In the small box
Farewell
初めて足を踏み入れた観察者の部屋はひどく雑然としていて、どことなく住んでいた建物を思い出させた。ただそこに在り形ある限り流転する物が、郷愁を覚えることになるとは思ってもみなかった。作り出した人間だって想定していなかっただろう。
もう、あそこには戻れない。
壁の全面にある棚からあふれ出した紙の束は床に積み重ねられ、不潔ではないが物が多すぎる。思わずきょろきょろと見回してしまった大倶利伽羅に、観察者は平坦な声で話しかけた。
「そこらにあるのは、大昔の失敗。君らのデータは全部、ちゃんと電子化されているよ。それらも一応電子化しなくちゃいけないんだけどね」
別に彼の能力を、実験の質を、危惧したわけではないのだが、やはりこの人間はずれている。柔和な四十代ぐらいの男性。刀から見た普通の定義も難しいが、いたって "普通” に見える。あえて特徴をいうなら、あまり印象に残らない顔をしていて、目を離した途端、煙のように顔の情報が四散する。
男は机の前に据え付けられた、ひとつだけ場違いで豪奢な肘掛け椅子をこちらにすすめると、自身の座る椅子を軋ませ、前置きなく要件を告げた。
「君はどうする? 移籍か刀解か。それぞれを選んだ場合のメリットとデメリットは確認の上サインしたよね。重要事項説明っていうのかな。一種の契約だからそこらへんはちゃんとしないといけないんだ」
問いに返す言葉はもう決まっている。
「俺はどちらも選ばない」
一瞬動きを止めた男はこめかみを指で叩きながら、大倶利伽羅をまじまじと見た。
「……それは新しい。そうくるとは思わなかったな。残念ながらあげていない選択肢を選ぶことはできない。でも、いいよ、君はどんな道を行きたいの? 言うだけ言ってごらん」
目の前に浮かぶスクリーンを指で辿り、文字の羅列を目でひと撫でした。
「えっと、そう、大倶利伽羅。馴れ合いを好まない個体だっけ」
「まず、刀解はありえない。俺は生きる。その上で書き換えを拒否する」
「……そうしたい気持ちは推察できるけど、なぜ?」
「この身は全て、ある刀に捧げると約束した。俺は俺のままでいなければいけない」
ふうと大きなため息をついた男は、「物が物に己を譲渡するか……」とひとりごちる。こちらを探るような瞳から目を逸らさない。いくらでも己を見ればいい。大倶利伽羅が忘れなければ、また縁を繋ぐ可能性はゼロではない。
「君は随分と強情な刀のようだ。そんな都合のいいことができるとでも?……まぁいい、それができたと仮定しよう。その場合、君は大きなエネルギー補給の経路を得られないことになる。霊力の濃度が高いあの水は高いし、実験が破棄された以上もう作られなくなるから水には頼れない。低濃度の霊力しか帯びていない口にするもの、例えば本丸で作られる野菜とかだね。そこから細々とエネルギーを摂取し暮らす。それでは、激しい戦場に出て戦うことなどできないだろう。消費が激しいから傷などおいそれと負うことはできない。……刀は戦うことが喜びではないのか? 戦えない刀に価値はあるのか? あいにく私には美術品の価値などわからない。数値化され明確にわかる強度にしか存在価値を見いだせない」
君たちは戦うためにあるのだろう?
淡々と事実を述べる男の言葉は真理だ。戦えないなまくらなど必要ない。そんなことは重々知っている。鋼の本能はいつだって戦いたいと叫んでいて、当たり前すぎて頭に浮かばないぐらいだ。
「確かに俺には戦うことが一番大事だ。強くあることが己の存在価値だ。だが、それでも」
限りある器での生をあの刀に捧げると決めた。抗いがたい感情とともに。
「答えになってない。うーん、例えばその道をいくとする。君は戦えない刀としてずっと在ることになる。そして、相手は、まぁ誰だかは訊かないけれど、どっちでもいいし、消えるか君を忘れるかしているわけだ。忘れる選択をしていた場合、さらにどこの本丸に行ったのかわからないということもある。私は親切に教えたりなんてしないよ。また、戦えない君を所持したがる本丸があるとも思えない。会えない。会えたとしても目的は果たせない」
「説得しているつもりか」
「説得? 私が君を説得だって? なんの利もないのに?」
素直な疑問を浮かべた顔で大倶利伽羅の瞳を覗き込むと、男は目を伏せた。
「ただただ納得がいかない。勝算のない選択をする意味なんてあるかい?」
「ひたすらに追いかけなければと思った……矜持だ」
「情、ね。はぁ、やめてほしいな、そういうの……私は君ら実験対象に肩入れするつもりはない。気の毒とも思わない、所詮は物だし、私が見ているのはもっと大多数の人間の利益だからね。君らに同情していたら……進歩はない」
「そうだろうな。人はそういうものだ。だが、俺は "それでも" と言う。強制的に俺を刀解にでも持っていくか? それはできないんだろ?」
「まあね。一応君たちにも権利はある。刀解に関する条例は厳しい。………はぁ〜、進まない議論は嫌いだ」
大倶利伽羅はひどく頑固な個体だと訂正する必要がある、と男はぼやく。
「君以外の刀は移籍を選択したよ」
「そうか。俺の意志は変わらない。どこまでもあんたの時間を奪おう」
わざと背もたれに寄りかかり足を尊大に組む。
「……本当に頑固だね」
「あんたに似たんじゃないか?」
瞠目した男は、そんなわけないだろう、と弱々しく呟いた。
「……時間は、有限なんだ。こんなことに費やすほど、安くは、」
唸りながら説得材料でも探しているのか、次々に電子画面を展開していく。はたと止まると、突如、何かを打ち込み始めた。長い間、小刻みに指を動かし続けた男は深い深いため息をついた。
「君たちは実験対象だ。それ以上でも以下でもない。違う道をいくなら、そこに意味を付さなければいけない。だから、……君には新しい実験の被験体になってもらう。極めて小規模で長期のデータ収集が必要となるものだから、とうてい予算はおりない。生活する上で制約も多いだろう。そして、君はもう満足に戦うこともできなくなるだろう。消耗が激しいから大きな怪我をすることができないということだ」
それでもやるかい?
「やらせてほしい。頭を下げて欲しければそうするが?」
「ふっ、そんな不遜な顔で言われてもね。私は暑苦しいのは嫌いだ。それにしても君は狡猾な刀だな。無口で御し易いと思いきや……。強情で扱いづらい刀の方が戦闘能力が高いのだからうまくいかないものだ」
人間は根本から勘違いしている。刀には、芯を貫く矜持が、熱が伝わる肌があることを失念しているようだ。人の苛烈な想いを映す鏡である付喪が、御し易いわけがあるはずなかろう。意のままになる兵器として使うなら、最初の選択から間違っていることは言わないでおく。彼らは悩むのが仕事だ。
男は、はぁと大きくため息をついてから立ち上がり、大倶利伽羅の前に大きなスクリーンを展開した。
「では、今から君は生徒だ! 情報を頭に叩き込みたまえ。霊力を吸収するレセプターの役割と機能、君たちと一般的な刀との違いから説明しよう。自分の身体がどんなものか知ることだ。長い付き合いになる」
「長くなるか?」
黒曜石のような光を放つ黒目がちな目を見つめ、口の端をあげて訊ねた。男もわずかに口元を緩め答える。
「ああ、とてもね。……まず君たちは口に───────」
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