In the small box
Memory of the beginning
泣き疲れ熱をもつ瞼を抑え自室に戻ると、昼寝をする包丁藤四郎の穏やかな寝息が出迎えた。つるりとしたゆで卵のような印象の寝顔を眺めて気持ちが緩む。彼の寝顔はいつも起こすのがためらわれるくらい無垢で、自然と口の端が上がる。風に揺れるカーテンで畳に描かれた光の帯がうねり、春の爽やかな匂いが部屋にみちた。静かだ。大倶利伽羅と長谷部がかつて暮らし、今は大倶利伽羅ひとりが生活している隣の部屋からは何も聞こえてこない。思わず壁までいざり寄り耳をつけると、水が伝うような不思議な音が聞こえた。彼はいない。なんて未練がましいと外した視線に、きらきらと光を反射する写真立てが映った。箪笥の上に置かれたそれは包丁に飾り付けられ、宝石のように輝くシールで彩られている。中に入れられた写真の雰囲気とそぐわない派手さに眉尻が下がる。
そっぽを向く大倶利伽羅と、ぎこちない表情でいる小さな長谷部。
口数が少ない彼と察することができない長谷部、最初はふたりの関係がギクシャクとして大変だったことを思い出す。長谷部はかつて大倶利伽羅を全てに無関心なこわいひとだと思っていた。今では思い出すたびに長谷部の胸が温かくなるふたりの静かな食事風景も、出会った頃は寂しさとぎこちなさばかりが目立ち、鋭く硬い表情を伺いながらする食事は、ただ残さず食べることばかりを考えてしまって味わう余裕がなかった。隣の部屋から聞こえる乱のよく通る声と燭台切の笑い声が、もの寂しさを増長した。不満があるなら言えばいい。身体は童のようだが武器である一振りの刀だ。今ならそう思えるが、振るわれるはずの刀がポンと身体と生活空間を与えられて、己を振るう人間のいないことに寄る辺のなさを感じて肩に力が入ってしまうのは仕方のないことだった。人の営みの情報はインストールされていようと、肉の身体を持って生きるのは初めてなのだから。
あの頃、長谷部は息を殺して極めて静かに生活していた。大倶利伽羅の淡々とした生活態度を追いながら。
そして、彼は稽古に関してはとても厳しいひとだった。小さかろうと関係ない。身体で覚えろとばかりに長谷部を打ちのめし、倒れたらひとりで起き上がることを教え込んだ。注意がそれている甘い部分を端的に指摘しながら打ち込み続けられる木刀。真剣なら長谷部は何度切り刻まれただろうか。小さな器は泣き虫だ。大きな音を立てて床を転がり、痛くて悔しくて、勝手に溢れる涙を落とし蹲る長谷部に彼は決して手を貸さなかった。道場に幾度も響いた「立て」という言葉。瞳に怒りに近い炎を宿し長谷部を促した。常時冷静に見える瞳に血の赤が滲んだ気がして、長谷部は慄きながら止まらない涙を拭って立ち上がったものだ。そんなうまくいっているとは言えない保護者と被保護者の関係が変わったのは、いや、長谷部の彼を見る目が変わったのは鍛錬を重ねて初めて演練にのぞんだ時だった。
視界の端で、ばさり、包丁がタオルケットを跳ね除けるのが見えた。ふ、と口元を緩ませ、掛け直してやる。上半身と下半身が反対をむく豪快な寝相で眠る包丁の初演練は、緊張よりも好奇心がまさっていたようで大したものだったが、長谷部は違った。
自分が思っていたよりも緊張しいだということを、あの時初めて知った。比べられる場に立つと、シクシクと腹が痛くなるということも。
それは刀の時分に下げ渡された過去によるものか、物珍しい小さな器の刀剣男士をじろじろと眺める周りの視線に起因するものかはわからないが、長谷部は己を叱咤しながら大きな刀で溢れる会場を歩いていた。
大倶利伽羅、乱と小さな長谷部、燭台切、江雪、次郎で部隊を組み、実戦さながらの感触を覚える幻影の戦場に立って砂埃の匂いを感じ、相手の姿を目に映してやっと頭が冷静になった。厳しい稽古が頭によみがえり、大倶利伽羅を失望させたくないと腹に力を込める。開始の合図と共に飛び出した長谷部と横でなびく乱の桃色。相手の部隊から頭ひとつ抜きん出て迫り、長谷部の前に立ちはだかったのも同じくへし切長谷部だった。まともに打ち合っても負ける。小さな身体を活かして後ろに回り込もうと斬りかかるそぶりで隙を探す長谷部を、大きなへし切は簡単に弾き飛ばした。ついで踏ん張ることで精一杯で隙だらけの腹に強烈な蹴りを放ち、転がる身体に容赦無く蹴りを見舞っていった。咳き込む小さな同位体を見下ろす彼は心底蔑んでいるような冷え切った目をしていて、長谷部はやっと気づいた。
ああ、稽古中の大倶利伽羅の目は違ったのだ。あの瞳が孕んでいたものは冷徹さじゃない。
窮地だと言うのにそんなことが頭を掠めた。刀を握る右手首に革靴がめり込む。立ち上がって、なんでもいい、相手に向かっていけ、と思うこころとは反対に身体はすくんで慄く。痛みに耐えかねた手が刀を手放した。
「各々交戦中、助けはないぞ」
仲間の姿を探してちらりと視線を彷徨わせてしまった長谷部を叱咤するように、へし切は言った。
「刀なら目の前の敵に集中しろ」
己と同じ苛烈な刃文を纏った輝く刃が振り下ろされる。目をつぶった長谷部は、この身を両断する痛みを感じながら、己に失望した。
力が足りないことじゃない。諦めてしまったことに。
戦いは全敗で終わった。無力さを身にしみて味わった長谷部は、全てが済んで帰る段になっても立ちすくんでいた。震える足を動かすことができない。これ以上の無様は嫌で歯を食いしばっても眼窩が熱をもち、じわじわと溢れ出した涙はいちど決壊すると止まらなくなった。頰をころりころりと滑り落ちていく。なんて情けない。
「は、はせべく……ぅ、あああぁん」
本体を握りしめ声を殺してぼろぼろと泣く長谷部につられて、燭台切が声をあげて泣き出した。ついで次郎が笑おうとして失敗し、大きな声で泣きながら悪態をつき、それを見た江雪が俯いてほろりと雫を落とした。泣くことしかできない小さな身体に駆け寄ってきた保護者たちがそれぞれに慰める。付き添いで来ていた宗三が江雪の頭をなで、秋田が次郎に励ましの言葉をかける。燭台切の頭をくしゃくしゃにした乱は笑っている。大倶利伽羅は、長谷部の正面に仁王立ちし何も言わなかった。仏頂面を見上げ、怒られると思った長谷部はますます涙が溢れるのを止められなかった。
怒られるだけならまだいい。もし、呆れられ見放されたら。どんどん悪い想像で頭がいっぱいになっていく。
「……す、すてないでっ……」
思わず漏れた声はなんて弱々しい響きをしていたことだろう。期待に応えられないことが、こんなにこわいなんて知らなかった。彼が失望をあらわにするのを見たくなくて顔を手で覆った。
ゴンッ。
突如、重たい打撃音が耳に届いて長谷部は顔を上げる。ぼやける視界に乱が大倶利伽羅を跪かせ拳骨を見舞っているのが映った。宗三と秋田も取り囲み口々に何かを言っている。
「大倶利伽羅、あなたが喋るの苦手なのは知っているけれど、努力はしなさい!」
「言葉でも行動でも動かなければ伝わりません!」
「……こんな泣かせ方、させちゃダメだよ」
桃色に囲まれ、長谷部の目線の高さにある大倶利伽羅の顔が少し困っているように見えた。いつもと同じ無表情なようでいてわずかに下がった眉。見上げている時にはわからなかった。
普段は穏やかな保護者たちがなぜかとても恐怖を感じる笑顔で大倶利伽羅を小突くのをやめないので、慌てた長谷部が乱のスカートを引いても「反省は大事」とにっこり笑って、こんこんと説教をするのをやめてくれない。燭台切が「こ、こわぃ」とさっきとは違う涙を滲ませる。途方にくれる長谷部に、涙の跡を光らせた次郎が笑いかけた。
「違うあぷろーちの方法を知るのも大事なんだろ? あたしたちの関係はどっちかだけ我慢するのも違うし、歩み寄ることは大事だって秋田は言ってた」
「いじめとは違うのでは? 暖かい風を感じます」
江雪が目を細める。
ふっと囲む保護者たちの間から覗く琥珀色と目があう。生きて熱を持つ宝石。長谷部は彼の瞳が孕む感情を、やっと、ほんの少しばかり、わかった気になった。
長谷部と同じ。きっと彼も戸惑っていたのだ。
その後、気が抜けたからか腰が抜けたような状態になった長谷部は、大倶利伽羅に背負われて家路についた。ぽそぽそと大倶利伽羅の唇から漏れる音を聴きながら。
「小さくとも、力の差が歴然としていても、最後まで諦めるな。お前の存在を相手に刻みつけろ」
長谷部が諦めてしまった瞬間を戦いながら彼は見守っていたのだろうか。
「……でも、えらかったな。お前は…真面目でよく切れる刀だから……これからもっと強くなる」
ゆっくりと大地を踏みしめる振動と硬く温かい背中。やさしいやさしい音。どうしようもなく泣けてしまって長谷部は首筋に顔を埋めた。彼の身体が孕む空気が、中から聴こえる躍動する音が、語っている。
強くあれ。力強い彼の身体が証明だ。いつか長谷部もこんな背中に。
それから、我ながら現金なことだと思うが、転がり落ちるように長谷部は大倶利伽羅に懐いていった。
「む……ぅん、おかし…いっぱぃ……ぅぅドーーンッ」
包丁の口から漏れた寝言に目を見開き、笑いながら明日のおやつを考える。
大倶利伽羅もよくお菓子を作ってくれた。特に洋風の焼き菓子はそっけない見た目とは裏腹に絶妙な甘さが絶品で、蒸したさつまいもやおにぎりの合間にそれが出てくると長谷部は目を輝かせたものだ。宝物のように大事に思えて、隠し場所を求めて建物の中を彷徨ったことまである。鋼の己にも大事にしたいものがあることを知ったあの日。
飾り気のない四角形のクッキーが入った容器を抱えて長谷部は歩き出した。気が急いても走れば割れてしまうかもしれないので、足取りは慎重に。レシピが書かれた本を片手に生地をこねていた大倶利伽羅の後ろ姿と仕上げに漂った焼けるいい匂いを思い出して、口角が上がる。本当は「ちびたちで分けろ」と持たされたこれを、長谷部は独り占めにしようとしている。後ろめたい。けれど、長谷部だけのものにしたい欲求は止めようがなかった。
あの時、上着の中に隠すように抱えたクッキーは結局、目ざとい鶴丸に見つかったことで隠されることはなかった。昔も今も鶴丸は少しこわいひとだ。
すれ違いざまにクッキーの存在と長谷部の意図を指摘して彼は言った。
「君は動物か? 大事にしてたら腐っちまうぜ」
「だって、食べたらなくなってしまう」
「そしたら、また可愛くねだれよ」
「……かわいく…」
「甘えることも覚えろ。してほしいことを伝えるのは大事だぜ。できないことに胡坐をかくな。そうさな……隠して姿は残るが朽ちるのを待つか。美味しく食べてしまうが形は残らない……君はどっちを選ぶ」
気圧されて棒立ちになる長谷部に、「意地悪を言ったな。どう選択しようが秘密にしといてやるぜ」と、とってつけたように付け加えて笑った。怖気付いた長谷部はみなと分けあってクッキーを大事に食べることを選択した。また次があると自分に言い聞かせながら。
隠しものといえば、大倶利伽羅の物を隠してまわったこともある。
自分は随分と隠し事が好きなんだな、と包丁の柔く握られた手に指を差し込みながら自嘲する。その頃にはもう長谷部の小さな身体の中では、大倶利伽羅を慕うこころが大きくなりすぎていた。だから、彼の滲むような優しさと一心に強くあろうとする背中を追いかけているうちに、気づいてしまったのだ。かのひとのこころは何にも執着することはなく、ただひたすらに自由だということに。長谷部なら好きなものを抱え込んで離さないが、彼の振る舞いは全てに並列で特別なものがないように見えた。
最初は彼が間食に好んで食べている煎餅。ついで読みさしの本。寝るのが好きな彼の枕。傲慢にも試すように長谷部は次々と大倶利伽羅の物を隠したが、彼は毎回少しあたりを見回しただけで探すことをやめた。長谷部に問うこともせず、なければないでいいとばかりに。
大切な戦装束ならと腰布を隠しても素知らぬ顔で出陣し、いつものがないと間抜けだな、と鶴丸に笑われても堪えたようすはなかった。意地になった長谷部は、これならどうだと風呂にまで付けているペンダントを、寝ているうちに外して持ち去った。起きてすぐに喉元に手をやり気づいたはずなのに、彼は何も言わなかった。子供のいたずらなどお見通しなのかもしれない。そこで問い詰めないところが、彼の鷹揚なこころの広さを表しているようであり、決定的な無関心さを表しているようでもあり、長谷部の胸は、しくん、と痛んだ。なにものも彼の枷にはなり得ない事実はぽっかりと胸に穴があいたようで、探してもらえぬものたちが長谷部自身であるかのようにまで感じてしまった。
胸のしこりが消えないでいた長谷部はついに耐えかねて、眠りこける大倶利伽羅を残し部屋を抜け出した。いい子の長谷部は今まで何も告げずにいなくなったことはない。この領域の外に行けないことはわかっている。それでも、己を隠してしまいたいと思うことをやめられなかった。道連れに大倶利伽羅のジャージを羽織り、飛び出した勢いのまま走って、廊下で手すりに寄りかかり空を眺めている鶴丸の後ろを通り過ぎる。白い耳にはめられた黄色い石がチカリと光を反射していた。
「よう坊主、今日も隠しものか?」
「ちがう」
「じゃあ、家出か」
足を止め、黙り込む長谷部を遠くから見つめ鶴丸は笑った。
「好きなだけ歩けよ、少年」
「長谷部だ」
「ん?」
「俺は長谷部だ」
「そうだったな、へし切」
雲ひとつなく、太陽に暖められた空気を切り裂くように、頭に響く音がした。
「おっと、電話だな」
鶴丸はなんのためらいもなく欄干に足をかけて、ひょいと身を投げた。ひらり、本の中でしか見たことがない鳥のように飛ぶ白い残像。ここは四階だ。口を「あ」の形にしたまま固まった長谷部は、急いで駆け寄り下を覗き込む。
そこには常と変わらず飄々と、建物の正面に据え付けられた電話ボックスに向かう後ろ姿があった。電話番の加州は休みなのだろうか。長谷部たちは外からの指示がもたらされる緑色した電話という機械に触れることを許されていない。耳障りな音はすぐにやんだ。
思わず大きなジャージの襟元に口元を埋め、匂いに安心感を覚えながら、出鼻をくじかれたが改めてどこに行こうかと考える。空き部屋はたくさんあれど、ほこりだらけで居心地が悪い。屋上は隠れるのには向いていない。迷いながら階段を降り、意味もなく三階の廊下を歩いていると、お掃除ロボットが向かいからくるのが見えた。円盤状の極めて小さなそれは建物の中を時間を決めて巡回しており、扉を開けておくと部屋の中を掃除していってくれる。ここには動物などの生き物がいないので、植物と刀以外の物珍しい存在に長谷部はついこれを追いかけてしまう。階段ではどうするのだろうとわくわくしながら見守っていたら、にゅっと足が出てきてびっくりしたこともあった。
付喪神とはちがう科学技術の結晶。自分たちを形作った人間は、このロボットのような任務に忠実なものを作りたかったのに、失敗したのかもしれない。作る過程で思わぬことに生まれてしまったこころを彼らは消すことができなかった。当たり前だ。付喪は人の想いが元になっているのだから。
うぃーんと音を立てて進む機械を何とは無しに追いかけてしまっていた長谷部が、はたと本来の目的を思い出し踵を返すと、目の前の扉が開いて宗三が顔を出した。
「あれ? お掃除のはもう行ってしまいましたか?」
「ああ」
「で、あなたは? それ似合ってませんよ」
目を泳がせる長谷部に宗三は憂いのこもったため息をひとつ吐いた。
「また何か抱え込んでいるんですか?」
「ちが、」
「いいです、いいです。好きなだけ悩みなさい。そして、ここに帰ってきなさい」
面倒臭そうな口ぶりとは反対にその目は澄んでいて、曖昧に頷き長谷部は宗三と別れた。
二階ではこれから遠征に向かうという次郎と秋田と行きあった。好奇心が旺盛なふたりは遠征任務に喜ぶさまを隠しきれていない。
「何かお土産持ってくるねー」
「次郎さん、外のものは持って帰れません」
「あ、そっか。つまんないの」
「目に焼き付けて、あなたがお話して差し上げてください」
「さすが秋田! いいこと言う〜」
「俺は別に……」
きらきらと楽しそうなふたりに気後れして戸惑う長谷部を、からりと笑って彼らは言う。
「もう、すかしちゃって」
「楽しまなきゃ損ですよ!」
「あ、ああ」
「いってきます」と手を振るふたりに余る袖を揺らして「いってらっしゃい」と小さく返し、頼もしい後ろ姿を見送った。
階段を降り、黄ばんだ紙が揺れる掲示板といくつも並んだ郵便受けを横目に、いちど外に出て建物を眺める。薄汚れたコンクリートの壁に書かれた「4」の文字。「1」や「2」はどこにいってしまったのだろうか。他に建物は「体育館」と標識に書かれた道場しかない。一階に並ぶ扉に視線を移し、自分が入るべき箱を検討する。
図書室で時間を潰してもいいが、それではいつもとなんら変わらない。長谷部は完全にここでの日常から外れてしまいたいのだ。手入れ部屋は暗く得体の知れない空間で近づきたくない。会議室とその隣の倉庫は隠れるのにいいかもしれないと足を向け、「103」の前を通り過ぎた時、わずかに音が聴こえた。ここは加州の部屋だ。音はただの音ではなく、絶え間なく連なり流れてその文様が何らかの意味を胸に呼び起こす。大倶利伽羅を育てたという初期刀の加州は張り詰めた空気をまとっていて、近づきづらいものを感じている長谷部はあまり話したことがない。
いまだやまない音の羅列。妙にこの音に惹かれる。どうしようか。いっそのことここに匿ってもらおうか。臆病な長谷部を誘うようにやさしい音が耳朶をなでる。足を動かし踊ろうと手をひく。
コン、コン。
長谷部は小さな拳を鉄製の扉に打ち付けた。
「探検中? 俺もこの機械探検中に見つけたんだ」
相変わらず音が流れ続ける小さな箱のような装置を指差し、加州はにいと笑った。音楽とか歌って言うんだってこういうの。話しながら冷蔵庫から出したお茶を卓に置いた。
「……おんがく好きなのか?」
加州は問いには答えず、音に薄く人の声が重なりはじめると目を細めた。
「多分これ、昔ここにいた誰かの歌う声なんだよね」
そうか人は歌うのだったか。刀の時分の遠いおぼろげな記憶がよみがえった。
「この声の持ち主はもういない。でも、歌だけは残って俺を慰めてるってすごくない?」
「……うん」
「そういう残るものが嫌いなやつもいるんだけどさ。で、何を落ち込んでるの?」
黙り込み温められた部屋の空気で汗をかくコップを眺めていると、むにりと頰を引っ張られた。
「そんな無口なとこまで保護者に似ないの」
「…………大倶利伽羅には……特別がない。全部平等で、だから……ぜんぶ、どうでもいい存在に思えて、」
「特別が欲しいの?」
身にすぎた願いを突きつけられたようで、喉が詰まる。
「いろんなこと考えているんだね。その小さい頭で。んー長谷部にはそう見えるのか……俺は大倶利伽羅じゃないからわからないけど、あいつをそんな薄情なやつに育てた覚えはないよ」
長谷部は瞳を揺らして加州の荒れた唇を見つめた。
「いや、おこがましいな。あいつは俺が教える前から情の深い子だった。いかんせん態度にまーったく出ない不器用な男なの」
昔はもうちょっと素直だったんだけどな。加州は切れ長の目を緩ませた。
「でも……」
「昔話をしようか。これは俺の失敗談でもあって恥ずかしいんだけどさ」
「俺さ、大倶利伽羅を育て始めた時、最初の一振りだし失敗できないって肩に力入りまくってたんだ。責任が重くて重くて。で、まあ、成果を出そうと出陣とか頑張ってたんだけど、大倶利伽羅のこと忙しさにかまけて見ているようで見ていなかったんだと思う。勝つために戦場のことばかり考えて、疲れて大して話すこともなく戦っては眠る毎日で、あいつが無口なのもあるんだけどさ。配慮が足りなかったな……小さな器で寂しかったと思うよ。でも……あいつから歩み寄ってくれたんだ。いっぱいいっぱいの俺に。ある日、定期の観察者への報告で神経すり減らして帰ったら、温かいご飯が待っていたんだ。情けないことに料理はからっきしだから、それまで配給の弁当ばかりで冷たいご飯をなんの感慨もなくふたりで食べてた。それを温めることすら思いつかなかった。…………教えたことないよ料理なんて。なのに一懸命勉強して、俺に温かいご飯作って待っててくれたんだ。小さな手を傷だらけにして。あいつは圧倒的に言葉が足りない。……それは俺のせいかもしれない。でも、ちゃんとお前を感じて見ている。一緒に戦場にいる時の呼吸を思い出してごらん」
口の端を上げて笑う加州に長谷部は切なさを覚えた。彼の笑顔はどこか哀しい。試すようなことをしてしまった後悔で唇を引き結び俯く長谷部の頭をなでた加州は「泣きたくないの?」と言う。
「お前は随分と大人びて我慢強い子だね。あいつは自分でもわからないようだったけど、感情が高ぶるとすぐにぼろぼろと泣いてたよ。けっこう激情家でもあるんだ」
我慢を覚える前の長谷部と一緒だ。意外な共通点に目を瞬かせる。
「さーて、そろそろ気づくかな」
呟いた加州はそれから長谷部に戦場でのことや暮らしぶりについて訊ね、静かに耳を傾け続けた。
バンッ、とひどい音が上の方からして、建物が揺れたような気すらした。その音はそれからなんども続いて、驚きのまま長谷部は固まる。
「おーこわ。こういうのホラー小説で読んだことあるよ。どろどろでこわーい顔した怪物に追いかけられるお話。押入れに隠れた少年の元にどんどん音が近づいていき、ついに! みたいな」
「こ、ここにはそんな生き物がいるのか?」
「ふふ、どうだろうね。知ったら夜眠れなくなるかもよ」
長谷部はごくりと唾を飲み込み、音が段々と一階に近づいてきていることに身を震わせた。もうすぐそこまで。思わず加州の前に立ち扉に向かって構えたところで、すごい勢いで扉が開いた。
そこにいたのは息を切らした大倶利伽羅で。
裸足の足をずかずかと進めると、長谷部をぎゅうと抱きしめた。
身体が軋む。ひどく熱い身体から顎を伝いぼたぼたと落ちる汗が長谷部に染み込む。
ああ、そんな。俺を探し……見つけてくれたのか。
大倶利伽羅の顔を見つめれば、上気した頰の上で見開かれた瞳が輝いている。
腹がしくんと震えた。
戦うためにあるこの腕を離したくないと、長谷部はきゅっと白いシャツを掴んだ。それは祈りに似た願いだった。
あの時、長谷部はただ慕っているという範囲を超えた自分の想いを自覚した。
フレームにつけてしまった指紋をぬぐい元に戻すと、包丁の隣に潜り込みまっすぐな髪をなでた。大倶利伽羅は長谷部の告白に「刷り込みだ」と言ったけれど、長谷部は自信をもって断言できる。
誰かを慕う感情と、この胸のうちにある大倶利伽羅を欲しいと思う気持ちは違う。それは隣で眠る包丁が教えてくれた。
「この想いだけは否定したくないなぁ……」
見上げた天井で揺れる光が滲んで、目元を腕で覆った。
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