In the small box
Gladiolus
「よう、からすの坊やは元気か」
いぶかしげに眉をよせた大倶利伽羅の顔を覗きこんで、ああお前は知らなかったか、鶴丸はひとりごちた。
「隠しごとの好きな長谷部さ」
頰についた返り血を無邪気に白い指でぬぐい、ぴょんぴょんと跳ねていく。相次ぐ戦闘の小休止に、隊員それぞれが警戒は怠らないものの息をつく。今日は耐久性が物を言う戦場で、太刀や大太刀にまざって出陣している大倶利伽羅は血ぶりをし刀をおさめると、少し先で振り返る白い刀に目を向けた。
「飲み物しか摂取していないが体調は問題ない。様子も表面上は変わらない」
「そういうことを訊いているんじゃないんだがな」
白と赤がせめぎ合う全身を難なく視界におさめられるくらい離れた先で、彼は問うた。
「きみは元気か?」
「……見ればわかるだろ」
芝居がかった仕草で白く細い首を振り、わかるわけないだろ、と鋭い声を発した。
「くまをこさえてるのはわかるけどな……ほどほどにしろよ」
頭の後ろを冷気が撫でた。煙に巻くような言葉と態度で大倶利伽羅を翻弄した挙句、核心をつく切先を突き立てる鮮やかな手並み。儚い笑みをひとつ残して、彼は次の獲物を見つけるべく駆けていった。
細く息を吐き出し、全てを知っているわけではないだろうが、何かを悟っているだろうなと思う。こんな状態は長く続けられない。箍が外れた。まさにそんな日々を過ごしている。
物が何かを食べることに嫌悪に近い躊躇を覚えていたのに、ひとくち味わってしまえば世界は反転し、当たり前に消費するようになり、ひいては美味しさという機微を拾うようになった。いちど長谷部の身体を味わってしまった大倶利伽羅は、誘われるままに貪ることをやめられないでいる。夜がくると打ち震える己の身体がいだくものは恐怖か期待か。大倶利伽羅は長谷部を、そして、己自身を見つめることから逃げまわっている。
夕暮れ色の瞳が導く闇の中だけでなく、陽の光の元にある彼の人形のような肢体にも欲を覚えるようになったことに危機感が募る。澄まし顔から連なる首筋に滲む汗、視線に気づいてふいと目を逸そらすことで浮かび上がるうなじの曲線、クリーム色したきめ細かい肌は、薄いカーテンごしの光を反射して輝いて見えた。
端正な刀だと知っていたけれど、こんなにも目を誘う花だとは知らなかった。尽きることなく溢れる不要な賛美に馬鹿らしいと頭を振り、大倶利伽羅も熱を発散するべく駆け出す。ごちゃごちゃと言葉を並べようと事実はひとつ。
大倶利伽羅は育てた花を食い荒らす、ただの獣だ。
それもひどく臆病な────。
こつん、こつん、と鉛が詰め込まれた頭をこづくような音がする。大きなうめき声がもれた。戦場から帰り昼餉をとったあと、仮眠をとっていた大倶利伽羅は身体を無理やり起こすと髪をかき乱した。人の気配のしない室内を見回し定位置である窓際に姿がないことに気づいた大倶利伽羅は、うわかけをはねのけて瞬時に立ちあがった。
ふらふらと玄関に向かおうとし、脛を卓にしたたかにぶつけうずくまる。なんたる無様、という言葉は苦悶の声でかき消された。
ひらり、眼前に紙切れが舞い落ちる。確認すればそこには『包丁に誘われたので出てくる 長谷部』と長谷部らしい背伸びしたように縦長の字で書かれていた。
大きくため息をつき座り込む。閉じこめたいかのように、長谷部の行動を制限しようと動く己にうなだれた。
こんこん。
情けない男の頭をこづく音が、またした。
ああ、そうだ。この音で起きたのだったか。
発信源である玄関をみやり、重い腰をあげた。
「ぷ、ひどい頭……ひどい顔」
扉を開ければ、湿った風とともに乱の桃色が流れ込んで面食らう。
「くりからのそんな顔、久しぶりに見た」
いや、久しぶりでもないか。君はあの子のことになると、すぐ困った顔していたね。
こんがらがった頭をゆるくかきまわすような声に眉根を寄せ「どうした」と問う。
「差し入れ! 乱ちゃんの特製カレーだよ、牛肉を奮発しました〜」
押し付けられた保存容器は、まだほんのりと温かかった。
「お昼は食べた?」
「……スープを」
不自由な口からもれる音はおぼつかない響きをしていて、情けなさが助長される。
「うん」
「不揃いな野菜がごろごろしていて」
「うん」
「帰ったら鍋にあったから」
「うん」
「たぶん、長谷部が作ったのだと思う」
「そう」
「あいつは何も言わなかったけれど」
台所に立つ背中、不器用な手つきで切っているのか肩に力が入り、しきりに揺れる。絹糸のような煤色に覆われた後頭部の丸みを想像する。
「……じゃあ、夕飯にね。元気になれるスパイスもたくさん! で激辛です。ま、無理に元気になる必要もないんだけど、君は君らしく」
「すまない」
「バーカ、謝ることじゃないでしょ」
下からにゅうと伸びた指が頰を容赦無くつねった。
「また、おかず交換しよ」
「……ああ」
出て行こうとする乱を思わず呼び止める。見下ろした先で小さく首をかしげた刀に問う。
「……俺は、長谷部の自由を、制限していたか?」
「は……それは傲慢な考え方だよ。みんなそんなに子供じゃないし、自分の力で勝ち取る刀でしょ。長谷部くんをバカにしてる。くりから、そんなに小さい男だった? ……よくよく自分のこころに聞いてみなよ」
桃色がなびいて視界から消え扉が閉ざされると、止まった空間に漂う香り、目を覚ませと頰を張る匂いが脳に回る。カレーを抱えたまま動けないでいる大倶利伽羅の耳にノック音が聞こえた。今度は重く鉄製の扉を確実に打つ音だった。形ばかりの呼び鈴はずっと壊れたままだ、ぼんやり思い出す。
「開けるよ〜」
返事を待たず無遠慮に開けた訪問者は、上がりかまちに佇む家主を見てひとつきりの目を瞬かせた。
「返事くらいしてよ」
「すまない」
さっきから謝ってばかりだ。重みのない言葉を垂れ流している。
「長谷部くんは今、包丁くんと後藤くんとお昼寝中だから遅くなるって伝えにね」
鼻を鳴らして、カレーの匂いがする、と燭台切は笑った。
「乱が」
「そっか」
うちにもくるかな。目を細める何気ない仕草に、よくできた男だと痛感する。
長谷部が経過観察の身なので、包丁の後見も燭台切が兼任している。小さな刀と大きな刀の寝顔を思い浮かべると、雪鳴りのように胸が鳴いた。
通り抜ける風は彼らを慰めているだろうか。
そのまま去るかと思った黒いピカピカの革靴は変わらずにそこにあり、静かに佇んでいる。燭台切は自分の口元を指で覆い考え込んでいた。俯かせていた視線をこちらに戻し、いつもより近い距離にある金色の光彩をくっきりとさせた。
「……ここにくる前に屋上に行ったんだ。最近は忙しかったから、今日みたいに時間に余裕があるのなんて久しぶりだろ? すっかり失念していたけど、プランターはどうなっているだろうか、と思って…」
黙って聞き入る大倶利伽羅から彼は目を逸らさなかった。
「屋上はすごいありさまになっていてさ。植物の生命力ってすごいね。僕はすっかり枯れてしまっている想像をしていたんだけど、それは一部で、緑が四方八方に伸びていたよ」
君の頭みたいに。どこから来たのか雑草もたくさん。
笑みをたっぷりと含んだ落ち窪んだ目を伏せ、大きく息を吸った。
「……これは本当は秘密で、言わないでいようと思っていたんだけど」
言い淀んだ燭台切は、迷いを振り切るように瞼を上げた。
「……長谷部くんは小さな頃からずっとひとつの植物を育てていたんだ。それが……その鉢だけは手入れされて、た」
なんどもつまづきながら話す燭台切は、自身の発した音に半ば呆然とするような顔に変化していく。言葉が頭に染み込んだ大倶利伽羅の胸で、どくり、心臓が拍動した。
「長谷部くんは長い長い冬の間、それを大切に見守り育てていたよ」
ねぇ、彼は本当に。
「これ、冷蔵庫に入れておいてくれ!」
保存容器を燭台切に押し付けると裸足のまま駆け出した。
長谷部は、あの宝石は────。
カレーを抱え、しばし固まっていた燭台切が、ふっと息を吐き部屋に上がりこむと、背後からコンコンと軽い音がした。
「みっちゃん、ここにいた」
乱は容器に目を止め、みっちゃんのは部屋に置いておいたから、と続けた。
「夕飯が楽しみだよ」
「くりからは?」
「僕と長谷部くんだけの秘密を教えてあげたら、……走って行ったよ」
「ふーん、勿体無いことしたね」
腕を組み悪戯っぽく笑う乱に燭台切は微笑む。
「いいんだ。ふたりだけの秘密はもっと持っているから。……からちゃんは、優しすぎる? いや、責任感が強すぎるのかな?」
「本当にそう思う?」
乱は大倶利伽羅がただの良いひとではないと知っている。
「責任感は確かにあると思うけど……ボクの知る戦場の彼はこわいくらい貪欲で優しいって印象はないかな。ボクらの世代は、いちど折れかけたことがあるんだ。分断されて、ちびばっかりで固まっちゃってね。でも、彼は諦めなかったよ。生きることを。しんどいのにさ。……その時、炎を見たんだ。何にも執着がないように見えて、結構苛烈で生き汚いんだなって思った」
悪い意味じゃないよ、と呟く乱に燭台切は頷いた。
「でさ、ここに帰ってきたら、またいつものまんまなの。切り替えがうまいのか、隠しているのか、わからないけど……彼は渇望するものを絶対に手に入れるような我が強い男だと思うな」
実は頑固なんだよ。
冷蔵庫をしめ振り返ると燭台切は訊ねた。
「ふふ、からちゃんのこと嫌いなの?」
「そう聞こえた? 違うよ。一緒に成長した大事な仲間だしライバルだし……ただ、ちょっと、こにくらしいだけ」
甘いのに苦いカラメルソースみたいに複雑なんだ。
「少し、わかる」
「みっちゃんは……わかってしまうから、」
「僕も長谷部くん見てると、そんな気持ちになる」
並んで廊下に出ると強い日差しがふたりの目を眩ませた。乱が囁く。
「……まぶしいね」
「うん」
「さびしいね」
「うん」
「でもね、単純な刀でなくなってしまったこと、嫌ではないんだ」
「……うん」
昼寝から起きたらあの子たちにたくさん水を飲ませなきゃ。思い浮かべながら燭台切は歩き出した。貴重な休みをありふれた営みで過ごすべく。
植物が奔放に躍っている。重い扉を開けた先で、自在に伸び広がり飛沫を描く緑に目を瞬かせてから、大倶利伽羅は分け入り奥に進んだ。少しの間、手を入れないだけで彼らはコンクリートをのみこむ勢いで波を広げていくものらしい。こめかみを汗が伝い、皮膚がひりつく。足を取ろうと緑の手が絡みつく。
何かが隠されていそうなところを探し、貯水槽をまわりこむと、そこに、桃色の花が。
影になる時間とひなたになる時間の配分が絶妙に計算された位置で、すっと背を伸ばしした茎に沿って縦に連なり咲き誇る花。大倶利伽羅は花の名前を知らない。ただ、随分と潔い線を描く花だと思った。
眼裏に、小さな手が花を慈しむさまが浮かび、いつしかそれは大きな手に変わった。変わらず見つめ続ける青紫色の瞳に花の影が滲む。
喉元を何かがせり上がった。
────長谷部。
縋りつきたくなるような柔らかい光、こんなにも美しいと感じる存在を他に知らない。
封をしていたものを自覚してしまうと、溢れ出ようとする奔流を抑え込むことは難しい。彼が浮かべたいくつもの表情が現れては消えていく。思い返せばふとした瞬間、泣きそうにつやりとした瞳で己を見ていた。笑んだ唇は嘘つきだったのだ。
いたいけな彼を抱きしめたい。この腕でくるんで、皮膚を食み、瞳を舐めたい。強く強く閉じこめたい。
大倶利伽羅は他人におもねるような自分の弱さを認めたくなかった。怒りとはちがう、胸の内を暴れ回りながらひとところに飛んで行こうとする激情なんて知らなかった。
震える手を握りしめる。
愛している。
大倶利伽羅は、へし切長谷部を、愛しているのだ。
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