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​Re.

 視界にあふれる光に目を細めた。ぷかりぷかり漂う己の耳朶をくちゃくちゃとくすぐる生ぬるい水の余韻が残っている。行ったこともない海で沈まない身体を持て余す、そんな夢から目が覚めた。指先は温かくて柔らかい肉に拘束されており、もがくほどにくちくちと鋼にとって少しの恐怖と歓喜を呼び起こす水音が耳に流れ込む。

 へし切長谷部の朝は隣で眠る刀の口から自分の指を引き抜くことで始まる。

 

 白くふやけた人差し指をくたびれた寝間着のシャツで拭って、あくびをひとつ。疼く古傷といつもより暗い室内を訝しく思い窓までいざりよる。カーテンの隙間から外を覗くと、目に映る鈍色の重たげな雲。長谷部は天気予報を見る習慣がない。戦場ならいざ知らず日常のことに関しては、起きてしまった結果を受け止めてからどうするか考えるたちだからだ。今では予報は予報ですらなく、確実に起きるようにプログラムされた天気の予定だとしても。燭台切なんかは髪が決まらないから湿度は大事な問題らしい。知ったところでどうやって対策を立てるんだ、と聞いたら心構えが違うと言われた。わかるようでわからない。正直に言えばわからない。解決にはなっていないと思うのだが。

 カーテンを勢い良く開けば、後ろから唸る声とみじろぐ音が聞こえた。多少は明るくなったがそれでも薄暗い室内で、布団に埋まろうとしている頭が見える。

「ほら、朝だぞ」

 そっと肩を揺らしても、男は駄々をこねるように髪の毛を枕に広げるのみだ。

「お、き、ろ」

 多少乱暴にしたところで堪えないのだからと背中の上に勢いをつけて座り、厚みのある筋肉をぎゅうぎゅうと押してやる。ぐふぅ、と変な声が聞こえたが起きるまでには至らないようだ。背中にぴったりと張り付き赤を帯びた柔らかな髪を纏め、見えた褐色の項に息を吹き掛けた。くすぐったさにびくりと肩が揺れるが、まだ顔を上げない。

 本当に手が掛かる。

 段々と面倒くさくなってきた長谷部はひとつ息を吐いて、ふかふかの布団をばさりと剥いだ。

 白いシーツの上を泳ぐ、なめされた皮のような艶を帯びた肌を持つ身体。毎度のことながら破壊力がある絵だ。寒くなってきたことだし、裸で寝るのをいい加減やめてくれないだろうか。毎回、律儀にも長谷部の胸はどきりと跳ねる。

 それでもなお猫のように丸まろうとする刀の腕に住む龍と不意に目が合い、なんだか腹立たしくなったのでつぶらな目を勢い良く突いた。

「ぐっ」

 ツボに当たったのか呻く声にほくそ笑んで、今度こそ起きた相手に放って置かれていた服を投げつけた。

 こーでねーととやらは知らないぞ、伊達男。

 

 

 

 この本丸の刀剣男士に割り当てられた居住区はひとことで言ってしまえば、ボロアパート、古びた時代遅れな共同住宅だ。立て付けの悪い扉を不快な音を響かせながら閉めて、ようやく目が覚めてきたであろう大人に成りきる手前の見目の青年、大倶利伽羅の力強い腕に引かれながら、薄汚れた壁を横目に長谷部はゆっくりと歩を進める。食堂や審神者と粟田口の居住区がある二軒長屋が近くなるほどに朝食の匂いが少しずつ濃くなっていき、じゅうと涎があふれた。途中、追い越していく欠伸まじりの加州清光と挨拶を交わす。

「また夜更かしをしたのか?」

「んー、はまってる小説が面白くってさ」

「「怠慢は許さんぞ」」

 重なった声にどちらからともなく笑いがこぼれた。

「あはは、わかってるよ。先行くね」

 軽やかな笑いを残して去っていく加州の揺れる爪紅を目に映して長谷部は目を細めた。元気ならば問題ない。

 つい遅くなってしまう足取りに、繋がれた温かい手の甲を指でさすりながら言葉を紡ぐ。

「……雨が、降るかもしれない」

「そうか」

素っ気ない言葉の響きはあくまで柔らかかった。

 

 

 

 今日の朝食も完璧だ。ゆうらり湯気の立つお膳を前に長谷部はひとり頷いた。

 間にまだぼんやりとしている五虎退と落ち着きのない虎を挟んで、長谷部と大倶利伽羅は黙々と白く輝いているご飯を咀嚼する。泡立つくらい良く混ぜて、なめらかになった納豆が絡んで美味しい。たっぷりと入れた好物である青ネギの爽やかな余韻が口内に残った。今日は生卵が無いのが残念だが、冷蔵庫に仕込んである、あと数日でできる卵黄の醤油漬けを思い出して口元が笑みの形に歪んだ。噛み続けている間も躾の成果でお膳には手を出さないものの、周りをちょろちょろとする虎たちを上手くあしらってやる。大倶利伽羅が五虎退の箸の先のウインナーに手をだそうとしている虎の眉間を撫でて諌めた。

 この三人は良く噛んで食べるからか、いつも食堂に最後の方まで残ってしまうのが常だった。そして、気が付けば片付けの効率や落ち着いて食べられるようにと、自ずと並んで朝食をとるようになっていたのだ。もうぱたぱたと腿をたたく末っ子の短い尻尾の感触がないと落ち着かない気すらする。長谷部たちと真逆なのが、御手杵や同田貫などの掻き込むように沢山食べる連中で、効率という意味ではかかる時間が短いのに長谷部は憧れないでもない。

 

「三振り並んだ背中が、まるで家族ってやつみたいだね」

 

 五虎退の口元に付いた目玉焼きのかけらを取ってやっていると、乾いた音とともに後ろから声をかけられた。食べ終わったお膳を手に微笑む燭台切光忠と、大きな身体の斜め後ろでカメラを構えた秋田藤四郎だった。桃色のカメラ小僧は健在のようだ。見上げた先で薄い唇が美しく弧を描いている。最近来た燭台切の笑い方にはまだ慣れない。いまだ口の中にあるものを小さく細切れにして、やっと飲み込むと長谷部は口を開いた。

「テンポが近いのが、そう見えるのか?」

「テンポ?」

「リズムならわかるか?」

「リズム……音楽の話?」

「そうだな。食事をしている時に俺達の中で流れている音楽が似ているんじゃないか」

「へぇ、なんだかそれってかっこいいね」

 途端にひとつきりの目をぱっと輝かせるのに気圧される。何がかっこいいというのだろうか。

「それはどうした?」

 かっこつけの男に突っ込んでいいものか迷ったが、気になり過ぎて訊いてしまった。

「ああ、これ? 乱くんに貰ったの、かっこいいでしょ?」

「……かっこいいのか?」

「うん」

 思わず大倶利伽羅にも確認する。

「かっこいいのか?」

 ちろりと視線を向けて少し凝視した後、口いっぱいにご飯を頬張りながら大倶利伽羅は無言で頷く。

「そ、そうか……」

 眼帯の上に咲いた大きな赤い薔薇。シールだとは思うが伊達の感性は長谷部には理解し難い。

「ごこはどう思う?」

 傍らの小さな短刀は地道にもぐもぐと動かしていた口の中のものを飲み込み淡々と答えた。

「燭台切さんには似合いますね」

 黒の中に咲くおおぶりの赤、確かにそう言われるとそんな気になる。それにしても、燭台切の無邪気さが長谷部には眩しくてしょうがない。

「実は僕も乱兄さんに貰いました」

 右手の黒い手袋の甲に小さく貼られた白い丸。よくよく見れば白い虎、いや猫だ。ずいぶんとぶさいくな顔をしている。

「かわいいと思いません?」

 しばし考えて長谷部は首を傾げた。それなりの年月を過ごしてきたというのに、いまだわからないことがこの世にはあふれている。かわいいと言った方がいいのだろうな、とは思うが五虎退には他愛のないものでも嘘はつきたくなかった。

「ごこは……感性が個性的だ」

 かわいいのに凄みのある笑みに促されて苦し紛れにひねり出した言葉を、きょとんとして受け止める五虎退の後ろで吹き出す大倶利伽羅が見えた。

 おい、汚いぞ。震わせている肩を長谷部は強い力で小突いた。

 

 

 

「ここでいい」

 扉を開けて案の定、降りだした雨を確認すると傘を手に取り、大倶利伽羅は言った。

「ああ、いってらっしゃい。存分に励めよ」

 閉まる扉を目に映し室内に踵を返したところで忘れていたことを思い出した長谷部は、急いでサンダルをつっかけて、さほど強くもない雨の中に飛び出す。体幹がしっかりしているのがわかる揺れがなく滑らかに進んでいく紅い傘に追いつくかという刹那、サンダルが脱げそうになり足がもつれた。すっと差し出された危なげない腕に支えられて胸をなでおろす。腕が触れ合う距離のまま大倶利伽羅の胸元で鈍く光るカーンとドッグタグに額をつけ祈りを捧げた。

 ふっと息を吐いて顔を上げれば、こちらに手を振っていた鶴丸がぎょっとしたように止まり、ビニール傘がその肩を滑り落ちていくのが視界の端に見えた。大倶利伽羅は無言で頬を撫でると金に紫を映し、長谷部に傘を握らせてから走って行った。

「ご武運を、」

 小さく口の中で呟いて全員の姿が見えなくなるまで立ち竦む長谷部の手に、ふっと触れるぬくもり。江雪の見送りに来ていたのであろう小夜がそっと手を引く。

「ありがとう」

 もしもを考えないでもない。見送る時はいつだって長谷部は少しこわい。

 

 

 

 熱めに入れたお茶を机の端に置く。少し肌寒くなってきたので隅にほうって置かれている大倶利伽羅の内番着を羽織り、椅子を引いた。

 細々とした計算を済ませた後に、新たな戦場についてできる範囲で集めた地形の覚書と戦績、報告書を並べ見つめる。なかなか情報が上がってこないので、目の前にある少ない量を集めるのにも苦労したものだ。所々に竹藪がある緩やかな山間部。大太刀や槍など大きな得物を扱うものでは動きづらいという。しかし、明るい昼間の戦場で敵の盾も硬く、一撃で仕留めるのは難しいとなると、短刀たちでは体力が心もとない。

 やはり、打刀を中心に脇指との連携を高めて防御を破り仕留めていくか。質の良い刀装を量産しておかなければならない。どの進路を取るかだが、北へ進む場合はこの開けた場所での奇襲に気をつけるようにして、南にあるこの崖は敵が行軍する進路によっては、攻め込むのに使いようがありそうだ。ひとりごちながら書き留めていく。

 まだ本陣の場所がようとして知れないゆえに、偵察を兼ねた進軍は隊に負担を強いる。内番の当番組みも見直しておかねばならない。情報収集も兼ねて明日の演練には出ようと決め、長谷部は手元の手帳をめくって予定を確認した。

 集中していた意識に、ふ、としみてくる音。

 視線を目の前の窓に向ければ、弾かれて落ちていく大きな雨粒が見えた。頭の中の戦場から意識が現実に帰ってくると、膝の上にぬくい毛玉がひとつ、机の上には湯気がたつ湯のみがひとつあるのを認識した。思いっきり伸びをして長谷部は固まった肩と首をぐにぐにと動かす。おおかた前田藤四郎が様子を伺いに来た時に、暇を持て余した末っ子も紛れ込んだのだろう。

 雨音に紛れて薄く五虎退が弾くピアノの音も聴こえる。

 昔のたどたどしい音も嫌いではなかったが随分と上達したものだ、と肘をついて耳を傾けた。のんびり屋の五虎退が珍しく焦りが透けて見える音で、もどかしそうに旋律の階段をのぼる様が何日も何日も続いた先で自由に走り出したことに気付いた時、ぞくりと背筋を戦慄かせた喜びをまだ長谷部は覚えている。

 それは過程も含めてふたりだけの秘密の音楽だ。ゆっくりだが滑らかに流れていく音が頭の中に螺旋を描き続け、知らぬうちにコツコツと机の上を踊る指。

 視線の先では小虎が欠伸しながら長谷部につられたかのように伸びをして、上下する指に合わせて頷くように頭を動かす。ふわふわとした毛を撫でれば全体重を手に擦り付けるのに笑みがこぼれた。解けそうになっているリボンを結び直しながら、そういえば末っ子がリボンを嫌がりしきりに足で取り去ろうとするさまは、まるで同室の男のようだと思う。室内では獣のように服を纏うのを嫌がるのはなぜなのだろう。いちど請われて長谷部も下着一枚と、大倶利伽羅の強い要望により靴下とソックスガーターという、何とも中途半端な格好で過ごしたことがあるが、心許なさと恥ずかしさで終始そわそわと落ち着かなく、不意に触られたり近くに寄られたり果ては見つめられるだけでびくびくと震えてしまった。あの時の大倶利伽羅の目はいつになく真剣で、寒いからシャツを羽織った後、尚更鋭くなった視線に穴が開くかと感じたものだ。

 うーん、やはり大倶利伽羅は龍の化身、なわけはないか。

 ひとり想像を膨らませつつ時計を確認すれば、仕事に熱中していた間にそれなりの時間が経っていたようだ。出陣した部隊の帰りが遅れているなとちらり頭の隅で思いながら、先に昼食の準備をしようと腰を上げた。

 

 

 

 狭い台所で温かいうどんと冷たいうどん、どちらにしようか袋の茹で時間を睨みながら迷う。今日は少し肌寒いから温かい方にしようか。口数が少なくどうでもいいといった態度をとる大倶利伽羅だが、意外にも些細なところでこだわりをみせることがある。温度とか食感というのは彼の中で重要な問題のようだが、長谷部にはぴんとこない。気にするところがではなく、気にする部分はわかるのだが嗜好が合わないのだ。以前アイスの硬さで言い争いになった時も、結局結論は出ず平行線をたどった。頑固なところが似ていると言ったのは前田だったか。大倶利伽羅はカチカチに硬いアイスに歯を立てながら食べるのが好きだし、長谷部は冷蔵庫で柔らかくしたアイスを口の中で溶かしながら食べるのが好きだ。こっちの方が美味しいという主張は小さな喧嘩に発展して、減らず口を吐くお互いの頬をつかんで睨み合うことになった。縦に開いた口が間抜けで、思わず吹き出してしまった記憶がよみがえる。

 くふん、気の抜けた思い出し笑いが唇からこぼれた。

 同時に鍛刀されて同じ部屋に放り込まれ、右も左もわからない頃からずっと隣で成長してきた時間を長谷部は思う。刀としての己を弱くし人としての己を強くした、揺らぎながら進み続ける日々を。ふと時計を確認して不安を覚えた。

 ぼこりぼこりと沸騰する鍋を見つめながら脳裏に浮かぶ言葉が渦を描く。 

 帰ってこないんじゃないか。

 いや、大丈夫、あいつは必ず帰ってくる。

 

 ギィ、と玄関から軋む音が響いて、慌てて目をやると雨でしっとりと全身を濡らした大倶利伽羅がいた。火を止め急いで持ってきたタオルで、束になってうねる髪を包み込む。

「おかえり」

「ただいま」

「戦場も雨だったのか?」

 さっと全身に目を走らせて、目立った怪我が無いことを確認した。

「ああ」

「冷えているだろう。風呂に入ってこい」

 頷いた大倶利伽羅を見送り、すぐに出てくるだろうと、うどんの入った土鍋に火をつけて卵を落とす。立ち上る湯気を閉じ込めるように蓋をかぶせた瞬間、後ろから伸びてきた腕に腹をくんと引っ張られた。

「こらっ、危ないだろ」

 肩口にぐりぐりと擦りつけられる湿った髪の感触。服を全部取り去った大倶利伽羅がしがみついている。身体を持ち上げようとするのに慌てて指を伸ばし、また火を止める。

 そのまま、つま先を擦りながら馬鹿力で運ばれる長谷部はさながら人形のようだった。

 

 

 

 洗面台に寄りかかった長谷部が見下ろす先で、かぽりと間抜けな音を立てて義足が外された。大俱利伽羅はまるで儀式のように片膝をつき、うやうやしい手つきで器具を取り去っていく。

 そこにあるはずのものがないことを、しっかりと見つめる。

 ないことを確認するたびになくしてしまった最後の光景が長谷部の頭に再生される。それは運が悪いとしかいいようがない出来事だった。敵の新たな兵器に当たる最初の事象に長谷部たちの隊がなってしまった。ただそれだけのことだった。

 あの日、夜も更けた京都の橋でいつものように歴史修正主義者と長谷部たちは交戦していた。もうすぐ橋を渡り切ろうという場所で、敵の打刀と鍔迫り合いをしていたところに、潜んでいた大太刀の鈍く光る刀身が大きく振り下ろされたのだ。とっさに隣の五虎退を突き飛ばし長谷部も身を引いたが避けきれず、土にめり込みながら止まったその刃は五虎退の右手の指先と長谷部の左足を切り離した。こんなことはよくある負傷だ、そう思っていた。

 多くの血を失いながらも敵を殲滅し、支えられながら手入れ部屋に入った後の記憶には音がない。手入れから目覚めても失われたままの左足首から先。焦りが伺える顔をした主の口は、ぱくぱくとしきりに開閉していた。

 政府の研究機関での精密検査の結果、長谷部の本体の刀身に抉れたような傷が残っていることがわかった。その特異な傷は今の技術では直らないことも。幾つもの検査を経た研究の成果で、刀剣男士の本体に特殊に開発された油を塗ることで、歴史修正主義者が新たに作った毒薬のようなもの(それも敵の刀身に塗られていたようだ)に対抗することはできるようになったが、長谷部の左足は蘇生することなどなかった。防ぐことはできても、失われたものはもう戻せなかった。

 

 けれど、長谷部は結果から目をそらさないと決めた。

 

 輪郭を確かめるように大倶利伽羅は肌に触れる。厚く硬くなった刀を握る手で、そっと壊れ物にでも触るように。そうして散々確かめた後に強い力で長谷部をつなぎとめるのだ。

 もうもうと湯気のこもる風呂で、頬をなぞられ耳に差し込まれた指が悪戯に遊び、腕をつうとたどっていった先で指を絡ませる。苦しいくらい首から腹にかけて手のひらで圧迫されると臍をくすぐられる。

「んっ」

 こそばゆいだけではない色を含んだ声が漏れた。よく働く手は指先だけを背骨に沿って滑らせて、臀部から足先まで大きな手のひらで包み込むようになぞっていく。そして、最後に傷跡を優しく包んだ。身体の線をすべてなぞると、抱きしめあい肌と肌を最大限触れあわせ、噛み付くような口付けをする。長谷部は舌だけを擦るように絡めあわせ、翻弄してくる柔らかな肉に縋りつきながら、逞しい背中に指を沈める。獰猛な獣のような筋肉を孕む張りのある皮膚と奥底にある骨の感触が胸を焦がして、何度も何度も指を滑らせずにはいられない。

「んん……はぁ」

 全てを奪うかのように飲み込みきれずこぼれた唾液をこそげるように舐めとって、執拗に口元をなぞる長い舌。もどかしさに長谷部の唇は震えた。甘い舌の感触を感じたくて、疼く口内に招き入れながら腕に住まう龍をいとおしむ。この刀の美しさと強さを象徴する官能的なうねりを肩口までたどり、思わず爪を立てた。

 どうか、この龍を傷つけるのは長谷部だけであってほしい。

 ぐねりと蠢く長い舌を限界まで飲み込めば、切迫した喘ぎが喉奥を扱く。とろりとろり腹に落ちていき、全身にさざ波のように広がる悦び。うなじに貼り付く髪をつかみ、絡みつく舌を離させて長谷部は大倶利伽羅の胸で揺れるカーンを口に含んだ。

 鋭く熱を孕んだ瞳から目を離さず、戦場で得た穢れを清めるように舌でなぞり舐めしゃぶる。ぐぐっと瞳孔を変化させた大倶利伽羅は長谷部の濡れた口から飴玉のようになっていたカーンを取り上げると、見せつけるようにドッグタグに舌を伸ばし、べろりと舐めてからゆっくりと歯を立てた。びくりと長谷部の身体が跳ねるのを確認した大倶利伽羅は、微笑んで優しく触れるだけの口付けを落とした。

 カーンの隣でいつも揺れるドッグタグは長谷部が主と相談して贈ったものだ。そこにはへし切長谷部の名が刻まれている。長谷部の代わりに戦場で大倶利伽羅の傍に在るように。多少なりとも精一杯の加護を添えて。

 大倶利伽羅にしてやられるのが面白くなくて長谷部が思わず尖らせた唇に、すりすりと甘えるように触れるだけの口付けを大俱利伽羅は繰り返す。牙を持つ龍のかわいらしい仕草に胸が疼き眉尻を下げた長谷部は、うねる髪を笑いながら掻き回した。額を付けて月のような瞳を覗き込む。

「うん、問題ないな」

「ああ」

 安堵の息を漏らした長谷部が目を閉じて感謝を捧げていると、充分に温められた身体が持ち上がる浮遊感を感じた。慌ててしがみつきながらも、目は閉じたまま感謝の言葉を胸の内で最後まで紡ぐ。

 刀は願わない、ただそこに在る。

 付喪神も願わない、ただ面白がる。

 この身を得て、初めて乞い願うことを長谷部は知った。

 

 

 

 長引いた風呂のあとに待ち受けていた、ぐずぐずに伸びてしまったうどんと半熟を通り越しぱさぱさに固くなってしまった落とし玉子を目にして始まった些細な諍いは、大倶利伽羅が今度牛乳プリンを作ることで収束した。

 満たされたお腹を抱えて換気扇の下で煙草を吸っている長谷部の隣に大倶利伽羅が並んだ。褐色の手に包まれる赤を見て、「今日はりんごか」とひとりごちる。大倶利伽羅は出陣すると何かしらひとつ土産を持ってくる。もちろん戦場からは何も持ち帰れないので、途中で寄った万屋や時渡りの箱までの道すがら手に入れたものだ。小さな甘味や果実、花一輪、童のように綺麗な石ひとつ。無言で長谷部の手を取り、それを押し付ける。流石に真っ赤な薔薇の花を一輪もらった時は頬が熱くてたまらなかった。

 待ち続けるのは苦しい。待つ時間の長さだけ硬くなったこころを小さな贈り物が溶かす。待つことは苦しいだけではないのだと大俱利伽羅は気付かせてくれた。

 どうやらりんごを剥いてくれるらしく、小さな果物ナイフを手にするのを横目に煙を吐き出しながら、当たり前のように下着一枚で過ごす男に慣らされていると長谷部は己に呆れた。ぼんやりと果物ナイフにも付喪神はやどるだろうかと考える。小さな大倶利伽羅の姿ならかわいいかもな、浮かんだ妄想にひとり笑っていると肩口の龍と目があって、何とはなしに下手くそなウィンクを飛ばす。

 ふいに煙草を取り上げられ、無防備な空白にりんごを詰め込まれた。視線の先でひとくち吸ってから消される煙草。長谷部自身が散々吸うくせに大倶利伽羅が吸っている姿には少しもやもやとしてしまう。

「そんなに嫌そうな顔をするな」

 口の中いっぱいの瑞々しいりんごをしゃくりしゃくりと咀嚼するたびに、あふれて顎を伝う滴を長い舌が拭った。やはり色気が過ぎるから服を着るのを徹底させるべきか、長谷部は頭の隅で思いながら普段は隠されている耳を爪の先で撫でた。

 

 

 

 深夜には京都への出陣が控えている大倶利伽羅はすべて片付け終わると、さっさと昼寝の準備をしている。何回制圧しようと、相手は歴史に干渉することをやめない。こちらもいたちごっこであろうとも何回でも迎え撃つ。夜戦がなくともよく眠る男ではあるな、と思いつつ今日の分の集計を終わらせるべく机に向かった長谷部の身体が不自然に止まった。引き止める腕に既視感を感じながら振り向けば、じぃと長谷部を見つめる鼈甲飴に血が一滴滲んだ甘い琥珀色があった。

「お前の言いたいことはなんとなくわかるが、あくまでなんとなくだ。ちゃんと喋れ」

 元々口数が多くない刀ではあるが、それにしてもうちの大倶利伽羅は言葉が少ないような気がしてならない。不言実行を地で行く刀だ。

「一緒に寝るぞ」

「もう少し仕事を進めたかったのだが、」

 長谷部に対しては饒舌な瞳が、陰影を変化させ訴えかけてくる。大倶利伽羅のめったに見せない甘えるような瞳に長谷部は弱い。

「……わかった」

 しょうがないなとばかりに苦笑して己をつかむ腕を叩くが、本当は知っている。大倶利伽羅ばかりの我儘ではないことを。

 こんな雨の日は隙間なくお前の近くにいたい。

 長谷部の胸にある思いを大倶利伽羅は勘付いているのだろう。

 大俱利伽羅は一般的な成人の重さがある長谷部を軽く持ち上げて布団に横たえ器具を外し、ひとつ、ふたつ、みっつ、口付けを落とした。もう、そこには存在しないはずのつま先がひくりと丸まる感覚が長谷部のこころを震わせる。じんとさざ波のように熱が広がる。小虎のように潜り込んできた大倶利伽羅を腕の中に迎え入れ、石鹸の香りがする頭を抱え込んだ。内緒話のように小さくおやすみと挨拶を交わして、確認するように薄暗い室内をぐるり目に映すと顎の下で揺れる猫っ毛を感じながら長谷部は瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、また泣いている。

 

 薄く開いた長谷部の目に大倶利伽羅がひきつけを起こしながら泣いているのが映った。いとけない子供のようにぼろぼろと身体中の水分を絞り出し、全身で悲しいと訴えかけている。離したくないと怯えて痛いくらいぎゅうぎゅうと長谷部をつかまえながら。

 ふうと吐き出した息とともに眉尻が下がる。

 あの日、損なわれた左足が再生しないのを知った時、長谷部の思考は一度歩みを止めた。足の速さはへし切長谷部という刀が戦いを組み立てる上で根幹を成すものだった。それでも、この身を与えてくれた主に報いるため簡単に諦めるわけにはいかないと、一度は足掻こうと必死で考え足を踏み出した。戦い勝利することが長谷部の存在価値だ。あつらえた義足で最大限の動きができるように鍛錬し、少しずつ動きをものにしていく過程に大倶利伽羅はとことん付き合ってくれた。やがて長谷部は守る動きはできても攻める戦いはできないことを知る。敵のとりこぼし、体重を上手くのせられない、速さが届かない、騎馬してもぶれる重心、些細な違和感が積み重なって、へし切長谷部本体を生かす戦いはもうできないのだと知った。敵の力量がわかっていて緻密な戦術がたてられる戦場ならいいが、最前線には立てないという事実が重くのしかかった。他の足を引っ張るということ、それはひいては大倶利伽羅と並んで戦うことはできないということだった。これでは役に立てないと思い知った長谷部はかろうじて呼吸することしかできない黒い世界にひとり落とされ、熟慮の末に刀解を望んだ。

 

 その時、握りつぶされそうなぐらい強い力で長谷部を引きとめたのが大倶利伽羅だった。

 

「長谷部、それは逃げだ! この身体で積み重ねた経験も何もかも捨てるな!…………身体的な能力だけじゃない……過ごした時間だって、大事なことじゃないのか」

 何よりも俺から逃げないでくれ。

 ほろりほろりと結晶のように頰を次々に転がる雫。長谷部の目を刺し貫くように見つめて、はっきりと大倶利伽羅は言った。歯をくいしばることしか知らない長谷部の代わりのように泣きながら。長谷部はこの器にしがみついてもいいのかと思った。形振り構わず行くなと伸ばしてくれた大倶利伽羅の手を取り、熱が己の肌に馴染んでいくと心臓が存在を主張するように暴れて目を見開いた。

 自分は何て卑怯なことをしようとしていたのか。残されるものの痛みを知っていたはずなのに。

 肉の器を与えられ、歩き出した時に己は何を考えた。自分の身を削って長谷部に形を与えてなお目の前で微笑む主の為に戦いたいと誓い、戦うごとに経験と隣に立つ大倶利伽羅への情が降りつもった。

 時間を、幾重にも重ねられた二度はない時間を無にすることはできない。長谷部は覚悟を決めた。惨めだろうが悔しかろうが、この身体にしがみ付いて最後まで足掻くことを。

 

 そう、あの日も静かな雨が降っていた。

 

 あれから大倶利伽羅は度々寝ている時に子供のように泣くようになった。長谷部が不安を隠し持っているように、大倶利伽羅も不安を奥底に抱えている。

 視界いっぱいに映る髪をいたずらにかき乱した。

 眠りに落ちるのがこわい日もある。起きたらこの身体が元に戻るんじゃないかと欠片ばかり期待して、思う存分戦う夢を見た後に高揚する気分を引きずって開けた目で確認すれば、そこには何もないのだ。余韻が掻き消え、残るのはぽっかりとした空白で、無いということをまざまざと見せつけられる。冷たくて寒くて震える身体をつなぎとめるのは、いつだって褐色の腕だった。

「大倶利伽羅」

 小さく震えている背を撫でる。ふわりとした髪にくすぐられながら頭頂部に口付けて頬を埋めた。

「大丈夫だ」

 しっとりと胸の部分が濡れていく。いやいやと顔を擦りつけられ口の端を上げた。

「だいじょうぶ」

 俺がつかまえている。

 お前が俺をつかまえていてくれるから。

「だいじょうぶ」

 きっとまだ諦めきれない。真っ先に戦場を駆ける長谷部に一拍遅れて追いつき、隣で雄々しく華麗に振るわれる刀の煌めきを忘れることはできない。出陣していく大倶利伽羅の背中に感じる刀身が軋むような音、ひと鳴き分の羨ましさは消えない。本当は演練で駆ける他のへし切長谷部を見るのも好きじゃない。

 長谷部は衝動的に胸元をつかむ手をとり、褐色の指に傷が付いたらいいとばかりに歯を突き立てた。すぐに後悔してやわやわと舌を這わせる。舌を押し返す皮膚の感触がふたりの過ごした時間と重なった。

 ぐうと喉をせり上がったこらえきれないものが一粒、雫となってこぼれ落ちた。落ち着こうと深く呼吸をすると、石鹸の爽やかな香りの薄布を剥いだ先にある大倶利伽羅の匂いが肺に満ちる。鉄と汗と肉桂が混ざりあったような、長谷部の臓腑をくすぐる強く優しい香りが。

 

「おおくりからひろみつ」

 

 硬く鍛え上げられた身体の中にある無垢なる魂。お前が俺の目を覚まさせてくれた。

 傍にいる。だから、大丈夫だ。

 いつの間にか泣きやんで、涙の走った筋を光らせながら幼い表情で眠る大倶利伽羅に我知らず唇が笑みを形作る。お互いの隣ではすとんと眠りに落ちる、ふたりはそんな身体になってしまったのだ。

 さあ、一緒に眠ろう。

 

 

 

 

 とんとんとん、軽やかにドアがノックされた。

「そろそろ、夕飯のお手伝いの時間だよ!」

 長谷部と大倶利伽羅を呼びに来た燭台切は部屋を覗き込み、玄関口から一望できる狭い室内で向かい合って眠るふたりを目に入れた瞬間、ぴたりと動きを止めた。

 縋り付くように長谷部の胸に顔を埋める大倶利伽羅と抱き込む長谷部の姿。常になくふにゅりと緩んだ長谷部の口元。ぎゅうと長谷部の服をつかんでいる大倶利伽羅の手が生み出す服の皺。緩やかな曲線を描いてふたりでひとつの形をなぞり、片方だけの目を見開いて凝視する。時間なのだから起こせばいいだけなのに、その形を焼き付け呼吸することしかできない。必死にお互いをつかまえているさまに、目の奥がじんと痺れて胸がどくどくと脈打つ。とても手を伸ばしてこの眠りを妨げることはできないと思った。

 少し滑稽で────、それでいてとても美しい光景。

 瞳の中で炎を燻らせながら、ぱちぱちと弾ける音がしそうなくらい瞬きをして燭台切は首を傾げた。視界を斜めにしても輪郭の眩しさは変わらない。刀の放つ輝きはもっと鋭くて、こんなに柔らかいものではなかっただろう。きゅっと胸が締め付けられているのに、微笑ましくて困ったように眉尻が下がる。

 初めて知る千々に入り混じる感情を抱えて困惑した燭台切は、目を覚ますように頭を振ると立て付けの悪い戸をできる限りそっと閉めた。

 

 

 

 廊下で大きく息を吐いた燭台切の視界に、桃色の髪とこちらを見上げる晴れの日の空色が映る。

「秋田くん……この気持ちはなんだろう?」

「どうしたんですか?」

「いま、この中に、すごくきらきらしたものがあったんだ。長谷部くんと伽羅ちゃんが眠っていて……そう、ただ昼寝しているだけだったんだけど、」

 はい、と相槌をいれながら静かに秋田は耳を傾けた。

「ふしぎで……」

 燭台切は両手で鞠を抱えるように円を形作ると、幼い仕草で首を傾げる。

「やわらかくて……」

「燭台切さんにとって、初めて感じるものなのでしょうか?」

「うん。……ふたりは不思議だね……前にふたりは付き合っているの? って訊いたらさ、そばにいたいだけだ、なんて返ってきたよ。答えになってないよね。恋仲なのかい? ってめげずに訊いたら、そんな言葉では足りないって……」

 掻き乱された胸中のままにとりとめなく言葉を続ける燭台切に秋田は微笑んだ。

「僕のいち意見ですが……明確な形に押し込めなくとも、ふたりは一緒にあろうとしているのですから、一緒にあるということが大事なのでは?」

「うーん?? 僕にはまだわからないなぁ」

「燭台切さんにもこれからわかるかも知れませんし、わからないかもしれません。二人のことは、二人にしかわからないことかもしれません……いや二人にもわからなかったり……」

「こんがらがるね、とってもあやふやだ」

 燭台切の苦笑は不思議なことに上品だなと秋田は感じた。

「そう! 僕もわかりません! でも、疑問があるって面白いと思いませんか?」

「そうかな?」

「僕ならなんでどうしてって質問攻めにします! 次の研究材料はおふたりにしようかな」

 ちらりと背後の扉を伺う秋田に慌てたように燭台切は返す。

「ダメだよ! そっと秘密に……大切にしなくちゃ」

「あはは、では燭台切さんに免じて、そっと見るだけにしますね。あ~でも写真撮りたいなぁ」

「だぁめ! 起きちゃうよ」

 くふくふと楽しそうに笑う秋田に、はっとしたように燭台切は声を上げた。

「そうだっ、夕飯の手伝いに呼びに来たんだった」

「では、僕がお手伝いします」

「いいのかい?」

「暇でうろうろしていたんです」

 ありがとうと笑顔を浮かべた燭台切は、ひとつきりの大きな黒い傘を開くとかたわらのふわふわした小さな桃色に差し掛け、食堂にゆったりと足を進めた。

「そういえば、秋田くんは雨の日の朝って髪の毛どうなるのかな?」

「僕はくるくるがきつくなって、起きたとき大変なことになってます」

「だよね。僕もなかなか決まらなくて────」

 

 

 

 

 

 

 

 微睡む大倶利伽羅の耳にたどたどしい二重唱がもれ聴こえる。雨が刻むリズムにのせて、自由に跳ねて階段をのぼる歌声が聴こえる。秋田の高く澄んだ声と光忠のいい声なのに少しよたよたと迷う声。雨を喜び少しずつ遠ざかる柔らかな手触りの歌。

 身体の境界がとろとろと熔ける、すべてが許されるような眠りの名は何というのだったか。頭の上で長谷部がむにゅむにゅとした寝言を言っているようだ。さわさわと手を動かし、こぼれる気の抜けた声。

「くりから……らいじょうぶだ、ぞ」

 それは耳からころり転がり込むと身体中を澄んだ音を立てながら巡り、最後に大倶利伽羅の喉を焼いた。叶うなら、ガラスの瓶に閉じ込めたいくらいかわいい寝言。穏やかな呼吸が優しく撫でるように髪を揺らす。

「……ぅりから」

 ふっと吐息とともに熱を逃して、大倶利伽羅は不器用な笑みを浮かべた。大丈夫に込められた長谷部の決意が胸を刺す。まなうらに浮かぶのはけぶる皆焼。しっかと刻み付けられた傷を見つめてなお背筋を伸ばして前を向く長谷部の、凛とした美しさは決して揺るがない。

「……ああ、あんたが隣にいるなら大丈夫だ」

 大倶利伽羅はいまだもぞもぞと探し物をするように彷徨う長谷部の手を取り、うやうやしく祈りを込めた口づけをすると、閉じ込めるように白く硬質な指を口に含んだ。

 戯れのようでいて、ひどく切実な願い。

 ゆびいっぽんぶん長谷部を所有するわがままは許して欲しいと思いながら。

 

 

 





 

くりへし小説アンソロジー「幸せがたり」寄稿作品

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