薫ル雪ノ下
冬
「君たちは生まれたばかりの子供だ────」
白い世界に桜が舞う。
ふわり舞った花びらは、降りしきる雪の粒に絡め取られて音もなく落ちた。
俺が呼び出された場所、そこは色彩がない白い世界だった。
脳内に呼び起こされる情報を辿れば、それは雪というもので、冴えた匂いが鼻腔を通り肺まで満ち、周りを認識した途端、寒さに身体がこわばる。寒い。何だこの寒さは。がたがた震えながら前に立つ二人を睨む。懐かしい匂いを感じるにこりと微笑む黒い方の奴は、黒い毛の襟巻をして防寒対策も万全だ。おい、ふざけるな。何でこんな寒い所で顕現させるんだ。寒さで言わねばならない言葉を忘れそうだし、震えて噛む可能性が高い。
「……大倶利伽羅だ。べ、別に語ることはない。慣れ合う気は……ない……からな」
何とか最後まで言い切ると、俺は文字通り固まった。柔らかいはずの肉の身体が動かせない。この寒い中でも薄く笑い続ける隻眼の男は、俺を毛布でぐるぐる巻きにしてさも当然のように肩の上に担ぐが、最初から毛布をくれ。そもそも、何故屋内でやらない。言いたいことは幾らもあれども、震える俺は揺らされながらぐっと喉を締めることしか出来なかった。
その後、風邪という病に見事にかかり、早々に人の身の不自由さを体感した。審神者なるものに説明されたことによると、彼の持つ霊力の質により自然の中で顕現の儀式をとらなければうまくいかないことが多いらしい。毎回あんな事をやっていたなんて、最初からいる歌仙兼定には同情する。
風邪というものは身体の色んな所が痛くなり、内にこもる熱が煩わしくて、肉体が苦しいと感情まで腹の中で渦を巻く。肉の身体のもろさは、刀の時分に感じた苦しさとは違うものだ。最初に人の身体の不自由さをひどく感じたからだろうか、回復してみれば、この身で感じる五感全てが鮮やかで驚かざるを得なかった。審神者の霊力の特性もあり、ここでは四季や天候が自然そのままのように取り入れられているので、尚更訴えかけてくる情報量が多い。歌仙から本丸を取り巻く環境が何も変化しない所があると聞いた時はとても驚いたものだ。なんて味気ないと。
まだ駆け出しで経験も少なく、他にもたくさんいるらしい刀達の中で現れているものの数は少ない。小さな見目の短刀が主で、他には打刀や脇差が一振りずつ、太刀も最初に会った燭台切光忠一振りだ。騒がしい馴れ合いが嫌いな俺にとっては都合の良い時期だっただろうか、他との差もなく地道に戦い強くなる事ができるのだから。
この肉の身体を得て俺は周りに振り回されるのではなく、一人で立てる強さを望んだ。この身体ならそれが出来る。刀の時のように、人に時代に流されて自分の意思で身の振り方も決められず、ただ待つだけなのはうんざりだ。煩わしい事も多いが、強くなれる事にふつふつと高揚する己を感じた。
ここでは、身体の小さい短刀が多いゆえに、見目が上のものが彼らの世話をするのが当たり前になっている。最初は積極的にこちらに関わってくる彼らに面食らったものだが、生活を共にするうちに次第に慣れざるを得なかった。何よりも彼らの何の打算もないような自然な姿に警戒する気持ちが消えた。あいつらは素直だ。痛ければ泣くし楽しければ笑う。懐刀そのままに人の身の心を理解しながらまっすぐなのだ。時にそのかしましさが煩わしくも感じるが、この身で得た感情に素直に向き合うから、肉の身体をうまく使いこなしているように見える。
雪で一面が白い庭で、冷たい空気を肺にとりこむ。
寒さに弱い俺は、もちろん何枚も厚着をしている。首周りを暖めるのが重要で、それに冷えやすい末端の足は二重靴下だ。これで体感温度がだいぶ違うことを学んだ。周りを小虎が跳ね回り、好奇心の強い秋田や今剣を中心に雪の玉を投げ合い、普段はおとなしい前田や五虎退まではしゃいでいる。ああ、今剣が投げた大きな雪玉が秋田の顔面に直撃した。鼻を赤くしながらも大笑いで楽しそうだな、あいつは。
秋田とはよく外を見ていると一緒になる。外の世界への好奇心が強い秋田は自然の何を見ても嬉しそうにしていて、そんなに素直に感情を表せるものなのかと毎回驚く。
冬の雪と雪の合間の暖かい日差しの日、積もっている雪の光の反射に目を細めながら秋田は言った。
「寒いのって、辛いのに楽しいですよね。寒い! 寒い! ってみんなと同じ言葉を言いあっているだけなのに、何だか可笑しくって。でも、ひとりだとあそこまで楽しく無いだろうなぁって思います。いや、面白いんですけど、辛い方の気持ちが勝っちゃうかなぁって」
「そうか」
「変なこと言っていると思いますか?」
「いいや」
「へへ、寒いですねぇ」
「ああ、日向のこっちに来い」
「はい」
その言葉は、ぼんやりと心に残っている。
視線の先の雪合戦は雪だるまを作ることに変化したようだ。
あいつらは何であんな薄着でも大丈夫なんだ。冴えた空気の中、白い背景の上で、熱量を持つ白い息を吐き出す。何と言ったらいいのだろうか、ひどく身体の力が緩む光景。こうやって遊んでいるのをただ眺めるのも、最近定着した俺の役割だ。
雪の匂いとは不思議で、音と同じように他のものを吸い取ってしまったかのように無臭なのに何かを秘めている。明るい灰色に曇った空を見上げれば、また降り出してきた。流石に彼らに声を掛けて、小虎もまとめて抱えて部屋に戻る道すがら、腕の中の温かさにぎゅうと少し胸が締め付けられた。
短刀たちをおやつの温かい善哉が用意された部屋まで連れていき、そのまま並んで席に着く。中から暖まるという感覚も不思議なものだ。暖められた部屋の中から降りしきる雪を眺め、ゆっくりと落ちていく粒、それが深く積もっていく様に見惚れる。白一色の面白みはないが、潔い美しさ。
自然の泰然と、ただ、そこにある、その強さが欲しい。
そこに焦がれる。
「君は本当に外が好きだね」
雪の白さに何か懐かしいものを感じていると、光忠に声をかけられた。
「ひと休みしたら、出陣だよ」
「わかっている」
俺が出陣の時間を忘れていたりするものか。自分の手で自分の意思で敵を切って強くなる。そのためにこの身体をとっているのだから。
隣で善哉を食べていた大倶利伽羅さんが、ごちそうさまと言うと席を立つ。これから出陣の準備があるのだろう。
大倶利伽羅さんは無口であまり多くを喋らないけれど、短刀ばかりのこの本丸で僕らを見守る視線は柔らかだ。限られた範囲の世界しかなかった、刀の時に刻みつけられた記憶から放たれて、無限に広がるこの世界が面白くてしょうがない僕は、よく外を眺める大倶利伽羅さんと一緒になる。彼は本当に静かに佇んでいる。最初の頃は邪魔じゃないかとこそこそ隠れたりもしたけど、ある時好奇心に負けてそろりと隣に並んで同じ方向を見上げてみて気付いた。そこには不思議な形をした雲があって、まるで大倶利伽羅さんの腕の龍みたい。ただ単純に自然を愛でているこの人は、僕らと距離を置きたがるけれど、優しい人なんだろうなって、だから、ちょっとの事じゃ怒らないだろう。庭で僕らが遊んでいる時は、少し離れた所から見守る視線をいつも感じる。この本丸のお母さんが歌仙さんなら、お父さんは大倶利伽羅さんかもしれない。燭台切さんは頼もしいお兄さんで、優しいお兄さんは堀川さん。役割分担が出来て、絵本で読んだ家族ってこういう事なのかな。
大倶利伽羅さんはよく見ると優しい目をしているのだけれど、記憶に残るかつてのあの方のように何かが足りない目をしているのが気になる。
ああ、もう全部食べちゃった。お餅と餡子って何でこんなに合うんだろう。もちもちとほくっとの触感の違いと、んー、何だろ。何にでも合うからお餅はすごい。味があるのに、他の味を引き立てるんだよなぁ。ふぅ、体の中からほかほかだ。ごちそうさまでした。
駆け出しの本丸とはいえ幾分慣れてきたので、この戦場では歯ごたえがなくなってきただろうか。うちの本丸の進軍は実に慎重に進む。なるべく皆の練度に差をつけずに怪我をすれば引き返すという、ある意味臆病な戦法だ。慣れれば物足りなさを覚えるのも仕方が無いことだろう。身体の奥にある強くなりたいという思いが焦燥となってじりじりと身を焦がす。
焦燥に煽られるがままに戦場を走り、大将首を狙って突っ込む。誉だなんだはどうでもいい。多少の傷もどうでもいい。大振りに振られた刃を皮一枚でかわすと、敵の目を切り裂く。ひるんで動けなくなったところを返す刀で首から下に袈裟斬りにすれば、首から大量の血を吹き出しながらどうっと倒れた。息をついたところで、肌を刺す殺気を感じて振り向けば、素早い敵短刀が俺の首を狙って間近まできている。血で手元が滑る。間に合わないか。
「うえですよ~」
刹那、どこから飛んだのだろうか、上から嬉々として今剣が飛び込んできて、ざくりと切り落とされた敵の頭がからからと転がって消えた。
ごうごうと風ばかりが煩い全てを片付けた荒野で、ねとりとした不快な血を拭いながら思う。
俺には何が足りないのだろうか。
血ぶりで飛び散った血が黒々と大地を穢すのが、ひどく不快に感じた。
「大倶利伽羅、君は反省しなくちゃいけないよ」
本丸に帰還すると、すぐさま兄貴分を気取る光忠の説教が始まった。
「何についてだ」
「ひとり突出して戦っていた。足並みを揃えなければ勝てるものも勝てない。君は分断されることすら歓迎しているところがある」
「歯がゆい。個々にそれぞれ強くなって戦えば済む話だろう」
「そういう戦い方もあるだろうけど、何で僕達がここで一緒に生活しながら部隊を組んで出陣していると思うの? 一緒に強くなるんじゃだめかな? 」
「馴れ合う気は無い。……あんたの言う事はここでは正論なのかもしれないが、簡単に納得できる訳ではない」
「……はぁ。君は本当に頑固なんだから」
呆れたように光忠は嘆息するが、俺は俺の思うように動く。
刀の時に刻み込まれた記憶が騒ぐ、周りとの距離を保てと、近付けばいずれ別れが訪れ苦しくなると。それは、肉の身体を得た今でも変わらない。冷静さを欠けば弱くなる。強くなるには、何にも左右されずにひとりで立てなければ、強いとは言えないのではないか。別に波風を立てたいわけじゃない。けれど、支えてほしいわけでもない。
馴れ合って何になる。
それでは何も守れないだろう、自分の心すらも。
俺はひとりで立っていたいだけなんだ。
春
桃色の世界に、桜が舞う。
強い風に煽られ、その儚い桜色は他の花びらに混ざると、消えていった。
俺が目を開けた時、そこは溢れかえる桃色が渦巻いていた。ぶわりと脳内に溢れる情報によれば、これは桜? 沢山の桜が強い風でざわざわと枝を揺らし、散っては舞い上がり踊っている。
ぱちりと瞬きをして口元を布で覆った目の前の人物を見つめれば、どうやら彼の方が俺の主となる人のようだ。その隣には、どこか身近な光を放つ色黒の青年がいる。相手を伺う間も強い風が俺の髪や服をばさばさとたなびかせ、まとわりついて鬱陶しいが、まずは主に御挨拶をせねばと居住いを正す。
「へし切長谷部と申しまっ、イッ……しゅめぇ、んんっ、とあらば、何でもこなしますよ」
何でこんなに風が強いんだ。煽られたストラが顔に当たり、花びらが口の中に入ってきて思わず飲み込んでしまった。はっとして前方を伺うと、主は目を潤ませ震えている。ろくに挨拶もできないやつだと思われたとしたら。
「ふぇっくしょい!! ……ごめんね。花粉症でさ。とりあえず中に入ろうか」
突然の破裂音にびっくりして動けないでいる俺の手を隣の青年に引かれ、びくりと正気に戻った俺は慌てて後を追った。これだけは聞いておきたい。
「何でこんなに風が強いんだ? 」
「これは春一番というこの時期特有の現象だ。この本丸は天候が強めに現れる設定になっている」
すんなりと出た言葉に驚く。この青年は天候に詳しいのだろうか。
「俺はへし切長谷部だ。長谷部と呼んでくれ。お前の名は? 」
「大倶利伽羅だ」
肉の器を得、その作られた目を通して世界を見れば鮮やかな色がとても目につく。桜や、通りすがりに挨拶をした加州清光のひらひらと振られた鮮やかな赤い爪。前を歩く大倶利伽羅の髪が持つ赤への移ろい。すれ違う小さな短刀のふわふわとした様々な髪の色。そして、瞳の色。鮮やかな数々の色が、眩しいような胸にすっと何か空間が広がるよう心地を呼び起こす。通ったところを一通り教えて貰いながら一番奥の部屋まで来ると、大倶利伽羅がこちらを向いた。
「ここが審神者の部屋だ。隣が補佐をする近侍の部屋。近侍は練度が上のものが交代で勤めている」
窓から差し込む日差しを反射して、大倶利伽羅の目がきらりと光った。
「お前の目は輝きが綺麗だな」
その光が瞳の中に閉じ込められ乱反射するような一瞬の美しさに、言うつもりのない無駄口がぽろりとこぼれて、言ってしまった自分が虚を突かれる。
「あんたの目の方が綺麗だろ」
首を傾げれば、ただ淡々と事実を告げるように続けられる言葉。
「まだ鏡を見ていないからわからないかもしれないが、紫……いや、藤色をしている」
藤色?
ざぁっと窓が風でがたがたと揺らされる音が遠ざかる。
刻みつけられた光景、藤を象徴する紋、行ってしまったあの人。大事なものはいつか遠ざかって、俺を置いて行ってしまう。いくら手を伸ばしたくとも刀には出来なくて、ただそこに残されるという事実に、きりきりと胸に突き刺さる痛みが蘇る。
「おい」
「……ああ、大丈夫だ」
固まってしまった足を何とか動かして、主の部屋に入室する。
肉の身体を得ても忘れさせてはくれないのだな。
一通り説明と案内を受けると、日が沈む時分になっていた。案内してもらった自室から、どことなく胸が騒ぐ空の色に見入っていると腹部からきゅるきゅると音がし、とても心許ない。これが空腹か。夕餉の時間になったら広間に来いと言われていたのを思い出し、お腹が空くという初めての感覚を抱えて、少し冷え始めた廊下を歩いて広間に向かった。
夕餉の席では他の仲間に紹介をされ、俺の世話役であるらしい大倶利伽羅の隣に席を用意される。主の初めての刀である紫色が鮮やかな歌仙兼定には、分からないことは彼か僕に聞いてくれと言われた。
ちらりと隣の世話役を観察して気付くことには、大倶利伽羅は比較的若い見目をしている割には佇まいが静かだ。それは、卓につく他の刀達と比べても分かる。
情報としては食べ方が分かるので、いただきますと手を合わせると、お腹の中できゅうきゅう鳴く虫に急かされるように箸を手にとり、先ずは白いご飯を口に入れた。
「喉に詰まらせると良くないから、最初は良く噛め」
ぼそりとかけられる言葉に噛みながら頷く。慎重にゆっくりと良く噛めば、どろどろになったものがすんなりと喉を通って、口の中に残るほのかな甘味。うん、美味しい。次は大皿に乗せられた天ぷらに手を伸ばす。緑色した中身はなんだろうか。さくりと歯を立てた瞬間、青臭い苦みがいっぱいに広がって驚く。え? これは美味しいのか? とても俺には美味しいとは思えないが、一度口に入れたものを出すことは出来ないし、作ってくれたものに失礼で何より勿体ない。苦みが大いに主張するのを何とか我慢しながら良く噛んで、飲み込んだ。
息をついて口直しにと澄まし汁を飲めば、思いの外熱くてむせそうになる。舌がひりひりと痛い。ばたばたとしているのを見咎められやしないかと隣をそろりと伺う。大倶利伽羅はこちらのことなど気にせず黙々と綺麗に食事をしていて、食べることすらままならない自分に呆れた。
何とか全てを食べきりお膳を片付けに行った先で、眼帯をした燭台切光忠に苺に白い液体がかかったものを渡される。
「はい、食後のデザートだよ。長谷部君は好き嫌いとか無いのかな。食べ方も綺麗だったし、しっかり全部食べているね。今日の天ぷらは山菜の苦みが短刀ちゃん達には不評で失敗しちゃったな」
ひんやりとした器の冷たさを感じながら息を吐き出して、どうやら俺の内心の慌てようは外には出ていなかったことに安堵する。早く主のお役に立つ為にも、初日から情けないところは見せたくない。でざーとなる苺をぶちりと噛めば、舌を刺激する甘酸っぱさと後から追いついてくる濃厚な甘味。……美味しい。白い液体をフォークに絡めて舐めとり強い甘味のもとを特定して、自分にとってこれが美味しいというのは教わらなくても分かるものなんだと知る。甘いものは素直に美味しいし、気分が高揚するものだ。好きなものと嫌いなものを一つずつ見つけた。ものごとに好悪を感じる己が不思議で、ただの鋼にはもう戻れないことにざわりと胸が波打った。
冴え冴えと良く切れそうな細く鋭い三日月が輝いている。
最近はだいぶ肉の身体に慣れてきて、日常生活を送る分には問題なく当番もこなせているが、どうも寝つきが悪い。 前は慣れない身体が疲れを感じて横になるとあっという間に眠りに落ちていたのだが、最近はごろごろと寝返りばかりをうって時間を無駄にしている。他のものはこういうことはないのだろうか。眠く無くとも布団に入らなければ始まらないので、ふかふかとした居心地のよいはずの布団に滑り込み、努力するべく目を閉じた。
案の定すんなりとは睡眠に入れず次の日の朝を迎えて、重い身体で内番に向かう。
今日の馬当番は大倶利伽羅と一緒でこういう時こそ世話役に聞くべきだと思いつき、馬の大きな体にブラシを当てながら尋ねる。
「尋ねたいことがあるのだが、大倶利伽羅は眠る前はどうしている? 」
「どういうことだ」
手を止めた大倶利伽羅は訝しげに返してきた。
「その……最近布団に入ってもなかなか眠れなくて困っている。それで、良い入眠の仕方を知っていたら教えて欲しい」
「……俺には眠り方が分からないというのが分からない。……横になれば、すぐ眠れる」
「そうか……」
ここまではっきり分からないと言われてしまうと何も言葉を続けられず、俺も大倶利伽羅も黙り込み、後はお互い黙々と手を動かした。恥を忍んで他のものに聞いてみなければならないか。 見るともなしに勤勉に動く龍が掘られた腕を見ながら、大倶利伽羅は時に反抗的ともとれる発言をするが、仕事ぶりは随分と真面目なことが今更ながら印象に残った。
「昨日の上手く眠れないという話なんだが」
またその次の日、俺は寝る前に大倶利伽羅を訪ねて頼み込んでいた。
「ああ」
「今剣に聞いたら、うまく眠れない時は堀川に絵本を読んでもらうと言っていた。そうすると、昼間のことを忘れて気持ちが落ち着くのだと」
「そうか」
「……その、絵本を借りてきたから読んでくれないか」
「……なぜ俺が」
「お前の声は優しいから寝る前には良いかと思ったんだ。こんなことを頼むのは恥ずかしいが、何のお役にも立てない内に不具合を起こしたくない」
暫く考え、溜息を吐いた大倶利伽羅は静かな声色で答える。
「感覚がつかめればいいのか……一回だけだからな。あんたの部屋じゃなくていいのか? たぶん横になって聞いた方がいい」
短刀ばかりの初期からここにいて、渋々といった態度でも頼みを断らないこの男は、実は面倒見のいいやつなのかもしれない。古参の今剣に話を聞いた時に真っ先に読み手として大倶利伽羅の声が浮かんだので、勢いで頼んでしまったが結果的に良かったようだ。
そう、ちょうど昨日食べたふわふわとフォークを押し返すシフォンケーキのように、空気を多く含んだ低めの柔らかい声が、読み方はケーキに添えられたクリームのようにあっさりとしているのに気持ちを緩め、段々とうつらうつらしている自分を感じたら、いつの間にかすとんと眠りに落ちていた。
結局、ぐりとぐらはほっとけぇきを食べられたのか?
翌朝、寝起きのぼんやりとした頭でそれだけが気になった。
手合わせで刀を振るうことにも慣れた頃、「そろそろ次は演練に出てみようか」と歌仙に声をかけられる。演練を何回かこなせば実戦に臨めるという先の展望が見えてきたことで、高揚する己を感じながら俺は一層稽古に励んだ。
初めての演練の結果は散々だった。
演練相手として、未だこの本丸にはいない刀や大太刀と相見えて力の違いを思い知る。同じ隊の中でも俺は練度が低く、真っ先に切り倒され、ぴくりとも動けない身体で大太刀に同じ隊のものが一気に倒されるのを見ていることしか出来なかった。勝つことが出来た試合でも、ひとり怪我を負い、率先して走り切りつけても、大した深手を負わせることもできなくて、なにひとつ武功をあげられない。試合が終われば傷は自動的に消え、身体の痛みも無くなるが、頭の後ろがすっと冷える感覚が付きまとう。 自分自身でもある刀はこんなに重たかっただろうか。
動けないで、ただ見ているだけは嫌いだ。手を伸ばすことすらできなくて、じくじくと胸が痛む。
演練をこなしたところで、今度は早く練度を上げるために古参の第一部隊にひとり混ぜられて出陣することになった。毎日俺よりも強い敵と対峙して短刀に庇われ、自分の不甲斐なさを突きつけられ続けることで、腹の底がちりちりと炙られるような気持ちが生まれる。身体の痛みは大したことじゃない、本丸に帰ればちゃんと手入れが施される。けれど、この不快な気持ちだけは無くならず、むしろ増幅していくのを感じていた。
「おい、そう苛々するのはやめろ。空気が悪くなる。あんただけが通った道じゃない」
俺の手に余る感情に、表に出しているつもりは無くとも態度に出ていたのだろうか。あらかた敵を片付け帰路につこうかというところで、珍しく大倶利伽羅に声をかけられた。何か言い返したくとも、己の不甲斐なさを一番痛感しているのは俺だ。なにひとつ返せる言葉がない。何も言わない俺に呆れたのか、大倶利伽羅は、「お前の問題はお前にしか解決できない。周りに押し付けるな」と言うとその鍛えられた背中を向けた。
勝てない悔しさに俺が努力すればいいだけだとわかってはいるが、抑えきれない感情を持て余している。 人の身についてまわるこの感情の生々しさ、頭でわかるのと心で納得できることの違い、 その齟齬で、ぐらぐらと気持ちが揺れて戸惑う。
立ち尽くす俺の肩を後ろから叩いて、歌仙は通りすがりに言う。
「君はもうちょっと余白を作った方がいいよ」
面白みが無い堅物であることは自覚しているが、余白とは何だ。この本丸で俺は役に立てているのだろうか、目に見える結果が出せないと不安になる。
役に立てなければ、また世界が遠くなる。
いつの間にか静かに隣に立っていた小夜が俺の手を握っていて、その小さな手に弱く引かれながら歩を進める。上手くまわらない唇を引き結んだまま、本丸まで俺よりも高い体温を感じていた。
揺れる、ひなげし、すみれ、ひなぎく、あねもね。
澄んだ空気の中、井戸で水を汲むと乾いた土に水をあげすぎないよう優しく含ませる。そして、周りの雑草を抜いてやり、害虫がついていないか顔を近づけてよく調べ、病気にも気をつけなければいけない。出陣や内番の仕事に支障がないように、早朝に花の世話をするのが最近定着した習慣だ。ひととおりの作業を終えて咲き誇る花を見ていると、主命を受けてからのことを思い出す。
大倶利伽羅に注意された数日後に、主から呼び出しを受けた。主の部屋の前で身なりを整えてから声をかけようとすると、中から歌仙が問う声が聞こえる。
「長谷部はどうだい? 能力は高いはずだが」
自分の名前が聞こえてきて、思わず口を閉じてしまう。
「うーん。ちょっと真面目すぎるから不安かな。今までにないタイプだね」
ぐっと喉がつまる。俺は信頼には値しないということだろうか。結果を残せていないのは事実なのに、改めて突きつけられるとひどく堪えて考えがまとまらない。真面目だと何が悪いのかも未だ分からない。分からないことだらけだ。頭を振って無理やり混乱して渦巻くもの押しとどめると、室内に入室の許可を尋ねた。
「誰でもできる花の育て方」と書かれた本と幾つかの花の苗を前にして、呼び出しの理由である俺に与えられた主命は本丸の一角にある花畑の管理だった。何か叱責を受けるものと覚悟していた俺は少し惚けてしまって、すぐには返事を返せなかった。
「他の仕事もあるし、ゆるく管理してくれればいいから」
「拝命致します」
回らない頭でなんとか声を出すと、困惑で埋め尽くされた頭を下げた。
最初は半ばぼんやりとしたまま主に託された花を育てていた。刀が何をしているのだろうと頭の片隅で思いながらも、頼まれたからには結果を出したい一心で、毎日水を上げて雑草を抜き、少しの肥料をたしてやり、当番や出陣の合間に世話をし続けた。そのうちつぼみが少しずつ膨らんでいき、ひとつ花が開けば、他の幾つものつぼみも追いかけるように花開くのを間近で見つめ続けていると、満開になる頃には、すっかり花を好きになっている自分に気付く。我ながら自分の簡単さには呆れたものだが、その鮮やかな色、繊細な花弁の形、間近に寄れば香る花の匂い、花は存在だけで美しいという事実には勝てなかった。
ただそこにあるだけで必要とされることが、ひどく羨ましい。
たまに強くなる風に煽られるように激しく揺れる花。ひゅうという風やざわざわという葉が擦れる音が遠ざかり、喉が詰まるような感覚がして立ち尽くす。風に揺れる花をただじっと見つめていることしか出来ないでいると、隣に感じる暖かい気配、畑仕事帰りらしい小夜の蒼も揺れている。
小夜は刀であった時の縁ゆえか、お互い無口な性分ゆえか、何かと良くしてくれる。顕現して長い小夜なら何か教えてくれるだろうか。
「小夜、俺はここで生活していると、時折ひどく胸が苦しくなる。この感覚は何だろうか? 」
決して口には出せないが、周りに追いつけない自分がふがいなくて、ひどく苦しい。
「全てが遠く感じるんだ」
「それは……心細い……かな」
「心細い? 」
「僕も前はそんな感じがよくしたよ。急に周りが真っ暗になって、自分ひとりだけになったみたいで」
「小夜は……どうやってこれを無くしたんだ? 」
「……宗三兄様が来て、ここで生活してるうちに、完全には消えないけれど……少なくなってきた。長谷部、……焦らないで」
「けれどっ、時間は無限ではないだろう……」
身にしみている事実に思わず力がこもってしまう。
「……うん。……そうだね」
柔らかい風の中で小夜の鮮やかな蒼と花が踊る。小さくて細い小夜を眺めていると、心細いとは違う胸が詰まる感覚がして、目の奥が痺れひどく泣きたくなった。
今日は一段と暖かさもまして、過ごしやすい。春は様々なものが芽吹く、変わりゆく美しさを感じるには申し分のない季節だ。身なりも整え襷がけをし、そろそろ朝餉の支度にでも向かおうかという時、「歌仙、今大丈夫だろうか? 」と問う声。
おやおや、珍しい男が訪ねてきたね。
「ああ、お入りよ」
「すまない。手が塞がっているので開けてくれないか」
何を持ってきたのかと戸を開ければ、そこには無表情で様々な種類の花を抱えた長谷部がいたのだが、何分その表情と持っているものの華やかさが合っていなくて、どこかちぐはぐだ。
「どうしたんだい?」
「お前も知っての通り、花を……育てているのだが、それがたくさん咲いた。お前なら綺麗に活けられるのではないかと思って、持ってきた」
「ああ、活けるのは好きだし構わない。質素なこの本丸が華やぐよ。ちゃんと枝も持ってきてくれたのだね」
真面目過ぎて遊びのない性格を心配した主が花を育てるよう命を下したのは知っているが、普段と比べると突飛にも思えるこの行動の真意はどこにあるのだろうか、表情ひとつ変えないその両対称な顔を見つめる。
「なんだ? 」
「意外だね、君がこんなことを頼むなんて。咲かすならそのまま咲かせて、飾るという発想はないように見えていた」
幾度か口を開閉させ、躊躇った後に吐き出された言葉は意外なものだった。
「せっかく咲いたのだから、みなに見てもらった方がいいだろうと思った。それだけだ」
真っすぐにしか物事を見られない不器用なつまらない刀という意識は改めた方がいいだろうか。けれど、本当にどこまでも真面目な刀だね。思わず笑みがこみ上げるのを、長谷部はあくまで真面目くさった顔で訝しげに見ている。気を取り直して花を受け取りながらその完成図を頭に描いていると、その少し荒れた白い指の先に目が止まる。
「おや、だいぶ爪が伸びているね。刀を持つ時に支障があるといけないから切った方がいいよ」
まだ朝早い時間だからとても静かだ。ただ、空はもうだいぶ明るく障子越しに柔らかく手元を照らしてくれている。
自室でひとり伸びてしまった爪を小刀でこそげる。左手はまだいいが右手が難しい。利き手じゃない左で覚束無い手つきながら慎重に切り進めていくが、小指は安定感が無くてぐらぐらとしてしまう。
「……っ」
力加減を間違え滑った刃が薬指に当たり、すうっと赤い線が浮かぶ。下手くそ、こんなことさえうまく出来ないのか。戦闘時に比べたら大したことない小さな傷が、じくじくと主張するのが煩わしい。ぷつりと膨らんだ真っ赤な血が畳に流れ落ちそうで思わず口に含めば、口の中に不快な鉄の味が広がった。
刀でありながら刀でない己を思い出す。
小夜が小さな声で言った、焦らないでという言葉。
「くそっ」
まだこれからだ。
悪態に溜まったものを込めて吐き出すと、乱暴に救急箱から絆創膏を取り出し、皺が寄っても構わず、
ぎゅっと巻きつける。
まだやれることはある。
不器用な己の手を強く握りしめた。
夏
じとじとと長雨が続く、この強すぎず弱すぎずな雨の音はどこか眠りを誘う。ここのところ空いた時間があれば寝てばかりいるような気がするが、自分の意思というよりは気が付けば眠っているといった感じだ。やはり、この音が……。微睡んでいるところで、雨音のリズムに重なる、とんとんという少し早めの足音。
これは長谷部か。この長谷部という男は、刀派が近いとかで世話役に任命されたが、俺に負けず無口で表情があまり動かなかった。かたくなという言葉がぴったりな無味無臭に近い刀。自分のしたい事したくない事がはっきりしている刀が多い中、忠誠心が高く命令されれば何でもやりそうな所は少しかんに触った。主とはいえ、只の人に全てを委ねるなんて盲目すぎる。世話役で一緒にいる事が多かったからか、俺とは比較的話す方だろう。
だからと言って何もないが、戦場での刀然とした血に昂る様、主を前にした従順な様とは違い、一緒にいる時はひどくおとなしい男だ。その煩くないところは嫌いじゃない。おとなしい、おとなしすぎるのかもしれない。
そこまでとりとめもなく考えていた所で、一度通り過ぎた足音が戻ってきた。ふっと香る甘い花の匂いで、近くまで来たのがわかる。そういえば、この男は意外な趣味を持っていて、花を育てているのだった。ただ、活けるのには興味はないようで、よく歌仙に花の束を渡しているのを見る。その花は歌仙によって綺麗に活けられ本丸を彩っているが、花は自然のままに咲かせてやった方がいいんじゃないか。
「大倶利伽羅」
遠慮がちに俺の肩を揺らす手。たゆたっていた意識が一気に覚醒する。ばちりと目を開けば、覗き込む長谷部の薄紫。
「起こしてすまない。雨と風が強くて天候がだいぶ荒れている。畑に保護のシートをかけるのを手伝ってくれないだろうか」
「……ああ、かまわない」
「雨の中の作業になるが……」
「あんたが気にする事じゃないだろう。みなの畑だ」
「ああ、急ごう。もうだいぶ風が出てきた」
内番服のまま寝ていたので、そのまま上に雨合羽を羽織り早足で畑に向かう。長谷部の用意したシートを被せ、しっかりと杭をうち止める。雨の粒がばしばしと顔に当たる中、黙々と端と端を持ち広げて被せるのを繰り返していく。確かこれは……夏によく起こる台風。どんどん雨と風が強くなり、風に煽られて被せることが中々出来ない。自然の猛威に逆らうのは無謀だ。
「長谷部! これ以上は諦めた方がいい。作業が進まない」
「あと少し、こことあそこだけでも! 短刀達が楽しみに育てていたんだ。努力を無にはしたくない」
「……わかった」
なんとか覆いをして急いで屋内に戻ろうとすれば、無表情の中に何故か少し目を輝かせた長谷部が俺の手を引き、風雨に負けじと耳の近くで叫ぶ。
「これは何という天気なんだ! 」
「台風だ! 」
「そうか、これが台風か」
雨合羽をばさばさと靡かせ、泣いているかのように睫毛や頬を濡らしながら、どことなく楽しそうに空を見上げる。
今、笑ったか? これ以上こうしてもいられないので、手を引き本丸に向かう。雨合羽の効果もなかったずぶ濡れの身体を玄関口で何とか水を切ろうとしていると、タオルを持った歌仙が顔を出した。
「ああ、お疲れ様。すまないね、人手が足りなくて。軽く拭いてお風呂に入っておいで」
「ああ」
肌に服を張り付かせて、風呂に向かう。隣を歩く長谷部の髪もいつもよりぺたりとしていて、うっとうしいのか髪をかけたことで薄い耳が見えている。無言で歩きながら、そういえば意外だったなと思った。短刀達の畑を優先して保護しようとするのは。もっと合理的に考えているのかと思っていた。無表情で隠された奥にちらりと見えたものに、落ち着かない気持ちになる。そして、たぶん強い風に楽しそうにして漏らされた無邪気な笑い。あんな子供みたいな柔らかい部分を隠していたのか。
濡れた服を脱ぎながら長谷部の方を伺えば、張り付いて脱ぎにくい服に苛立っているようで、力任せに脱ごうとしている。擦れて肌が赤くなっているのが忍びなく、短刀たちにするように重たくじっとりとしたジャージに手を伸ばしていた。
「焦らずゆっくりやれ。傷がつく」
無言で顔を赤らめ頷く長谷部は、見目が幼きものたちとなんら変わらない。
並んで熱い風呂につかり、思っていたよりも冷えていた身体を温めていると、隣からこちらを伺う視線を感じる。いつもなら誰にいくら見られようとこちらから関わる気はないのだが、さっき感じた長谷部の印象が気にかかり問いを投げかける。
「なんだ? 」
いつもの他の刀たちの喧騒がない二人きりの静かな浴場に声が響いた。
「…っすまない」
横を向けばひどく驚いた顔をしているので、どうやら俺を見ている自覚がなかったようだ。
「その、最近は良く眠ってばかりいるようだから、この間打刀にかわったのが負担になっているのかと」
先ごろの政府からの通達で、俺を含む太刀三人の刀種が打刀に変わった。未来を守るためとは言え、俺たちをこのように呼び出すぐらいだ、人の勝手は今に始まったことじゃない。
「特に負担ではない。昔は大太刀だったのが、擦り上げられた。太刀に分類されたのが、打刀になった。何も思わないわけではないが、……戦えればそれでいい」
「そうか」
そっと湯気を乱すように吐かれた息は、安堵のため息だろうか。俺はこの男に心配されていたのか。面映ゆい気持ちで鳩尾がちりちりと燻るのを感じ、殊更乱暴に湯を波立たせ逆上せる前に早々に風呂を出た。
「最近、洗濯物が甘ったるい」
じっとりとした暑さが厳しい空気が澱むような油照りの日、冷たい麦茶を飲みに立ち寄った厨で鼻歌を歌いながら皿を洗う光忠に声をかける。
「え? ああ、柔軟剤をね、変えたんだ」
暑いのに随分と上機嫌だ。
「匂いがきつすぎる」
「そう? いい匂いだと思うけど強すぎたかな。まあ、洗濯物は多いからすぐ使い終わっちゃうよ。それまで我慢して」
「わかった」
「あっ、くりから暇なら長谷部くん呼んできて! 畑のいつもの場所にいると思うから。作業に没頭すると時間忘れちゃうみたいで。おやつあるよって」
長谷部は仕事に没頭すると、それだけしか見えなくなる事が多い。そして、そういう時の背中は雄弁だ。青江と歌仙と刀装を作っている姿勢よく背筋が伸びた背中が、悪い出来の時は少し丸まり、良い出来の時は喜びを表すかのように少し左右に揺れていたのを思い出す。
光忠に頷き、仕事が無い時、長谷部はここにいると定着した畑の隅の一角に向かえば、果たしてそこにいるのが遠くからも見える。上はシャツ一枚になり、どうやらこの日差しが強い中、帽子も被らず働いている。髪がきらりと反射して、思わず目を細める。近づく程に畑特有の土と緑の青臭い匂いに花の甘い匂いが混じりはじめ、湿った空気と相まって、まとわりつくようだ。しゃがんで白く大ぶりな花を一心に見つめる長谷部はこちらには気付かない。白い項が赤味を帯びて濡れた髪が千々に貼り付き、つうと顎を幾つもの汗が伝っている。その生々しさに汗の匂いが強く感じられ、何故か足が止まった。これ以上は近付けない。
「おい……長谷部」
びくりと顔を上げた長谷部は、ぱしぱしとしきりに瞬きをして眉を下げる。
「どうした」
「汗が目に……」
立ち上がろうとして、尻餅をつききょとんとする。
「あんた、大丈夫か? 」
「足が痺れた……」
「一旦、中に入れ、熱中症になる。おやつがあると光忠が呼んでいた」
しょうがなく手首を掴み引っ張り起こすが、その柔らかい皮膚の下のしっかりとした太く硬い骨と筋を、俺の力で握り潰してしまいそうで慌てて離れる。湿った汗に、ふわりと漂う控えめで高貴な香り。
「伝えたからな」
まるで逃げるような自分の行動が分からない。
蒸し暑さなど無視して、部屋の戸を閉めきる。
腹の中でどろりとしたものが燻る。あの匂いが蘇って、落ち着くために荒く呼吸をすればする程、肺を通って中を満たし頭が痺れる。羽虫を誘う花の匂いが皮膚を撫でていく。口内に溜まった唾を飲み込めば、蜜のようにどろりと喉を滑り落ちる。肉を切る高揚と同じようでいて少し違う。じりじりとしたこれは何だ。焦る気持ちのままに歯で手袋を取り去り下履きを寛げ、立ち上がった己を混乱する頭でじっと見つめる。こうなることは、生理現象で度々処理もしてきたけれど、こんな内蔵から熱を持つような欲は知らない。熱が陽炎のようにゆらゆらと立ちのぼり、全身がじっとりと汗で濡れる。掌に唾を垂らし、ぐちゅりと己にまぶして、焦る気持ちを宥めながらゆっくりと扱く。
白い肌、日に焼かれて染まる。流れ落ちる汗、氷のように涼しい顔をした男が持つ鉱石のような瞳の光の反射、意外に柔らかく跳ね返す肌の感触。風が吹く度薫る花、揺れて。
殊更腰が跳ねるくびれと筋を強めに擦り、己の手で煽られるままに種を塗り広げ加速する。扱く腕の筋肉がさざめく。
夕餉の席、鞘ごと口元に寄せられ飛び出した枝豆が赤い粘膜に吸い込まれて、形の良い唇が行儀よく咀嚼する。粉々に噛み砕かれ、飲み込まれるのを思う。青く甘い息を吐き出す、その唇が。
種が作られる場所が張るように重たさを増して、透明な液をとろとろと零す口を、なぞる。
「んっ」
戦場でもぴしりと伸びた背中の骨。しなやかに動く足、遅れてひらり舞う不思議な装束。好戦的に口角を上げる横顔、血に濡れながらも怜悧な目。血の匂いに混じるように、風によって運ばれる香り。扱く己の手が加速するのに合わさるように、少し低いあの男の体温が重なる。
「くっ」
びくびくと震える己が吐き出す白い種を、掌で受け止めた。その粘度が高い物体が見知らぬもののようで、ぐちゃりと握り潰せば、青臭い匂いが鼻につき、ぐねぐねとした混乱で頭が痺れる。吐き出したことで落ち着いた身体を尻目に、荒い呼吸を繰り返せども腹の中は少しも落ち着かない。
この暴れ回るものは、臓物を焦がすものは────。
湿度の高い締め切った屋内では汗が引かず、じっとりとしたシャツが不快で乱暴に脱ぎさり、くしゃくしゃにした白い塊で白く濁る種を強く拭い取った。
俺は何故あいつの背中を覚えている。
清廉だが、ささくれのように引っかかり、ざらりと何かを苛立たせるその背中。
歯をぎりりと食いしばって、己の刀を掴んで握りしめる。
その冷たさを感じていたかった。
秋
ひどく静かだ。
ひとはりひとはり、木に引っかけてしまって裂けた今剣の袖を繕う。
完璧に綺麗にはならないぞ、繕った跡が残ってしまうがいいのか? 新しいのを買うか? と何度聞いても、大丈夫だと押し切られてしまった。こういった作業は苦ではないが、出来はやはり素人に毛が生えた程度だ。本当に良かったのだろうか。手だけをひたすら動かしていると、迷いが晴れるようで段々と頭が白く冴え渡る。そういえば、そろそろ寒くなってくると大倶利伽羅に言われたことを思い出した。確かに朝の冷え込みは厳しくなってきていて、しっかりとした防寒具の用意もせねばならない。
布が重なる厚いところで針が止まる。指ぬきで針頭を押して通す。
大倶利伽羅の傍は落ち着くのか、よく隣にいるような気がする。ふとした瞬間、気が付けば隣に座っていたり並んでいたり、先日の焼き芋大会とやらの日もホイルに包まれた丸々と育った焼き芋を手に立ち尽くす俺の隣に来て、さっと熱い焼き芋を半分に割り俺を縁側に座らせると無造作に渡して来た。
「熱いものは割れば、冷めるのも早くなる」
何故分かったのだろうか。熱いものは苦手だし、一本まるごと食べられるだろうかと考えていたことが。隣に座りあって、ふぅふぅと湯気を散らしながら恐る恐る端を齧る。甘い。蒸かした芋とは違うねっとりとした甘さ。皮をぺりぺりと剥がしながら夢中で食べていると、隣から視線を感じて、その元を見返して驚愕する。
「皮まで食べているのか? 」
「皮も食べられる」
「食べられるだろうが、美味しいのか? 」
「問題ない」
どこかずれた潔さに可笑しくなって口元が緩み、むずがゆい気持ちになった。
「ふふっ」
つい俯いた状態になってしまうので、首に負担がかかっているようだ。区切りのいい所で玉留めをし、端をちょんと切る。一旦置いて、思い切り伸びをして首を回す。
視界の端に映る赤と黒。そういえばいたのだったか。外を掃いている加州と大和守の声が漏れ聞こえる。虎を探す五虎退の声も。静かに眠る大倶利伽羅。こんなに眠って夜も眠れるのかなんて、些細なことが心配になるが、起こすことははばかられる。何故かこの男の眠りを邪魔することは、ひどく躊躇われるのだ。その静まり返った平穏をぐしゃりと握り潰してしまいそうで。
この男が打刀になったあの頃も、よく眠っていた。改めてその姿を眺めれば、その有り様がとても不思議だ。その潔さに少し憧れを抱いている。大太刀であったのが時代の流れで擦り上げられて、名前を付けられた。そして、人の理で刀種という枠に押し込められた。それを戦えればいいと受け入れた大倶利伽羅に感心した、その割り切れる心に。
刀としてはどこか似ているようで似ていない存在を考えていると、冷えがちなこの指の先まで熱が巡るようだ。触れてみたくなって伸ばした指を、躊躇して握る。けれど、もう夕餉の時間だなんて正当な理由を付けて、わざとその肩を乱暴に掴み揺する。
「もうすぐ夕餉だ。手伝いに行くぞ」
「ん、……ああ」
準備にばたばたとした広間で配膳を手早く手伝い、それぞれの席に着く。
鶴丸が顕現し博多も顕現し、最近は黒田や伊達で食卓を囲むことが多い。その少しの距離を残念に思う自分に首を傾げる。今日は栗ごはんにきのこのおひたし、里芋のそぼろあんかけ、大皿に並んだ天ぷらを隣の博多にとってやる。賑やかに話しながら食べる博多に、静かに食べる大倶利伽羅との違いが際立って、楽しく食べているのに何かひっかかる。
この少しの距離。
そうか。俺とあいつの間には何もないのだと、今更ながら思い知った。
月の光すらない漆黒の市中を、青江を隊長に俺と小夜、前田、秋田、今剣の短刀ばかりの部隊で駆ける。何度か交戦してそれなりの傷を負ってはいるが、まだいける。その狭く細い道を駆けながら感じる、高ぶる鼓動と呼吸。
障害物を使い踏み台にすると、上手く動かせるようになった己の肉体が歓ぶままに、でかぶつに切りかかる。思うように戦える気持ち良さを感じながら俺が先手をとり隙を作れば、そこに前田が走り込み確実に大太刀の首元の急所に突き刺す。昔は短刀を侮っていたのかもしれない。彼らと錬度が並び、一緒に戦えるようになって思う。敵に突っ込むその心の強さを。 刀装を一つしか所持できない彼らには良いものをやりたくて、青江や歌仙と資材を無駄にしながらも、ひと際輝くものを作り上げた。踊るように跳ねる彼らと同じ土俵に立てるのが嬉しい。
ひゅっと空気を切る音が聞こえる。身体がでかいだけの奴は大したことないが、問題は硬く速い槍だ。何とか皮一枚で避け、肩に刃を振り下ろすが、硬い。舌打ちをして、手元を狙い槍の柄を蹴り上げる。隙ができたところに、槍の背後から小夜が飛び込んでくるのが見えた。首の後ろに振り下ろされた刃。終わったかと思ったその時、しぶとい槍が己の長い得物をすっと持ち替え、背後に突き刺す。狙いをそらすべく、短く持たれた柄ごと腕に切りかかるが間に合わない。
「小夜!!」
まるで背後に目でも有るかのように、その刃は小夜の小さな身体を貫いていた。
はっ 、吐き出された息と共に頭が白く冷える。冷たい怒りで満たされた俺は、隙だらけの身体を晒す胴体を渾身の力で押し切った。
「小夜!」
槍が塵芥のように消えると地面にどさりと落ちる小夜の身体。がらんと横たわる短い刀の鈍い光。口と胸からおびただしい血を吐き出す小夜を抱き起せば、温かい血が俺の紫に染みていく。身体を痙攣させながら、やっと目を開けている小夜は、こちらを見て少し笑ったーーー。
「だめだ! 小夜!」
溢れる光がその身体を包む。宗三が誉の褒美に賜って与えたお守りが発動していた。けれど、危ない状態なのは変わりがなく、ぴしぴしと刀身にヒビが入る音が聞こえるようで大事に軽い身体を抱え、無我夢中で走る。今新たな敵に遭遇すれば、間に合わない。
「急ぎ帰還する!」
小夜と俺を守るように囲むみなと共に時渡りの箱に飛び込んだ。
寝ずに見守っていた宗三を休ませ、手入れも終わり身体の傷だけは綺麗になった小夜の手を握る。
わかっていた、いつかはこういう事も起きるって、いつか必ず別れはくるって。
小夜の猫のような目が、じっとこちらを見つめている。
「長谷部、もう大丈夫だよ」
長谷部は駄々をこねるように首を振る。
「なんで……なんで、笑ったんだ?」
「……秘密の話をしよう。長谷部に聞いてほしいんだ。僕は……壊れそうになった時に、終わることに安堵を感じた」
握る手の力が強くなった。
「だけど、すぐに兄様との約束を果たせないことが嫌だと強く思った」
「……宗三は本当に心配していた」
手の甲をそっと撫でる。
「うん。目が覚めて顔を見て、ああ帰ってきたなって思ったよ。僕はここでの生活が楽しい。兄様や長谷部と過ごす毎日が楽しい」
「うん」
やっと目を見てくれたね。
「たまに夜寝る前怖くなる事があるんだ。復讐を果たす為にある刀の僕が何をしているんだろうと頭が冷めて、でも、隣で眠る兄様の寝言を聞くと、笑ってしまう」
「意外に豪快なところがあるからな」
普段の様子を思い起こしたのか、少し口角が上がった。
「うまく言えないけど、 生活し続ける事で刀に刻みつけられた何かを、乗り越えられるんじゃないかって……そう思った」
そう気付けたんだ。
柔らかな小さい光だけが照らす部屋。折れかけたというのに、不思議ととても静かな気分だ。ざわざわと僕を追い立てるものが大人しくしていて、むしろ長谷部の方が調子悪そうだ。
手を離した長谷部は器用に柿を剥いて、無造作にこちらの口元に差し出してきた。その手からそのまま齧ると、若い柿の歯ごたえが心地よい。かりかりと咀嚼する音だけが響く中、こちらを見る長谷部の目は柔らかい。人のことは言えないけれど、もっと笑えばいいのに。
きしり
遠く、廊下の軋む音が聞こえた。
この滑らかに重心を移動させ素足で歩いてくるのは、きっと大倶利伽羅だ。今日は新月だから影さえも映らない。ゆっくりとした足音は部屋の前で止まり逡巡して、また戻っていった。
「長谷部、障子を開けて」
不思議そうに長谷部が開けた先には、柿と小さな青紫の花。
「御見舞だね」
「誰だろうか? 」
「きっとあの足音は大倶利伽羅だよ」
「竜胆だ。……優しいな」
そう言う長谷部の目も優しく潤んでいる。
「長谷部、絵本を読んでくれる? うまく眠れないんだ」
「その、宗三じゃなくていいのか? 」
「兄様は休ませてあげたい」
「ああ」
「あと、今日は長谷部の声が聴きたいんだ」
「ふっ……そういう時もあるな」
「うん」
梅干しのおじいちゃんの誕生日、漬物石じいさんとの噛みあわないのに重ねられていくとぼけた、でも優しい会話。くすくすと笑みを含んだ声で紡がれる楽しいお話は、優しく眠りに手を引っ張っていく。眠くてもう伝えられないけれど、いつか教えてあげよう。
長谷部の声は熟れた柿のようだね。硬く張りつめた皮の下は、とても柔らかくてとても甘いんだ。
いつもの習慣通りに花の手入れを済ませ、赤と黄の葉が降り積もる道を歩く。慎重に進軍して来たこの本丸では、お守りが効力を発揮したとはいえ、折れるまでの傷を負う刀が出たのは初めてだった。全ての出陣がない今日は、昨夜の慌ただしさの反動のようにとても静かだ。
母屋に戻る道の途中、鍛練場から空気を切る音が聞こえ熱心なことだと窓から覗けば、そこでは大倶利伽羅が素振りをしていた。
ぱちり
その熱量に目の前で小さく火花が散ったように、くらくらと頭が揺れて時が止まる。
踊るようにうねる龍、なんて官能的な舞だろうか。
その腕や背中の肉のしなやかな躍動が、鼓動を跳ねさせる。若木のようにしなる柔軟性がありながら、打撃も強い。速さと手数で真っ直ぐに切り込んで戦う自分とは正反対だ。いつだったか手折ろうとして反発した若い枝を思う。あの時、しっかりと水分を含んだ柔らかい枝は、手を離せば跳ね返り頬に傷をつけた。
目が離せないのは何故だろう。
煌々とした目とふわりと跳ねる赤、黒く艶のある龍の残像が線を描く。こぽりと何かが内から溢れ出し、吹き出す汗のように項から背中をつつっと伝っていく。
結局、最後まで声をかけられないまま見つめてしまった。大倶利伽羅がそのシャツで無造作に汗を拭い、髪の毛をかきあげたところで、我に返り慌てて中に入る。
「大倶利伽羅」
こちらを向いた顔は疲れを感じさせない。
「昨夜はありがとう。小夜のために柿と花を持ってきてくれたんだろ? 」
「何故」
「わかったかって? 小夜の耳が良いのは知っているだろ」
「あれは……小夜だけのためじゃない」
「ん? 」
「小夜とあんたのためだ」
ひゅっと空気を吸い込む。
「顔色、だいぶマシになったな」
「そうか……心配をかけた」
こぽり、また溢れた。
並んで母屋に向かいながら、この指先まで痺れさせるものを、手を握りしめることで抑えた。
お互い無口なものだから黙々と彩られた世界を歩き、かさりかさりと葉を踏む音だけが響く。冷たく乾燥し始めた風が吹き抜け隣を伺えば、俺のとは反対に柔らかく遊ぶ髪だからか、紅葉がひとひら、その髪に引っかかっていた。無意識で腕を伸ばし短刀の掌のように広げられた紅を取りあげると、滑らかに指に絡む髪。息が止まり、何かが溢れ出すままにぐしゃり、汗を吸いしっとりとした紅への移ろいを握りしめていた。
驚き目を眇める大倶利伽羅の強い視線に、慌てて手を離す。
「葉が付いていた……すまない」
「気にしていない」
視線の強さに反比例して優しい目元。
こぼれてしまう。
何とか不自然にならないように自室に戻り、ずるずると敷かれたままの布団に崩れ落ちる。
おかしい。
ふぅふぅと息が荒くなり、とろりとろりとぎゅっと掴まれたような心臓から何かが滴り落ちる。違和感を感じて下を向けば、兆した己が目に入る。人の身は定期的にこのようになるのは知っていた。戦の後など気が昂った時は顕著になると、最初に渡された人の身体の扱い方の本に書かれていた。確かに出陣後はなかなか気分が治まらない時はあったけれど、実際このように身体が反応するのははじめてだ。未知のことに怯えが先立ち、ジャージを下ろして下履きも下ろそうとした所で手が止まる。触って扱いて吐き出せば気は晴れるはずなのに、こわくて触れない。縋るように目に入った紅い布に手を伸ばす。端のほつれを直すために預かった大倶利伽羅の腰布。ぎゅうと握りしめ安心感を得るように顔を埋めると、白檀に似たどことなくエキゾチックな香りがして、膨れ上がる熱で頭が痺れる。思わず下履きを履いたままの下半身を布団に擦り付ければ、もどかしい気持ち良さが走り抜け、全身が震えた。
「んっんっ」
一度箍が外れてしまうと止められない。布団をかき抱き思うままに腰を振って擦り付けては、その匂いを吸い込み満たす。目に映る滲む紅に頬をすり寄せ、あの男を思う。全てを曝け出したくなる優しい光を帯びた瞳が甘そうで、飴玉のように口の中で舐めとかしたい。龍の這う力強い腕を食みたくて歯が鳴る。
「んぅ、んっ」
強く速く身体を揺らせば、煩く拍動する心臓近くの胸の尖りまで擦れて、ぴりりとした快感を生む。むず痒いような物足りない刺激に身体がもっともっとと暴走する。
「ひぅっ」
気持ちいいのにこわい。この快感の先がこわい。いやだ。
「んんっあっ」
頭が白くなるような快感と共に、ぐちゃりと下履きの中が濡れた。荒い呼吸をしながらごろりと布団に丸くなり、途方に暮れる。目の前の紅は俺の唾液でてらてらと光っている。俺はあの美しさを穢しているのか。
溢れた何かが雫になって目からこぼれた。はじまればいつか終わりが訪れる、この思慕に気付いてしまった。
いつか、いつか、いつか、いつかがこわくて動けない。
臆病に立ちすくむ自分を、見つけてしまった。
溢れるのを留めるように強く唇を噛み締めて、その紅に指を這わせた。
静かに呼吸をするので手一杯なまま一日を過ごし、どこかぼうっとした頭で夕餉の席に着く。
少し離れた席で、大倶利伽羅は伊達の刀たちと食事を共にしている。賑やかな粟田口の掛け合い、鶴丸の笑い声、同田貫のおかわりする声、いつもの食事時の喧騒がまとわりつく。食卓には白米、鰹節がかかった焼きナス、焦げ目のついた秋刀魚と大根おろし、あけびの肉味噌焼き。ほかほかと湯気が立てて箸を誘う膳を前に、今は隣にいないあの男は香ばしいものや、少し苦味のあるものが好きなのが思い起こされる。
いつもと変わらないように、よく噛んで飲み込む。口に広がるあけびのほろ苦さが、殊更口の中にざらりとしたものを残して、打ち消すように秋刀魚を食べれば、かけたポン酢がちりりと唇の傷に染みた。
飲み込むたびに喉に違和感が残る。
こんな気持ちは抱えきれない。
冬
長い年月を在る刀の自分にとっては一瞬でも、人の身を得ての一年は長く感じる。いつの間にか季節は移り変わり、また冬が来た。暦というものも今では季節でさえも、人によって定められた形骸化したものでしかないが、それでも、その移り変わりが俺に何かをもたらしたのは確かだ。それは俺だけでなく、きっと等しく全てに。
雪が降れば雪合戦をしようと自然と外に集まり、短刀たちがはしゃぐのを見るのは前と同じようでいて、構成する形は少し違う。刀も増えて中には大きな刀も混ざるようになり、鶴丸は自分から飛び込んで行ったのだろう、率先して突っ込んでは雪の玉を投げる。見ている方が寒くなるような薄着なのがいただけないが、良い具合に保護色になっていて、なかなかの的中率だ。今剣に手を引かれて、走る長谷部は寒がりらしく流石に厚着している。いまだ表情が硬いのは変わらないのに、雰囲気が随分と柔らかくなった。そして、偶に漏らされるようになった正にこぼれるような笑みを想う。
例えばそれは、おやつの時間。短刀たちに混ざり、焼きリンゴの甘酸っぱい美味しそうな匂いにそわそわとしながら、手に取るのは最後。ふぅふぅと冷ました後に、一口含んで漏らされるひっそりとした笑み。
食べるのは好きだけれど、猫舌だからすぐには食べられない。料理は下手なのに、裁縫は得意。足は速いのに、よく転ぶ。どこかちぐはぐな刀。
前なら四角四面でいい子ぶっていると思った。真っ直ぐで、いじらしい。人のような刀。
グシャッ
胸元に当てられた冷たい衝撃。驚き正面を見返せば自分も雪まみれで鼻の頭を赤くして、いたずらっ子の目でこちらを伺う長谷部がいた。口元を緩めながらしばし動けないでいる俺を見て、次第に不安そうにだめだったかと眉を下げる。
喉がつまり、どうしようもなく優しくしてやりたい気持ちを誤魔化すように、真っ白な雪原に咲く鮮やかな藤色のマフラーに向かって固く丸めた雪を全力で投げつける。下手くそな投球は器用に避けられ、背後の鶴丸に直撃した。
きらりきらり反射して輝く雪の上を短刀たちの笑い声が響いている。
年の瀬も押し迫った夕暮れ時、緊急で審神者に呼び出しを受けた。
今部屋にいる歌仙に堀川、今剣、光忠に俺と、ここに初期からいる面々を前に審神者は暫くここを留守にすると力なくこぼす。
「俺のただ一人の親が死んでしまった。申し訳ないが暫くの間の出陣は休みで、内番と遠征だけ頼む。組み方は希望をとって自由に決めて構わない」
どこか能天気なところのあるあいつが、ひどく静かで沈んだ雰囲気を纏っているのに、どくりと心臓が跳ねる。
「いつでも会えると思っていたんだ。少し……いや結構こたえている。よく言うんだ孝行したい時に親はなしって、まさかそのまんまになるなんてな」
ぐしゃりと自分の髪を掴み、かき乱した。
「もっと孝行しておけば良かったって……。俺より先に行くのはわかっていても辛いな」
泣きたいのに無理に口角を上げた落ち込む審神者と傍に控える歌仙を残し部屋を出た俺は、足早に長谷部の部屋に向かった。声を掛けても何も帰ってこない事を訝しく思い戸を静かに開ければ、五虎退と虎たちと眠る長谷部の穏やかな寝顔が目に入る。嘆息して、ひどく平和なその柔らかい絵を目に映しながら、ちくちくと胸を刺す泣きたいような何かを見ないふりすることは、これ以上出来ないということを感じていた。
早朝、まだ暗い内に井戸まで向かう。
どうしてもこの役目をやりたくて、長谷部は若水とりの当番へ任命してもらえるよう歌仙に早起きは得意だからと頼んだ。主は現世に帰っていてここには刀しかいない。新しい一年の静かなしっとりと冷たい空気を吸い込んで、次いで吐いた息は白いもやとなって滲んで消えた。
この静謐さをかき乱すのがはばかられ、すぱりと切り開くように歩を進め、井戸が見えてきた時、近くに人影も認められて肩が揺れた。喋る事は許されない。あくまで無言でその人物に近づく。薄暗い中でもわかる灯る金色。それは夕方になる前の太陽の色だと知ったのはいつだったか。
こちらを見つめてくる影が動く気配はないので、そのままに手を合わせる。
この一年、皆がつつがなく過ごせますように。
怪我に無縁であれとは願えないが、せめて折れることのないように。何を生ぬるい事をと思わないでもないが、祈る事は本来、自由であるはずだ。その自由を甘受するこの身を得た日々を想う。
しばしの祈りを捧げた後、ゆっくり確実に水を汲む。後ろからこちらを照らす灯火を感じながら。
慎重に今の時代には似つかわしくない井戸から水を汲むその背中を見つめる。澄み切った水のようなこの男の水面に手を浸したらどんな温度だろうか。掻き乱せば、どんな波紋を描くだろうか。暗くともよく見えるようになった瞳の奥が熱を持つようだ。
いずれ来る別れが怖くて、手を伸ばせなかった。けれど、何もしなくても別れが来ることは痛いほど知っている。恋う感情が生まれてしまっている以上、別れがつらいのは避けられないことも。
悲しくとも辛くとも、閉じ込めようと見ないふりをしようと、生まれてしまうものがある。
もう認めよう、臆病に震えるばかりの子供はやめだ。
握りしめた手から革が擦れて軋む音がした。
太陽に温められた頰を冷たい空気が撫でる。
難しくもない見回りの任務に頼んで任命してもらったのをこなし、少しだけ雪の残る道を二人だけの遠征から帰る。大振りで存在感のある赤と白の椿の合間を、白い息を吐き出しながら静かに並んで歩いている。この静けさを分かち合う時間が好ましい。そのきびきびとした歩みに合わせてゆらり布が揺れるのを、五虎退の虎のように目が追ってしまう。不規則な動きへの警戒と今にも抱きとめたいと逸る心が肉をさざめかす。
もうすぐ時空を渡る箱に着いてしまう。目の端で椿がぼとりと落ちた。
ひとつ深い呼吸をし、足を止めしっかりと長谷部の藤色を見つめて、この静寂を切り裂くべく乾いた唇を開く。
「なあ、長谷部」
「ん?」
「あんたが好きだ」
口を開き固まる長谷部に上手くない口を動かし、言い募る。
「俺は……誰かの近くにあるのが嫌だった。何かを惜しいと思うような弱さが嫌だった」
本当はこの胸の内をさらけ出すことはひどく恐ろしい。
「だけど、あんたに惹かれて、上手く言えないが、それは弱さじゃない気がした。……例え弱くなっても近付きたいと思った」
手を伸ばしたいと思った。手袋をはずして差し出す。
「この手をとってくれないか」
目を見開いた長谷部は、怯えるように視線をうろうろとさせてから、瞼を震わせこちらをきっと射貫く。
「俺は……いつか別れてしまうのが嫌で、交われば終わる時を考えてしまって、不安で、つらい。……けど、嫌だけど、でも、お前の手をとりたい」
たどたどしく懸命に胸のうちを語るのに炙られるように、じわじわと愛しさが心を満たす。満たされた何かに押されるように、この身からこぼれる言葉。
「なあ、俺達は怖がりだから、一緒に育とうか」
震えそうになるのを懸命に抑えて虚勢をはり、らしくもなく笑みを浮かべて、いまだ怯えるように躊躇う手に無骨な手を伸ばす。もたつきながらも手袋が外された白い指がおずおずと伸ばされ、触れる刹那、加速して思いの外力強くぎゅっと握り締めてくる。何度も何度も頷きながら歯を食いしばり、でも、とめどなくぼたぼたと長谷部の宝石から流れる涙。
弱音を吐くのを聞くのは初めてだ。そして、涙をこぼすのを見るのも。
「あんた、子供みたいに泣くんだな」
「お、お前だって、泣いているじゃないか」
この身はもろくていつか消えるけれど、もう知ってしまった奥底にある恋う感情。手を伸ばして掴むことが許されて、いつか来る恐怖よりも、今触れるこの熱を、匂いを、感触を、抱えていきたい。思わずぐっと引き寄せれば、長谷部が足元をもつれさせる。そのまま抱き込んで二人、花が散る地面に転がった。
「……結構どんくさい所あるよな」
「突然くるものに弱いだけだ」
俺の身体の上で不服そうに呟く小さな声と赤く染まる耳。
「それでは、鶴丸の格好の餌食だ」
上半身を起こして、大人しく膝の上に乗ったままの長谷部の耳の上に、傍らにある白い椿を拝借して差し込む。
「似合う。あんたは花みたいだ」
長谷部は口をぱくぱくとさせて、じわじわと首元から顔まで染め上げると、語気を荒らげて赤い椿を俺の髪に押し付けてくる。
「お前だって! 」
俺達は花か、なら存分に咲き誇らねばならない。この美しい情景を目に焼き付ける。
見つめあい衝動のままに唇を重ねあわせれば、歯がぶつかり、口付けは血としょっぱい涙の味がした。
紅が滲むその唇の美しさを憶えていよう。
離れないように手をつないだまま、本丸に帰る様は幼子のようだったのだろう。報告もそこそこに廊下を足早に歩く俺たちを見る目が生温かく、うるさいがそんな事はどうでもいい。
まっすぐに俺の部屋までたどり着き強く抱きしめれば、がちゃがちゃと防具が鳴る。唇を合わせながら早急に脱がし合い、早く早くと気ばかりが急いて震える手が、張り詰めた弦のような美しい緊張感を持つ身体を暴いていく。脱ぎ散らかした服の上に押し倒すと、焦る手を止めて、その藤色の水面を覗き込み静かに問う。
「なあ、俺はあんたの中に入りたい」
ああ、その瞳の色に溺れてしまいたい。
「うん。……俺はお前を受け止めたい」
優しく俺に触れる濡れた朱唇。
口づけを解きねじこんだ指で口を開かせ赤く濡れた粘膜をたどる。上顎の襞を擽れば、鼻から息を漏らし目を細めてちゅうと吸い付く熱が甘やかすように俺を包んで、目が潤みぐうと喉がつまった。とろとろと熱くぬめる唾液を絡ませて、早急過ぎるのはわかっていても、俺と繋がる場所に指を這わせる。一本、二本と指を増やして、ぐちぐちと中を抉る間、小さく抑えた悲鳴をこぼす口を、たまらなくなって齧り舐める。
「声を出せ」
ぱさりぱさり髪を跳ねさせ首を振る長谷部に、少し焦る気持ちが落ち着く。この強情な男を甘やかしてやりたい。差し入れた舌で柔い口の粘膜を撫でて、頭も撫でてやってから、口を離してゆっくりと指を動かす。萎えてしまっている性器にも舌を這わせ、後ろの痛みが和らぐように口内に招き入れそのおうとつを可愛がり、小さく漏れはじめた甘く俺を煽る声を聞きながら、丁寧に中をなぞる。美味しそうな弾力を返す内股からふくらはぎを食みながら、声が跳ねる場所を探し当てた。感触の違うその場所を引っ掻き抉れば、びくびくと身体を制御できないでずり上がる。きゅうと俺の指を吸うような動きを感じたところで、猛り切った己を押し当て、言葉にならず目だけで許しを乞う俺に、目を潤ませ頷くいたいけな魂。ゆっくりとまだきつい長谷部の中に入り込む。荒い呼吸だけを真近で交わし、俺の我儘を押し通す様にじりじりと最後まで入れると軽く唇だけを触れ合わせた。
「嬉しくても涙は出るんだな」
内なる部分を切り開かれとても痛いだろうに、ぽろぽろと泣く長谷部は、そんないじらしいことを言う 。雫をまとった睫毛をざらりと舌で舐めとり、ゆっくりと腰を動かす。
「いっ」
「くっ、すまな」
痛みをこらえる長谷部に、謝罪の言葉を掛ける前に手で口を抑えられた。
「謝らなくていい。……ぁはははは、何だろ、おかしいな。心臓がどきどきして身体も痛いのに、でも、暖かくてふわふわする」
涙を流しながら柔らかく笑い続けている。虚をつかれたが、じわじわと熱い血が巡って、身体の奥から何かがこみ上げてくる。それはざわざわと一斉に花開く。
「……ふっくっ、俺もだ。これが幸せっていうんだろ? 」
「そうか、くふ、ふっ笑いが止まらない」
「ははっ、そうだな」
「お前と繋がってる。ふふふ、んんっ? 」
「笑う度に締め付けられてる身にもなれ。慣れたようだから、動くぞ」
「あっ」
まだ痛いのだろう。眉をしかめて、でも、合間にくふくふと笑う。その目尻が下がる笑い方が俺の柔らかい部分をしくしくと刺激する。
ぎちぎちに絞まる穴を広げるように、ゆっくりと腰を動かしていく。二人で気持ち良くなりたい。ぴくりと肉が反応を返す場所を探り、見つければそこを執拗に擦る。
「 ふぅぅっ、んっんっ……ひゃ」
ここか。ぐちぐちとした水音が段々と激しくなる。俺の先走りで滑りがよくなった所で強く反応するしこりを撫でた。
「 ひっ……んんっ」
もっと強く撫でてやりたくて、白い脚を長谷部に持たせてより深く早く動かせば、甘い悲鳴を上げるばかりで閉じられない口から粘度の強い唾液がとろりこぼれ、その甘露が美味そうで唾液が溢れた。空いた手を長谷部の液体をぷつりぷつりとこぼし続ける性器に伸ばし、ぐちゅぐちゃと穿つ速度に合わせて擦る。手の中の同じ雄の肉の拍動すら愛しい。
「んっんっんっアッーーーッ」
白濁を吐き出しながらぐねぐねと締め上げる肉の気持ち良さに、極めて力の抜けた長谷部の腰を掴み直し、かぶりつくように夢中で欲望を叩きつける。とめどない快楽が苦しいのか、とろとろの顔で俺に縋りつく、俺の臓腑まで引き絞るように痺れさせるその腕の力。皮膚を抉る爪がもたらす痛みから酩酊感が広がる。
「くっ」
やわくやわく俺を包む長谷部の身体に、どくりどくりと吐き出される種。はあはあと呼吸をしながら、吹き出す汗が顎を伝って落ちていく。それは、つうっと長谷部の口の中に消えていった。
蕩けた顔が、
「しょっぱい」
ふにゃりと笑む。
くっ。
反応してしまう若い己は悪くないはずだ。がぶりと乳首に噛み付けば、身体を跳ねさせ殊更強く反応された。
「そ、そこはやめてくれ」
首を傾げながら、べろりと舐める。
「やっ、やっ、そこはだめなんだ」
ふーん、そうか。
「あんた、ここ弄ってたのか? 」
かあっと赤面した長谷部がぎゅっと未だ埋め込まれた己を痛いぐらいしめつけた。へえ。焦らすように突起をさけて周りを舐めてから、ふっと息を吹きかけてやる。面白いくらいにびくびくと跳ねる身体の揺れを感じながら、唾液をたっぷりのせた舌でなぶり、舌先で抉る。
「んっんっ」
「なあ、何でここ、こんなに弱いんだ」
両方の淫らに色付き立ち上がる突起を硬い皮膚を持つ親指の腹で強めに擦ってやれば、ぐずぐずと鼻を啜りながら、素直に答える長谷部はまるで子供だ。
「……お、お前の事を考えると身体が熱くて、で、でも、教わったみたいに直接触るのは、こわくて、布団に擦り付けてたら、胸もっ一緒に、こ、こんな」
擦り付けて自慰をしていたら、乳首も一緒に擦れて敏感になった……? 熱に浮かされた頭でゆっくりと事実を理解した所で、こちらまで瞬時に顔が熱くなるのを感じる。
本当に勘弁してくれ。
自分の気の昂りと比例して限界まで硬く膨れ上がった陰茎を、穴を広げるようにぐっと奥まで押し付けると、声にならない声を上げた長谷部は自分の下腹部に震える手を這わせて、
「ん、くりから、……ここ」
淫蕩に涎と涙まみれで笑む。
煽られ続ける心臓が爆発しそうに拍動し、力の限りその背中をかき抱いて背骨をたわませる。いい子の仮面が外れた、まっさらで無邪気な長谷部のそのどろどろに蕩けた顔を間近で見つめながら、抽送するでなく小刻みに腰を押し付けた。もっとこの男の奥に行きたい。もはや、長谷部の穴は締め付けるだけでなく、誘うようにうねる。
胸の尖りを唇で食みこりこりと味わい、尖らせた舌を中心にねじ込めば、抑えきれないねとりとした声をこぼしながら、内股をぶるぶると震えさせて、きゅうきゅうと俺を包み込む。
「くりから……ほしっ、お前がほしいっ、こんな……」
そんなに泣かなくていい。伝えたい思いは言葉にならない。ただ、皮膚を合わせ唇を合わせ、その目を見つめた。
はじめてで無体を強いるつもりも無かったのに、この思いを制御出来ない。くちゅくちゅとした音がぱつんと弾ける水音になるまで、無我夢中で腰を振る。雁首で掻き出された種が下生えにまでぐちゅりとまとわりつき、泡をたてる感触に脊髄をびりびりと痺れが走る。目前の眉を寄せる眉間から額をべろりと舐めて、脚を肩にかけた。痛いであろうことを分かっていても、より深くに行きたくて上から押し込めるように鞘の奥まで届かせる。
「ひっいっンッ」
歯を立て噛み締める両手を取って指を絡めると、刀を持つ手の皮膚の硬さに、より欲が燃え上がった。
俺と同じ異形を切る手。
「声を殺すな」
もう、言葉を飲み込まなくてもいい。俺に聞かせくれ。
「あっあっアッ、ちが、こんな」
「はぁっ、何が違う? 」
「おかし、んっ、あふれる」
「何が? 」
「こころ、くりからが好き……って? 」
「疑問形なのか? 」
「んん」
首を振るのに合わせてぱさりと髪が跳ね、ふわりと薫る。直線的な動きを変え、襞をなぞるように腰を回す。抵抗する再奥の手前をかき乱す。
「んんん、やっやっ、んんぅ、ほしっ」
「どっちだ」
思わず笑って、ぐずる子供を宥めるように頭を撫でてから、絹糸のような滑らかな髪を食み、飴のようにしゃぶる。鼻を埋め俺を駆り立てる甘い匂いを吸い込み、酔いがまわったかのようにくらくらとする頭で、腿を掴み再奥を強く抉るのを止めてやれない。
「ああっあっあッッ」
「くっんッ」
限界まで押し付けて、欲のままに勢いよく吐き出す。
俺の種が、あんたの腹で咀嚼され吸収されることを願いながら、とろりほどけた花びらのような口を吸った。
白い靄が立ち込めている。
うす甘い花の香りを含んだ風が吹き抜け、その靄が晴れていく。
そこに現れたのは、遥か昔の過去の情景。
一枚一枚布をめくるように次々と切り替わっていく。
刀である俺を色んな角度から見て、最後に彫り物をじっと見つめると、満足したようににかりと笑う人間。
力強い手で俺を振るう人間。
厳かな手付きで手入れをする人間と緊張からかいつもより少し冷たくでも確かに暖かいその手。
擦り上げる前に、物である俺に真摯に頭をさげる人間。
研ぎ師のこちらを冷静に観察し、けれど敬う目線と手つき。
保管庫で、近くにある刀のしきりにこちらに働きかける華やかな気配。こちらが反応を返さなくても、うるさくて何がそんなに楽しいのだか。まれにこちらが反応を返すと嬉々として倍になって返ってくる。かっこいいのにお喋りなんて、持ち主そっくりでおかしかった。
たまに人間の前でガタリと動いては驚かしていた刀。ああ、あの時の人間の大袈裟な驚きようは傑作だったな。あまりやり過ぎると妖刀扱いだと、柄にもなく心配したものだ。
次々と思い出していく。
こんな暖かい記憶もあったんだな。刀っていうのは傷ばかり覚えていてしまってやっかいなものだ。その傷も今ならば抱えていけるだろうか。
この先への怯えも一緒に。
ふっと目が覚めれば、間近にきょとんとした顔をしている長谷部の藤色の瞳があった。確信を持って、小さく声をかける。
「夢を見た」
思いの外掠れて響いた声に応えるように長谷部が瞬きをすると、ぱちぱちと弾ける音がしたような気がした。
「俺も見た。とても懐かしい記憶を」
涙を湛えた睫毛が朝日を反射してきらきらと輝く。澄んだ迷いのない目が綺麗で、思わず瞼に口付けを落としてから首筋に鼻を埋める。
ほの甘く香る花。
確かに今この腕の中にいる、この匂いがともにあるならば。
歌う小さな生き物が踊るように飛び、花咲く枝で一休み。
鳥の鳴き声も様々だが鶯は特に不思議だ。
風がふんわりと運ぶ香り。
縁側で庭を見ながら、そっと裸の指先だけを絡める。刀を握る手特有の少し硬い指の腹。短めに切りそろえられた爪。すりすりと辿り絡め、力を込める。特別な日に食べた甘いチョコレート色した肌。その下には生きて熱を持つ肉。
ともに第一部隊で最前線に立つ俺たちは、この休憩が終わればまた出陣だ。経験と資材の備蓄も多くなった事で厳しい戦いの場に赴く事も多くなり、少しずつ強くなってはいるがこの先何が起きるかは分からない。
でも、確かに生きている。どう成長するかは自由だ。
まだ顕現したばかりのあの頃、主は「付喪神である君にただの人間である私がこんなことを言うのは不遜に聞こえるかもしれないが、」と前置きしてから「君らは生まれたばかりの子供だ。刹那を生きる子供ではなく、積み重ねる大人になりなさい」と静かな声で仰った。物で在る自分には、なにひとつ解らなくてただその言葉の響きだけを記憶していた。その言葉の意味をこの男の隣ならば自然に受け止められる。
「くりから、約束をしようか」
「何だ」
「夏になったら、お前に似合う花を見せてやる」
いつだったか短刀たちがしていた児戯のように、小指を絡め揺らす。
「ああ、待っている」
ゆびきった。
絡まった指がほどける軌跡を目で追ってしまう。
「とても大きくて、まっすぐ育つ花なんだ」
「そうか」
温かい手が、俺の少し冷たい手を包んだ。
「しー」
二人の背後では、人差し指を口の前に立てて合図をする燭台切を筆頭に、こそこそと小さな声でお互いに声を掛け合う団子のように連なる集団。
「やっとですか」
「いつの間に!」
秋田が大人びた嘆息をすれば、意外にも普段は落ち着いている前田が声を跳ねさせる。
しばし二人の背中をじっと見ていた歌仙は詠う。
「鴬の谷よりいづるこえなくは 春くることをたれか知らまし」
「何の歌ですか? 」
おずおずと尋ねる五虎退の腕の中で、末っ子の虎がくあぁと欠伸をした。
「うん、鶯がね、谷から出てきて鳴く声を聞かなければ、春が来ることを誰が知るだろうかと言う、古今和歌集の春の歌さ。……本当に臆病な子たちだね」
「恐れを知ることは大事だよ」
ぼそりと小夜が小さくとも芯が通った声で呟けば、目を見開いてから微笑んだ歌仙が頭を撫でる。
「成長する事は良い事です」
続ける前田の澄まし顔に、秋田がくふくふと笑った。
「ぼ、僕も大きくなりたいな……」
五虎退は自信なさげな声とは反対にきらきらとした目を瞬かせる。
「かたなはほんらいすなおなものなのですよ」
「君らの方がうつわが大きいね」
胸をはる今剣の頼もしさに、燭台切が目尻に皺を寄せ笑った。
「なーんてかっこつけてしまいましたぁ。きょうのおやつはなんですか? 」
「今日は梅大福。梅干の酸っぱさが餡子と合うんだよ」
燭台切の言葉を受けて時計を確認した歌仙が、「おやつにしようか。おいで」と皆を引き連れ広間に向かう。
刀らしからぬ和やかな空気が遠ざかり、ひとり残った今剣はふと呟く。
「うめがかに おいさきなおも みまほしく はるつげどりは おしみなくなく」
「うーん、へたくそですねぇ。でもつたないくらいがちょうどいいかもしれない。すなおに。すなおに」
「よろこびを はるつげどりは うたうのか さきのことなど わからなくとも」
その赤い瞳に、自然に彩られた背景の中にある彼らの哀しくも美しい背中を刻みつけると、甘くて美味しいおやつを確保するべく、白い髪を靡かせ走り去った。かの細い足に纏う輪のしゃらんと澄んだ音だけを残して。
ふと背後を振り返った長谷部は赤い瞳と白い髪を視界の端に捉え、眩しいものでも見るように目を細めて見送る。
白と赤。
あの日から特別になった、その色はこの身の血と肉の色。
愛し愛しとこの世を賛美して踊る色――――。
04/03/2016