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​In the small box

Niji no kanata

 

 




 

 夜戦にいく命が増えた。夜泣きの幾分落ち着いてきた包丁を寝かしつけてから、絡みつく湿った闇の中に滑り出す。戦うことは嫌いではない。嫌いではないのだが、と長谷部はひとりごちる。

 部隊長ゆえに一番最後に装置をくぐった長谷部がトンネルから這い出し顔を上げると、ぽつり、ぽつり、明度の違う灯りが漏れる窓が目に映った。そして、蛍のような小さな光がひとつ。目を凝らせば暗闇に浮かぶ人影。位置からして大倶利伽羅の部屋の前だろうか。

 あれはきっと、煙草の火。

 彼が喫煙者だということを知らなかった長谷部は、誘われるようにゆらゆらと建物に足を進めながら、あんなに見つめていても知らない事実はあるのだな、とぼんやりする。長谷部の前では我慢していたのかもしれない。

 ひとつひとつ階段を登るほどに、涼しさを感じる風に乗って煙草の匂いが漂ってくる。あの薄く締まった唇から吐き出された煙なら長谷部にとっては甘露のようなものだ。四階にたどり着くと彼はまだそこに佇んでいたが、その手には携帯灰皿があるばかりだった。煙をくゆらす絵を間近で見てみたかった。惜しむ気持ちがちろり胸を焦がす。正直なこころは強欲であることをやめようとしない。たとえ長谷部の思慕が彼になかったことにされていたとしても。

 いつのまにか風は止まってしまっていて生ぬるい空気の中、輝く琥珀と見つめ合う。そういえば、廊下の電灯はいつまでも切れたままでついているのを見たことがないな、とどうでもいいことに気がつく。薄暗がりにふたり。静かだ。静かすぎるぐらいに。共に出陣していたものたちはみな安らかな眠りの中に行ってしまったのだろうか。

「少し、よっていけ」

 大倶利伽羅が疲れと眠気で思考が定まらない長谷部の手を引いた。

 

 かつて、彼とふたり暮らした部屋で長谷部は所在無げに腰を落ち着けた。

「ん」

 正座する長谷部の前にことりと置かれたマグカップ。開け放たれた窓から風が通り抜け、立ちのぼる湯気が揺れた。甘い匂いが鼻をくすぐる。

 真夏の夜に飲むのには不似合いなホットココア。

 震えてしまわぬように注意して手を差し出し、恐る恐る口に含む。猫舌の長谷部に合わせてぬるめで甘さが控えめ、そのぶん濃い牛乳を使った懐かしい長谷部のお気に入りの味。ふう、と安堵の吐息が図らずも漏れる。『ヒトの身体は食べたものでできているんだって、その理論でいくと長谷部くんの身体は大倶利伽羅が作っているんだね』小さな頃、笑いまじりに乱が言っていた言葉が頭にこだまする。

 彼はなんでこれを。

 涼しげな音を響かせて氷の入った水をひとくち飲んだ大倶利伽羅が口を開いた。

「……お前はよくやっている。光忠もそうだったが…どうやら焼かれた記憶がある刀は夢見が悪いらしい……あいつが乗り越えるまでもう少しの辛抱だ」

 何もない真っ暗な闇が広がる窓の外を見ながら、彼は訥々と言う。

「…………少しは頼れ」

『おおくりから』

 俯き頷く長谷部の頭をぽんと撫でる感触。育てた子に対する愛情だと知っているけれども、蓋をしたこころは勝手に溢れ出ようと暴れ出す。

『おおくりから』

 口に含んだ甘さがじんわりと身体に染み込む。

 憎らしいひと、けど、やっぱり愛しいひと。

 カラン、氷が溶ける音が響く。汗をにじませた褐色の首筋で上下する喉仏の動きが、長谷部のこころを揺らした。

 

 自室に戻り包丁の穏やかな寝顔を確かめた長谷部は、狭い浴室にこもって初めて顔を歪めた。

 まだ冷たいシャワーを頭から浴び口元を覆う。口の中に残る甘さは簡単に消えてしまう。寂しさを訴える口内に指を突っ込み、不在を埋めてくれるならなんでもいいとばかりに舐めしゃぶる。彼が作ったものを幾度も咀嚼した長谷部の口。もし、ここで彼自身の肉を食むことができたなら。かりりと指に歯を立てて、溢れる唾液を舌で塗りこめる。糸を引いて離れた指を、長谷部は芯を持ち始めている性器に這わせた。

 長谷部の舌に味を覚えさせたのも大倶利伽羅なら、肉の身体が持つ子孫を残す機能を教えてくれたのも大倶利伽羅だった。それは刀にとっては不毛な機能だったが。

 起き抜けに粗相をしたと涙を滲ませた長谷部に、おかしなことじゃない、と処理の仕方を淡々と教えてくれた。こわくてできないと震える長谷部の手をとり、一度だけ、手伝ってくれさえしたのだ。思い出すと羞恥でかっと頭が茹だり、手の中の雄が震える。大倶利伽羅の膝の上に収まった長谷部のまだ幼さの残る手に重ねられた褐色の手が、ぐちぐちとした水音を立てて扱くみだりがましい光景。不随意に太ももが跳ね、足先がまるまる。己の柔い掌の合間から感じられる硬い皮膚に押し付けるように、腰が揺れるのを止められなかった。鍛えられた筋肉で覆われた胸元に後頭部を擦り付け、意味をなさない高い音を垂れ流しながらも、彼の手が長谷部に施す行為から目が離せなかった。

 感覚を追うばかりで何もわかっていなかったあの時の自分は、無意識に彼に縋っていたのだと今ならわかる。彼が養育者の義務でしてくれた行為だと重々承知している。湯気のこもる浴室で悲しみが一筋目尻を伝い、しくしくと腹が泣く。

『おおくりから』

 この虚を埋めて欲しいのはあなただけ。

 壁に片手をつき、後孔にどろどろの指を這わせる。長谷部の腹の奥まで埋めて欲しい。

自分を慰めるたび、快楽に溺れるためにいじめ抜いたはしたない穴は、たやすく己の指を飲み込んでいく。限界まで挿入した指を動かさなくとも、隧道は悦楽を拾おうと勝手に蠕動し、欲しがりな口は涎を溢れさせる。

「ん、んっ」

 胎内にあるのが彼の雄だと想像するだけで肉は歓び、きゅうきゅうと咀嚼する動きをやめない。

「あっ、アッ」

『おおくりから』

もっと奥まで欲しいのに届かないことが切なくて、ぼろぼろと涙が溢れた。奔放に腰を揺らし、快楽が弾ける箇所を擦って内腿を戦慄かせる長谷部は、熱い吐息とともにこぼれる涙を止めることができない。

「ぃ、ふっ、んんッ」

 大倶利伽羅の薄い唇が浮かぶ。吸って噛んで縋りつきたい。

「く、ぅぅん、あっ、ああっぁ!」

 寂しい唇を震わせて、溢れる唾液を混ぜながら舌を絡め合う想像だけで長谷部は絶頂した。もたりとした精液が黄ばんだ浴室の壁を伝っていく。崩折れて座り込んだ長谷部は、空虚を訴え鈍く痛み続ける腹を抱えて動けない。

「……ぉぉくりから」

 勝手に彼を呼ぼうとする唇を噛み締めた。




 

 最近はよく電話が鳴り響き、比例するように急な出陣が増えている。

「ほんと、刀使い荒いっていうか……もう!」

 軽い言葉とは裏腹に加州の纏う空気はかたい。綺麗に紅を塗られていた誇り高い爪も、手入れが追いつかないのかぼろぼろだ。今日も戦場に立ち、周囲を警戒しながら進軍する方向を定める。以前なら戦場の情報も少なからずもたらされていたのに、情報の蓄積がない戦場なのか何もかもが現地で判断するしかない状況だ。

 しくん、と腹がまた痛んだ。

 身体の異変に気がついたのは、ひと月ほど前の帰り道だった。その日は大倶利伽羅と一緒の出陣で、彼の強さを視界に入れることをやめられなかった長谷部はいつものように隊の最後尾を歩いていた。再確認した彼の戦う姿は、腕に這う龍のように雄々しいのに神聖な舞いのような静謐さを湛えていて、胸が熱くなった。前を行く背中を見つめ、『おおくりから』と胸のうちでその名を呼んだ時、腹で何かが、ぶるり、震えた感触がした。

「もう! 遅いよ〜早くおうち帰ろ」

 腹に手をあて考え込む長谷部のストラを包丁が引っ張り、視線の先で揺れる緋色の腰布を小さな手できゅうと掴んで歩いた昔がよみがえると、また腹が震えて首を傾げつつも包丁に引っ張られるまま家路に着いた。

 それ以降も隠した思慕に耐えかねて、長谷部が彼の名を声なき声で紡ぐ度に同じ現象が起き続け、違和感が大きくなっていったのだった。不調を無視できなくなった長谷部はじっくりと観察して気づいてしまった。己の腹の中に何かが在ると。衣服でごまかせる程度だが、確かに膨らみ大きくなり続ける腹はまるで人の子が孕んだようだという考えに至った長谷部は背を冷たい汗が伝うのを感じた。

 己は何を孕んでいるのか。

 図書室で人の営みについて調べた長谷部は “想像妊娠” という言葉を知る。忘れられない諦められない己のこころが取り返しのつかない怪物を生み出したようで、呆然とするしかなかった。

 真に諦められれば忘却も叶い、これも消えるのだろうか? 

 答えなどわからず誰かに相談することもできず抱え込んだ長谷部は、鈍く痛む腹を抱えたまま出陣を続けている。

 

「とんでっ」

 包丁が敵の気配を察知して叫ぶ。次々と打ち込まれる矢をよけ、白刃戦に備えながら駆ける。

 なぜこの身体は、このこころは、思い通りにならない。敵に回し蹴りを決めてから流れるように袈裟斬りにする。

 なぜ観察者はラットに感情を与えた。ただ斬るだけの刀であったなら、これほど苦しまなかったのに。変えられない過去を悔やむほどに己の存在が揺らぐ。切り刻み眼前で消えていく歴史を変えんと願うものは自分であるかもしれないのだ。

 焦燥で太刀筋が粗くなるのを抑えきれず、わずかに刃が流れる。仕留めきれなかった打刀が傾いだ身体をこちらに向けた。ゆらり、赤が揺れ、ぼろぼろの笠の影で琥珀が光る。

「長谷部!」

 敵の背後から飛び込んできた包丁が首筋に刃を突き立てた。吹き出す赤黒い血を浴びながら感覚のない己の身体を見下ろす。切り裂かれた腹からぐねぐねと内臓がまろびで、ついで火に炙られるような痛みが弾ける。

 連綿と続く営みを終わらせたいと思ってしまった、一瞬の油断。

 膝をついた長谷部の腹からどくどくと鮮やかな赤が流れていく。霞む視界で何かが光った。それはこぶし大ほどの鈍く光る鋼。

「あ」

 長谷部が抱え続けたこころ。

こぼれ落ちようとする欠片を思わず握りしめ、ごぼりと長谷部は口から血を吐いた。

 寒い。

「長谷部! 長谷部!」

 包丁の熱い手が震える身体を必死で掴んでいる。もうほとんど周りを認識できない目を閉じ、長谷部は意識を手放した。



 

 パチリと瞼を開く。手入れ後の目覚めはいつだって突然だ。長谷部はいつもの薄暗い手入れ部屋で横になっている己を確認してため息をつく。安堵ゆえなのか、残念な感情ゆえなのかは自分でもわからない。

 身体を起こせば、ぎちぎちに握り込んだ鋼が固まった手の中にまだ存在することに気づく。いっぽんいっぽん指を剥がし姿を見せたかたまりは、暗闇の中ではただの黒い鉄くずにしか見えない。親指で表面を拭うとつるりとした感触がした。

 長谷部が温め続けた想いが手の中にある。

 とても綺麗とは言えない欲望のかたまりだ。

 鉄くずをぎゅうと手のひらで包み込み俯くと、頰を熱い感触が滑り落ちていった。いちど溢れたそれは、もう止めようがなかった。

「く、ぅ」

 このこころは兵器にはいらないもの。許されないもの。

 刀である長谷部は彼へ傾いてしまうこころをなくしたい。でも、ここで暮らした日々と同義である幾重にも重ねられた思慕の記憶を忘れたくない。千々に乱れた思考を制御できない長谷部は、藤色の瞳からこぼれる水も止めることができない。

 なぜ、この身からは水が溢れる。

 止められない嗚咽の合間に、手の中のかたまりが震えた気がした。

握りしめ続けられぬるく熱を持ったそれをそっと伺えば、細くヒビが入っているのが見えた。

「ぇ」

 線は少しずつ広がり別れていく。儚く砕けていく欠片の崩壊を止めようと握りしめても、いびつに崩れていく感触は止まない。

「や、やだ」

 そんな。消えてしまう。嫌だ。なくしたくない。長谷部は、自分だけの大事な想いを、自分だけのこころを、なくしたくない。決して報われなくても。

 消えないで。

『────おおくりから』

「っ、ぃあぁぁぁああああっ!!」

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