In the small box
Someday
へし切長谷部の朝は早い。小さな器に引きずられるようにつぶらな目を、パチリと開けると視界には大倶利伽羅の胸元が広がる。白いシャツを掴む小さな手を緩め、規則正しい寝息がふわふわと長谷部の跳ねた髪を揺らすのを感じながら、皺になってしまったシャツを申し訳程度に伸ばしてみる。率直に言って寝汚い彼が、ちょっとやそっとのことでは起きないのは短くはない共同生活で知っている。大胆にごく近い距離から穏やかな寝顔をじっくりと眺めてから、安堵の息を吐いた。布団のぬくもりは名残惜しいが、冷たい空気に意を決して躍り出る。
ぽすん、間抜けな音を立てて枕に顔から激突した長谷部は、思わず元凶を睨んだ。いまだ細い長谷部の腰に絡みつく腕が、ぐうと締めあげる力を強くし、苦しさに呻く。寝ぼけた大倶利伽羅は加減を知らない。苦しいのに嬉しい。なんとも言えない気持ちになった長谷部は眉尻を下げた。
苦労して抜け出すと、上気した頰を冷やしつつ静かに身支度を整えていく。紫色の半ズボンに頼りない足を通して靴下を履き、ぱちりぱちりと靴下留めを跳ねさせながら、長谷部の枕を抱え込んだ大倶利伽羅の眉間に皺の寄った寝顔を見つめた。ふっと息を吐くと最後に紫色の上着を羽織って、そっと部屋をあとにした。古ぼけた鉄製のドアが軋まないように慎重に。上着の長い裾が挟まれないように抱えて。
早朝の空気はなぜか澄んでいるように感じられて胸いっぱいに吸い込みながら、ひとつ上の屋上を目指す。冬といえどもぬるい冬だ、と鶴丸国永は言った。雪のように白い刀はもっともっと寒いところにいたことがあると言う。長谷部はまだ雪を見たことがない。
足取り軽く階段をのぼり四角い軌道をひとつ描いたら、これまた重たいドアを体当たりしながら開ける。広がるプランターの波。冬ということもあって寂しい様相を呈した菜園を突っ切り、一番奥まった場所に隠された小さな鉢に向き合った。少しでも暖かいようにと透明なビニールで作った覆いを取り去る。
今日も芽は出ていない。
ひっそりと落胆をこぼし、雨が貯められたジョウロの水を慎重にかけてやる。
「おはよう」
入り口にすらりと伸びた黒い影が浮かんでいる。長谷部と同じ時期に小さな器を与えられた燭台切光忠だ。
「おはよう」
水は大事だ。けれど、かけ過ぎてもいけない。そう言ったのは燭台切の養育者である乱藤四郎だったか。慌てて手の傾きを戻す。少しかけ過ぎてしまったかもしれない。じわじわと土に染み込むさまを眺め、ほっと息をつく。
「いつになったら芽が出るかな?」
「芽がでるかもわからないからな」
空き部屋で忘れられていた球根を見つけ手に取った時、命の重さを感じられない軽さにひゅっと喉が詰まったのを覚えている。それでも、長谷部は育てることにした。なぜだかはわからない。もう手遅れだとしても、見つけてしまった長谷部の責務だと思った。
ここは四季が流れていかないから芽を出すことから始めるのは難しいんじゃないか、と言ったのは今の時間はぐっすり寝こけているであろう次郎太刀で、秋田藤四郎に育てられている彼は鷹揚な振る舞いとは反対に物知りだ。「世話をし続ければ育つこともありましょう。機が熟せばきっと」と楽観的なことを言ったのは厭世的な宗三左文字に育てられたとは思えないぐらい楽天的な江雪左文字だった。彼は起きているだろうけど、ぎりぎりまで寝る宗三のもとを離れない。
ここには十二振りの刀しかいない。そのうち四振りはまだ幼い器だ。それぞれの養育者も最初の四振り以外は小さな姿から成長したのだという。長谷部には大きな彼らの小さな頃の姿も、小さな自分の大きくなった姿も想像ができない。もちろん成体のへし切長谷部の形は演練で見たことがあるが、自分がああなるという実感が持てないのだ。
くちん、と隣で野菜の葉を丹念に見ていた燭台切からくしゃみが漏れる。鼻の頭が赤くなっているのに口角を上げ、「空も明るくなってきた。もう戻るか」覆いを慎重にかけて手を差し出した。
鼻をすすって頷く燭台切の、皮手袋に包まれた手は湿ってひやりとしていた。燭台切を振り回しながら一段飛ばしに階段を跳ね下り、目を回した彼にくすくすと笑って部屋の前で別れる。燭台切と乱の部屋は隣で、空室をひとつ空けた端に鶴丸の部屋がある。白い刀の朝は遅い。廊下には何かが焼ける香ばしい匂いが漂い、乱が朝食の支度をしているのであろうことが知れた。
舞い戻った室内の暖かさに安堵して、くうくうと眠り続ける大倶利伽羅の枕元に座り込む。おそるおそる髪をなでると、これくらいでは起きないのはわかっているけれども、どきどきと心臓が跳ねた。くっと身体に力を込めてから勢いよく肩を揺さぶる。
「くりから! 朝だ! 起きろ!」
唸り声を上げて逃げるように転がる身体を揺さぶり続ければ、切れ長の目がすぅと開く。こぼれる琥珀色の光。
「おはよう」
「……ぉぁよぅ」
毎日思う。ああ、やっぱり長谷部は大倶利伽羅の瞳が好きだ。
他にも長谷部の好きなものはあって、それは料理をする大倶利伽羅の後ろ姿だ。居間にある卓に頬杖をつき、少し猫背気味でいまだ眠そうな背中を眺める。ぴょこりと跳ねた寝癖はご愛嬌。じゅうじゅうと焼けていくベーコンと目玉焼きのいい匂いが濃くなり、正直な身体から溢れる唾液を思わず飲み込んだ。昔は調理するのには火を使ったものだと思うが、ここには刀を生み出し照らす火がない。台所には電磁調理器が据えられ、一般的な刀剣男子が生活する場には必須の鍛冶場もない。火が灯るのは裏手にある焼却炉だけだ。ここで生活する刀はみな観察者の手によって外から届けられた。
電気は目に見えないので実感が湧かない長谷部は手伝いをしていても、何度も焼いているものをつついて崩れさせてしまうのだけれど、大倶利伽羅は待つのが上手だ。いつも目玉焼きの焼き加減は絶品で、カリッとしたベーコンとぷるぷるの白身、箸をさせばとろっと溢れ出す黄身の塩梅は魔法のように見える。少し俯きがちに、手は出さず、じっと条件が充たされるのを見守る彼の後ろ姿をパチパチと弾けだした音を背景に、長谷部は真剣に見つめた。
「いやー、負けた! 負けた!」
幻影で作られた空間が消えると次郎は豪快に寝転がった。
午後になって訪れた演練では最初にかろうじて一勝はできたが、以降は負けっぱなしだった。意地でなんとか震える脚を踏ん張って荒い呼吸をしている長谷部は、自分より幾分大きいとはいえ小さな身体で大太刀を振り回す苦労はいかばかりかと思う。規格から外れた刀が四振りもいては、いくら乱と大倶利伽羅が強いといっても分が悪い。演練では打ちのめされることばかりだ。長谷部たちの本丸には馬もいないので、差を埋める手段は配給される刀装と技術しかない。
刀収集のノルマとか本丸運営の雑事とかないから、うちは気楽だよ、と言ったのは最初の一振りである加州清光だが、成長し強くなるまではもどかしく悔しいことばかりだ。それでも、足を踏ん張っていられるのは、共に戦う仲間と見守る目があるからだろう。
汗が滴り落ちる顔を上げれば、去っていこうとする演練相手の中にいたへし切長谷部と目があう。彼はわずかに眉根を寄せた。
その感情は嫌いだ。
溢れそうになった激情を唇を噛み締めて抑えていると、水音が聞こえた。
「知ってんだよ! 小さい自分ってイライラすんだろ!? でもね、こっちだって遊びじゃないんだ!」
酒の匂いが漂ってくる。おろおろとする燭台切と静かに佇む江雪の間で、珍しく怒りをあらわにした次郎が大きな次郎に啖呵をきっている。からかいの言葉でもかけられたのだろうか。よくあることだ。物珍しく奇異な本丸であることは、加州がいくら笑って済ませようと身にしみてわかる。
遠巻きにざわざわし始めた空気の中で、すっと乱がハンカチを差し出した。
「ごめんなさい。よく言って聞かせます」
一緒に大倶利伽羅が頭を下げた。見惚れてしまう綺麗な仕草で顔を上げた乱が燭台切と次郎の手をつなぎ、前を向いて風を切るように颯爽と歩いていく。並び立つ成体の群れを裂く背中。軽やかに揺れるスカートと震える小さな背中がふたつ。呆然とする長谷部の手を包む力強い手。反対側を江雪とつなぎ、大倶利伽羅がいつものようにゆったりと歩き出す。長谷部にはしっかりと握ってくれる手の感触だけが全てだった。
「大丈夫か?」
小さく訊ねる大倶利伽羅に下を向いたまま頷く。
「私は問題ありません」
落ち着いた江雪の声を追いかけるように、
「……大丈夫」
長谷部は嘘をついた。
口の中に広がる苦いものを嚙み潰し、潤む目を必死で見開く。
悔しい。悔しい。でも負けたくない。足は止めない。歩いていくんだ。
屋上で暮れていく空を眺めながら貯水槽にもたれかかり、冷たい感触にほっと息をつく。視線の先、この空間の果ては空白だ。文字通り一定の範囲を超えればストンと何もなくなる。たくさんの空き部屋と少しの生活空間を内包するコンクリートの建物の中で誰かが水を使うたびに、ごうごうと耳のそばで鳴る水音に安心感を覚える。長谷部たちはこの身体を維持する霊力を、くすんだ空色をした容器に詰まった水から得ている。演練で大きなへし切長谷部に「主」としきりに呼ばれていた審神者という存在はいない。言うなれば、この貯水槽が主なのだろうか。物言わぬ容器に目と口を描いてみて、馬鹿らしい想像に自嘲する。徐々に暗くなる空を背景に、避雷針に絡みついた蔦が描く螺旋を見て意味もなく嘆息する。
抱え込んでいたメトロノームの螺子を巻き、重りを「60」に合わせた。
カチ、カチ、カチ、カチ。
刻まれるリズムに耳を傾けていると落ち着く。不安でいっぱいになると長谷部はこうしてメトロノームの音を聴く。自分を保てるように、泣いてしまわないように。確実に刻まれる音は心臓の拍動に似ている。
三角錐のこの箱を見つけたのは、探検と称して忍び込んだ空き部屋だった。
流しに伏せられたままのコップ、ほこりを被っている鏡台、色あせたカーテン、二階だというのに窓の隙間から入り込んだ細い蔦がカーテンレールにその身を委ねている。止まった空間の中で隙間風だけがひゅうひゅうとうるさかった。風に煽られ舞っていく白い紙がすれる乾いた音も。拾い上げれば、そこには線と黒丸の羅列が延々と続いている。生活の痕が色濃く残るさまにざわざわと落ち着かないものを感じながらも怖いもの見たさで進んだ先、すみの暗がりに佇む黒いピアノの上にメトロノームはあった。当時はなんの装置かわからなかったけれど、つまみを弄っているうちに刻み出した音、カチコチ簡素な一定の音に惹かれた長谷部は、思わず持ち出してしまったのだ。
屋上で隠れてメトロノームの音を聴いていることは、大倶利伽羅にも秘密で、なんとなく言うことができないでいる。
音に合わせて身体を揺らしていると、ポツリ、目の前にある小松菜の緑に光の粒が落ちた。雨だ、と口の中で呟く長谷部を笑うようにどんどんとその粒を大きくしていく。カチ、カチ、カチ、カチ、響くテンポに雨音が重なる。濡らさないように上着を頭から被ったものの長谷部は動けないでいた。雨が頭の上で強く弾ける音がして思わず空を見上げると、
「長谷部くん、もう戻ろう」
燭台切がビニール傘を差し出していた。
「……ああ」
長谷部がよくここにいることを燭台切は知っている。優しく聡い男だ。長谷部が落ち込んでいるのもきっと。
「長谷部くんのとこはお夕飯何かな? うちは今日カレーだって」
落ち込んだ時はよく食べること! 乱の溌剌とした声が聞こえた気がした。コンコンと雨がノックするのを聴きながら、ひとつきりの傘の下、ふたりは内緒話をする。
「いいな。明日の昼はカレーうどんか?」
「うん。でも、今日は鶴さんもいるから食べつくされなければ」
「鶴丸を止めろよ。あと、エプロンも付けさせろ」
メトロノームを雨がかからない場所に隠して、歩き出した。屋内に入りどんどん濃くなるカレーの匂いに空腹を思い出す。
「言うこと聞いてくれるかなぁ……カレー染みのついた白い衣装ってかっこつかないよね……」
お互いの白いシャツをみやると、まだ動きが慣れない頃のアップリケがついたエプロン姿が思い出され、なんとも言えない渋い顔になった。若気の至りだ。そういったことを気にしない鶴丸がばっちり染みのついた服で演練に行き、視線を集めていたことを思い出す。よくぞここまで豪快にと飛び散った黄色は異様だった。あの時はいい具合に肩の力が抜けたのか、三勝できたのだったか。
燭台切が隣の部屋に入るのを見送り、ドアノブに手をかけると口をもにもにと動かす。
もう笑える。大丈夫。
意を決して部屋に飛び込んだ。
「ただいま」
一拍遅れて届く柔らかな低い声。
「おかえり」
ほら、きっともう大丈夫。
すっかりカレーの気分になっていた長谷部の期待とは外れて、夕飯はカレイの煮付けにほうれん草の白和え、じゃがいもの味噌汁だった。じんわり染み込む甘さとふわふわの身は、それでもとても美味しい。ほろりと崩れる身を口に運ぶたびに元気になっていく、現金な自分を感じる。比べる対象が少ないからわからないが、他の刀が言うことには大倶利伽羅は料理が得意らしい。小さな頃から器用に作っていたという。
乱や燭台切と共にする昼餉は会話が飛び交い賑やかなものだが、ふたりきりでする食事は極めて静かだ。慎ましく響く咀嚼する音と遠くどこかの部屋から漏れ聞こえる物音。寂しさを覚えてもおかしくない静けさが、長谷部は嫌いではない。大倶利伽羅の白い歯が漬物をかじるのをぼんやりと見やる。稽古や戦場などの張り詰めた場以外の日常で、彼はあまり長谷部の目を見ない。それをいいことに長谷部は彼の所作や輪郭をじっくりと眺め、安心するのだ。最初はいっときも早く身体の動かし方を知るためだったのに、いつのまにか目的が変わってしまった。惜しむように少しずつ食べる長谷部と違って、彼は大口でいきゆっくりとよく噛む。大きく開けられた口が少年のようで、心の中でこっそりと微笑む。
「うまいか?」
目に映していた薄い唇が音を紡いで、長谷部は目を瞬かせた。
「おいしい」
「ならいい」
ふっと細められた目にわけもなく嬉しくなる。この身体は不思議だ。目の前の年若く見える青年の一挙手一投足で、こころがころころと転がり姿を変える。誤魔化すように口いっぱいに白いご飯を放り込んだところにかけられた言葉で、長谷部はいっそう目を輝かせることになった。
「冷蔵庫にプリンが冷えている」
でも、そのあとに続けられた言葉の方がもっと嬉しかった。
今日はよく頑張っていたからな。
どことなく甘い花の匂いが部屋に充ちた気がした。
雨音が途切れずに連なり耳朶を打つ。布団の中で温まりきった身体をもぞりと動かし、そっと眠る大倶利伽羅を伺った。視界に映る薄く開いた唇が己にもたらした熱を思い出し、ひとり顔を熱くする。
寝る前の入浴時間はもうひとりでも大丈夫だというのに、まだ危ないからと狭い浴槽にふたりの身体を詰め込むことになるので、いつも変に胸がどきどきと跳ねて頭がのぼせそうになる。それに加えて、困ったことに大倶利伽羅は突拍子もない行動に出ることが多々ある。彼なりの親愛表現はいかんせん長谷部の心臓に悪い。
今日は顔を包んで固定すると、あぐりと頰を食んだ。ぴゃっと鳥肌を立てて固まる長谷部の頰を幾度もかじると満足したのか、長谷部を膝に乗せて肩に顔を埋め、今度は触れる吐息のこそばゆさにもぞもぞとする長谷部の耳元で、ぽつり呟いた。
「長谷部は餅みたいでうまそうだな」
恥ずかしさでいっぱいの長谷部は、なんだそれは!? と指摘することもできずにぐぅと呻くことしかできなかった。
以前は長谷部のつるりとした額を同じように何度も唇で辿ったこともあったな、と口元を緩ませる。眠る大倶利伽羅の唇をつまんで、どうしようもないひと、と囁く。冷静で極めて理性的なひとだけれど、無口で何を考えているのかわからなくて、行動で表す時は脈絡がない。優しく強い長谷部の保護者。
本当に、────どうしようもない。
ぴったりと寄り添うように距離をつめ、きゅっと大倶利伽羅のシャツを掴んだ。寝ている大倶利伽羅は知らない、夜の秘密。
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