In the small box
Waltz of the Bugs
今でも鮮明に思い出せる。
始まったばかりの本丸で、赤く染められた爪を持つ刀が懸命に足掻く横顔を。見上げていた頃はわからなかったが、大倶利伽羅よりも細く若い身体を持つ彼は、ずっとこの本丸を支え続けてきた。彼は脆い一面もあったけれど、芯の部分が冷静で判断力に優れ、弱さを知っているからこそ強い。最後まで生に縋り付くことを教わった。
大倶利伽羅を育てた加州が目の前で項垂れている。
ごめん、守れなかった。悲愴な声をこぼしながら。
会議室に十五振りの刀を集めた加州は毅然とした顔で話し始めた。
「ここは解体されることになった」
誰もがいつかは来るかもしれないと思っていただろうが、いざ通知がなされれば、なぜいま突然にという思いを抱かざるをえない。そんなことは起きないでほしいと願うこころが、事態を楽観視させていたのだ。
「上の体制が変わって、この実験は有用ではないとみなされた。だから……解体だって」
震えながら上がった口角は、とても笑っているとは言えなかった。
「俺たちにできるのは、刀解──この身を鉄に戻す──か、一般的な本丸に移籍するかを、選択することだけ」
小さな刀の肩がふるりと揺れた。
「移籍する場合、俺たちの器は霊力を取り込む回路が他とは違って弄られてるから、書き換えを受けることになる」
いちど俯いた加州は、それでも顔を上げた。
「そうすると……今までの記憶はなくなる」
ひゅっと息を飲んだのは秋田だろうか。
「つらい選択だけど、お前たちには決めて欲しい。己の意思で。時間は残り少ない……明日までに」
へへ、もっと時間をもぎ取れたら良かったんだけど。力なく笑った加州はついにぴんと伸びていた背を丸めた。
誰も何も言えなかった。いくら嫌だと喚いたところで決定は覆らないし、終わりをもたらす観察者がこの場にいる刀を生み出した始まりであることも事実なのだ。横目に伺った長谷部は膝の上に包丁をのせたまま微動だにしていなかった。表面上は凪いでいるようにすら見える。
ひとつ鼻をすすった加州が、背筋を伸ばした。
「……お願いがある。俺が言うことじゃないってわかってる。一方的なお願いだけど……どうかっ……生きることを選択して欲しい! 記憶がなくなろうと、俺たちが過ごした時間をなかったことにしたくない! 確かに生きている! この身体で生きてきたんだ……最後まで……その強さを世界に刻みつけて欲しい」
息を吐いた宗三が、こもる空気を入れ替えるべく窓を開け、加州の手にティッシュを箱ごと押し付けた。
「いくら小さな存在だとしても、なかったことにしたくないんだ……!」
悲鳴のような懇願が胸を刺す。静かな室内にいたいけな嗚咽だけがぽつり、ぽつりと転がっていた。彼の信念が痛いほど大倶利伽羅にはわかる。
『──いまさら簡単に所詮は物だからなんて思えないんだよ。強くあれ。この世界にお前を刻みつけろ。この "生" には意味があるんだって』
いくども彼が呟いた言葉は、大倶利伽羅の芯の部分を確かに強くした。
「おう、めいっぱい己の選択を考えようぜ」
にっかりと笑った鶴丸がいち早く立ち上がって加州の肩を叩き、「お疲れ、ありがとよ」と囁いた。
ほれ、チビたち。せっかくの休日だ。まずは思いっきり遊んで楽しもうぜ。それから悩もう。おいで。
涙を浮かべた小さな刀たち、博多、包丁、後藤、不動を引き連れて、燦々と陽が照らす外に飛び出していく。保護者たちに考える時間をくれたのかもしれない。彼は、決して、小さな刀と遊ぶのが得意な刀ではない。
「鶴さん、水分補給忘れずにね」
まるで、ただの休日のように燭台切が声をかけた。
大きな力は簡単に小さな存在を踏み潰す。
けれど、まだ終わりではないのだ。まだ死んでいない。
彼は、長谷部は、どうするのだろう。
閉ざされた箱庭でも風だけはやまない。自室に戻り、揺れるカーテンを目に映した大倶利伽羅はそんなことを思った。
定位置である窓際にいくかと思えた長谷部は、大倶利伽羅に向かって、ホットココアを作って欲しい、と言った。いつになく静かな声だった。
丁寧にココアを入れた大倶利伽羅は、卓にそっと置き向かいに座った。
胸には確固たる決意がある。湧き上がるものを認めたことによって生まれた想い。やっと形をなしたものをぶつけてもいいだろうか。果たして己は彼の選択を受け止めることができるだろうか。
甘い匂いが鼻をくすぐり、好みでもないものを飲みたくなって唾を飲み込んだ。
ここで向き合わなければ、彼を────。
「ひとつ、」
ひとくちココアを含んだ長谷部は、目元を緩ませてから、落ち着いた声で話し出した。
「謝りたいことがある」
いや、ひとつどころではないな。長谷部はわずかに笑みすら浮かべた。久しぶりの緩んだ表情は、自嘲するようなもの憂い色も帯びていた。
「嘘を、ついていた」
ころりと言葉が転がりだすと端正な唇は震え、いびつに歪んでいった。
「……記憶をなくしてなんていないんだ」
「忘れたいと思った。あなたへの想いを。でも、忘れられなかった。苦しくて、忘れたふりをすれば本当になるかもしれないと思った。……無理だった。だって、俺は迷惑になるのがわかっていても忘れたくなかったんだ」
あなたを好きですまない。俺は刀解を選択する。
ずたずたに傷ついた長谷部の言葉に自分を殴りたくなった。奥歯が軋む。
「この想いを抱えたまま消える、弱い俺を許して欲しい」
重ねて謝罪を紡ごうとする口を覆い、言葉を操るのには長けていない口をまごつかせ、ただ叫ぶ。
「ちがう!」
激情のままに溢れていく。ココアがこぼれたのか、甘い匂いが濃くなった。
露を纏わせた睫毛が上下するのを見つめながら、詰まる喉から必死で声を出した。
「謝るのは俺だ」
「おまえの想いを無視した。自分に向き合うのがこわかったんだ」
「俺は……臆病で、バカで」
「……今もおまえの口を力で封じているようなずるいやつで」
「足も遅くて……鈍感で」
手のひらをくすぐるように戦慄く唇から手を離す。
「今更なのはわかっている。でも……好きなんだ」
膝の上で震える拳を包み込み、自由に言葉を吐き出す。
「……へし切長谷部を愛している」
「………うそだ」
いつまでも無視していた大倶利伽羅の言葉を信じられないのも無理はない。信じてもらえるようになるまで、いや、信じてもらえなくとも大倶利伽羅は見つめ続け、追いかけ続ける。そう決めた。
「本当だ」
「うそつき、優しいから、夢を見せようと」
「信じろ」
「うそだ、今更な上に陳腐」
「信じるまで何度でも言う」
「絶対に信じない」
ひたすらに見つめ続ける先の紫は、割れてしまいそうに張り詰め、潤んでいる。
「……うそ、……信じないなんてうそ」
いつだってあなたの言葉に嘘はなかった。本当は信じたいんだ。ぽつり、呟いた長谷部は、目を伏せた。
「でも、もう……」
悲しげに揺れる瞳を舐めて、この唇でついばみ、慰めたい。終わりが間近に迫っているとしても。
長谷部を刀解なんてさせないのはもちろんだが、生きることを選択しても積み重ねた記憶はなくなり、このこころは終わりを告げる。そして、どこに配属されるかもわからないだろう。生きても死んでも離れ離れ、こころも身体も離れ離れにされてしまう。
それでも────。
「生きて、待っていて欲しい。必ず見つけて、迎えにいく」
これだけは揺るがない。はくりと息を飲んだ長谷部は「夢物語を」と力なく笑う。
「記憶がないのにか?」
「それでも」
自分でも狂気の沙汰だと思う。根拠も勝算もない言葉。
「お願いだ」
「ひどいひと」
ああ、ひどい男だ。自分でも知らなかった。
くすりと柔らかな笑みをこぼした長谷部は囁いた。
「待つよ。覚えていなくとも」
現実味を伴わない希望だけを詰め込んだ言葉は、ふわふわとなんの重みもない。けれど、大倶利伽羅の決意は本気で、長谷部の想いも真実で、この胸で輝いている。
窓の外から小さきものの無邪気な笑い声がする。
今度こそ雨がそぼ降る夕暮れを舌で慰め、嘘ばかりつかせてしまった唇に口付けをした。
「誓う」
幼い表情で目を瞠った長谷部を力の限り抱きしめる。
「愛している」
長谷部の魂を。
「……どんかん」
自分を取り繕うことに長けた彼がいたたまれなくなるぐらい何度でも言おう。
大倶利伽羅の魂の渇望を。
用済みになった赤いピアスは窓から投げた。
遊びからうっすら日焼けして帰ってきた包丁を、長谷部は何度も抱きしめた。
ふたりの口喧嘩を背景に、のんびりと夕餉を作った。
包丁とのじゃんけんに勝ち、長谷部と一緒に入浴する権利を得た。
加州を訪ね、少し話をした。
あっというまに時間は過ぎていく。
長谷部の隣に身を横たえ、今夜は眠れるだろうかと思う。開け放たれた窓から桜の花びらが風に乗って入り込み、月の光でできた道をころころと転がっていった。
夕刻に季節は春へと変わった。桜が爆発するように満開になり、包丁は素直に綺麗だと笑ったが、はなむけのつもりなら皮肉だなと大倶利伽羅は苦笑いした。観察者の振る舞いを理不尽だと思えど、完全に恨む気持ちにはなれない。ただ、ずれているなと思う。きっと使われる刀とは見ているものが違うのだ。
近くまで転がってきた花弁をつまみ、横に広がる煤色の髪に乗せた。天井を見上げていた濃い紫がこちらをみやり、ゆるりと瞬きした。
「……綺麗だ」
祈るように胸の上で組まれた長い指をさらい、己の骨ばった指を絡めた。手のひらを指の腹でくすぐり、硬い皮膚を余すことなく撫でる。
「何回めだ……もう、信じるから」
目尻に朱をはいた長谷部はぎゅっと目をつぶってからそんなことを言うが、彼がくれたものに比べれば、まだまだ足りないと思う。音なく開閉した薄い唇からもれたかすれた声が大倶利伽羅に届く。
「俺も…………好きだ」
そうか、俺もいくらでも言っていいんだな。
瞳をとろめかしはにかんだように笑うものだから、たまらない、と大倶利伽羅は長谷部に手を伸ばす。
「ぐっ」
わき腹に突然入った重い打撃に呻く。ばたばたと小さな脚が暴れている。
ふたりの間で寝ていた包丁が挟まれ寝苦しくなったのか、唸りながら身体を捻り見事な蹴りを決めたようだ。
「ぐ、ぉれはぁ…ま、けなぃ、ずぉぉっ〜……がぅ」
「ぷっ」
潜めた声で笑う長谷部の方ではなく、大倶利伽羅の方を狙って、二、三度足を振り抜くと、彼はまた深い眠りに落ちたようだった。
「わざとじゃないのか……」
「いつも寝相が悪いんだ」
「足癖悪いのも長谷部に似たのか?」
「俺が足癖悪いのは、おまえのせいだぞ」
屈託無く笑う長谷部は、ぱたぱたと布団の上を泳いだ小さな手が長谷部の浴衣を掴むと、微笑んだ口元はそのままに悲しそうな目をした。
下がってしまった眉を辿り、囁く。
「嘘だと思っているな」
約束は気休めで優しい嘘だと。何かを言おうとして口をつぐんだ長谷部の唇をなぞり、言い募る。
「おまえが思っているより、俺は執念深い男だ」
ふっと指に湿った息が触れた。
「くふふ、そうか……そうだな。まだまだ知らないところがあるんだな」
もっと知りたかったなぁ。口の中で呟かれた言葉を拭うように触れるだけの口付けをして、大倶利伽羅の宝石を見つめた。
「また会える」
「うん……うん」
くしゃり、崩れた顔を包み込み、またひとつ重ねた。
この箱で迎える最後の夜に、舞い踊りしずしずと桜は降り積もっていった。朝一番に目覚めた包丁は、歓声をあげることになる。手を繋ぎ眠る長谷部と大倶利伽羅、ふたりを包む恥じらうような桃色が滲んだ白に。
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