことのない瞳も、臆病に震える舌も、全て大倶利伽羅はこころに刻みつけたい。

「ぉ、くりから、あっ」

 離れた唇からこぼれるこの音が大倶利伽羅を呼び戻したのだから。

「あっ、んっ、ん、ンンッ、んぅ」

「ふっ、うっ、ぁあっ」

 お互いの顔に湿った息を吐きかけ、ふたりは秘密を共有する子供のように小さく笑う。登りつめていく国重の背がしなり、大倶利伽羅の腰が肌を打つ高い音が激しさを増す。もっと国重の中心を食いあらしたいという衝動が止めようもなく、ぶるぶると震える腕でしなやかな片足を抱え上げ、国重の身体を横向きにすると雄を打ち込み、ぐじゅんっと酷い音を彼の胎内に響かせた。

「アッッ〜〜〜〜────!」

 がくがくと震えが止まらない脚を抱きしめ、もっと、もっと、奥へと雄を押しつけて歯を食いしばる。最果ての扉を押し開き、くぽくぽと亀頭で捏ねて無垢な肉に大倶利伽羅の感触を覚え込ませた。慈悲深い国重は腹の中を泡立てる雄にすら施しを与えようと、柔い肉で締めつけてはしゃぶるように甘やかす。腹筋が痺れ精嚢が本能のままにぐぅと遺伝子を送り出す。梯子を外された頂点から降りられない国重は形を成さないぐずぐずの声を垂れ流しながら、自身の陰茎からこぷこぷと薄い精液を吐き出している。したたるさまに喉の渇きを思い出し、汗の伝う脚に齧りついた。

「くっ、ぅうっ」

 大倶利伽羅の抑えきれない欲望の奔流が国重の中に流れ込み、白く汚していく。

 ────全部、全部、あんたにやる。

「はっ、アァッ」

 残滓まで全て国重の肉になすりつけると、ばたり、横に倒れ込み、目を閉じてしまった彼を抱きしめた。

「ぉくりから」

「…くにしげ」

 昼間の海が眼裏に浮かぶ。どんな終わりが待ち受けていようと、隣にあり続けることを願うのは自由で、大倶利伽羅は出遅れても足が遅くともずっと走り続けると決めた。産まれてから死ぬまでひとり。誰にも言えない想いを抱え温め生きていく。ふたりは溶けあうことはできない。ただ、限りある時を隣であることはできる。どこにもいけない想いを湛えた不毛な種は、きっと、それでも、証として肌を侵食するだろう。好きだという気持ちだけで全てが許されるとは思わない。けれど、想いとともにこの身体を抱きしめられる幸運を思う。

 あんたが好きなんだ。

「んぅ」

 国重がむずかるように身体をシーツに擦りつけ、薄く開いた瞼の隙間からとろりとした葡萄色の光が滲む。果てる感覚は死に似ていると、愚にもつかないことを快楽で痺れた頭で考える。死ぬ時も人はひとりで赦しを甘受する。

 本当はこの身が終わる時はあんたとともに終わりたい。でも、それは贅沢だ。死を思い、最上の死に場所を求めているなんて笑われるだろうか。いや、兵士なんてそれぐらいの想像、みなしているのかもしれない。誰もがみな誰にも言えないものを抱え込んでいる。

 ────愛しい人にも言えないものを。

 それでも、いつまでも、なんどでも大倶利伽羅は国重を呼ぶだろう。

 うつらうつらしている国重の唇を捕食し、舌を攫って唾液を混ぜる。意識を浮上させた国重がくたりとした身体を這わせ大倶利伽羅の胸の上に乗り上げようとするので、引っ張り上げ上半身を完全に乗せてしまうと、彼は安心したように笑んだ。戯れに大倶利伽羅のネックレスをいじりながら、心臓の上に耳をあてて溜まっていた涙の残滓をこぼれさせる。国重の手の動きにあわせて光がきらきらと反射し、波音に囲まれて海に沈んでいるかのようだ。

「ぉくりから、今度は……夏に来てみたいなぁ」

「ああ、裸で泳ぎたい」

「ふっ、本当にお前は思い切りがいい」

「きっと気持ちいい」

「お前の身体は夏に映えるから見てみたいな」

 ゆらり、ゆらり、立ち上り、水に浮かんで消える、泡のような会話が、ふたりの意識をもとろめかす。

 

 裾を捲り上げ、裸足で波打ち際を歩いている。靴ごと濡らすというヘマを二度はしない。隣には足をすくわれるような感覚がくすぐったいのか、珍しく無邪気にくすくすと笑う国重。足裏に吸いつくような山の土と、海の砂は随分と違うものだ。昼間の海は眩しくて、眼窩を刺すような尖った輝きが、迫る波から、ステップに合わせて跳ねる国重の髪から、丸くなった瞳からあふれて大倶利伽羅の目を眩ませる。電車が来るまでの穏やかな一瞬。

 もう、家路につかなければいけない。

「お土産、何にしようか? あのコンビニにも置いてあっただろ」

「……お菓子」

「甘いものは喜ぶものも多いな」

 ひどく冷たい波で足を洗い、ときおり体勢を崩しながらふたりは歩く。指先だけを絡ませて。

「国永にはこの辺の貝でいいんじゃないか」

「あとがこわいぞ。あいつはけっこう根に持つからな」

「……桜貝、綺麗じゃないか」

「お前は冗談と本気の区別がつきづらい」

 ぴくりとも動かない己の頰をつついて、国重は何度でも笑う。いつのまにか自分の知らない表情で笑えるようになった国重に一抹の寂しさは拭えないけれど、彼の笑顔は下手くそなのに愛しくて大倶利伽羅も不恰好に笑う。視線が絡まり、不意に指をほどいた国重が波に向かって走り出す。見開いた藤色の残像を残して。大きな飛沫の向こうに声を張る。

「帰ったらまた忙しくなるな」

 後ろ姿が何かに重なった気がした。風に吹かれる背中が。

 ────まだ届く。

 突き動かされるままに大倶利伽羅も波を蹴散らし、背中から腕を回す。誘う甘やかな首筋に顔を埋めた。

「国重……」

 ただ、その名を呼んで、想いを音に封じ込める。

「帰るか」

 呟いた国重の一心に海を映している横顔を見つめて、こめかみとこめかみを合わせ大倶利伽羅は囁いた。

「ああ」

 ふたりの瞳の中で波が躍っている。今度はしっかりと硬い皮膚を持つ冷たい手をつなぎ、家路を急ぐ。

 ────さぁ、俺たちの家に帰ろう。

                                                                                                       NEXT

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