海を抱く蛹
トタントタン。こぎみよく身体に響いていくパルス。信号機など滅多にお目にかかれない単調な田舎道を進むバスの車内は、柔らかい光が差し込んでじんわりと暖かい。眩しいのか眉を顰めて眠る、己の肩を勝手に借りている滑らかな褐色の肌を持つ男。何もかもが違和感を覚えさせる振る舞いをする男の体温は、不思議なくらいすうと肌に馴染む。少しうねる髪がくすぐったくて、跳ね除ければいいのに、ただ静かに息をして枕に甘んじているのはどうしてだろうか。通常なら眠気を誘う揺れも国重には効かない。男を挟んだ隣に座る眼帯をした男も窓にもたれ眠り込んでいるというのに。
春、先に旅立つものを見送った帰り道、ふたりの寝息を聞きながらひとり外を眺めていた。
この時から全ては綻び始めていたのかもしれない。
陽炎のように揺らいで消えて消費されていく日々を、何とか身につく形にして捕まえようと繰り返すうちに季節は巡っていく。からっぽの部屋で息を殺してじっと過ぎるのを待っていた時より、よっぽど充実しているように思う。半ば強制的に行われる〝お隣さん〟の果樹園の手伝いで、意識しなくとも移り変わりを知ることになるのにも慣れた。宝石のような果実を取り扱う手つきがいつのまにかこなれたように、反復する動きはこの身体に確かに定着していくのだ。暑い季節がしっかりと姿を現している。肌を焼き、目を眩ませ、喉を乾かす、痛みと悦びが入り交じる幻惑的な夏が。
タナカさんが火傷の痕が見られる目尻に皺を寄せて快活に笑い、もういいよありがとう、と言うのが聞こえた。ぱちりと瞬きとともにさまよう思考から戻ってきた国重は、またいつものようにこぼれんばかりのお裾分けを詰め込んだ自転車に跨って、隣なのに遠いホームまで、やけに重たいペダルを踏みしめた。この焼け付く日差しにタイヤが溶けるんじゃないか、といらぬ心配までしてしまう。
通称〝ホーム〟と呼ばれる国重が現在、身を寄せている場所は、日本の各地にある政府の公的な傭兵養成所のひとつだ。傭兵とは言っているが名ばかりで、その身に選択の自由はなく、卒業すればそのまま政府軍所属の兵士となるのが通例だ。軍に配属される時は、刀の付喪神をこの身に降ろす儀を行う。いわば、付喪神のデータをインストールし、人ならざる力を得ることで人であって人ではないものに成り、刀を振るい戦う駒になるのだ。矢面で戦う危険の多い仕事など誰もしたくないことであるから、施設にいるのは様々な理由で親に捨てられたか、給金と生活保障が目的で他に道のないものが契約で囲われている。もの好きでなるものもいるにはいるらしいがごく一部だ。孤立した島国では珍しい混血のものが多いゆえに、鮮やかな色を持つ若者が多数で、かくいう国重も色素の薄い灰かぶり色に青紫の瞳を持つ。
戦争はいまや国や民族間の単純な領土争いではなく、それぞれが勝手に思想をがなりたて、絵に描いた理想郷を作りだそうというものになった。そう、全ては勝手な自己主張の結果だ。中でも日本は島国であることと排他的な国民性が影響したか、国家を昔ながらの形で保っている方だ。いいことか悪いことかは知らないが。
かつては繁盛していたという寂れた温泉街に建つ、政府の保養所だったというホームの外見は煤けて旧時代の遺物といった印象を残す。都市とは遠く置いていかれた土地で、静かにけれど確実に朽ちていくのを待っているようで、とても可能性にあふれた若者を収容するには適していない。中はぼろがきつつも清潔に保たれているのが幸いだ。シンプル過ぎて無機質だという奴もいるが、健康で文化的な最低限度の生活が営めているのだから充分だろう。環境なんて移ろう不確かなものに影響されるのは馬鹿らしいと鼻を鳴らす。確かなものは自分だけだ。寄る辺無いものであろうとも、ここに存在するということだけは奪われたくない。国重はその一心で生きてきた。
共用の自転車を雑に止めてから、いっぱいになっている前カゴと後ろにくくられた箱にため息をつく。ふわりと甘酸っぱい匂いがした。猫のようにふらりと現れた男が音もなく背後に立ったのを気配で悟る。
「大倶利伽羅、近い。声くらいかけろ」
「手伝う」
にゅうと褐色の腕が視界に入り、少し前の自分なら気配を捉えることもできずに驚かされていたことだろうと嘆息する。
「タイミングがいいな」
「あんたが出て行った時間がわかれば、だいたい予測がつく」
さっさとぎっちり桃でうめられた重たい箱を持って行ってしまうので、こちらはピーマンと枝つきの枝豆が詰められた袋を抱えて追いかける。青くみずみずしい香りが鼻をくすぐって、どことなく身の引き締まる苦味が口内に再現された。昔はこの匂いが生々しくて嫌いだったのに、人は慣れる。慣れてしまう。ふと足が止まった。そういえば、男の気配をわかるようになったのはいつからだろうか。
いつまでも立ちすくんでいてしまいそうな足を地面から引き剥がし向かった先、自分たちに割り当てられた部屋に戻れば、狭いが必要な機能が備わった台所で、医療用の眼帯をし、その上を漆黒の髪で厳重に覆った大きな男──光忠──と話しながら箱を置く大倶利伽羅が目に入る。僅かに柔らかくなった雰囲気、僕たちは兄弟みたいなものなんだ、出会った頃に光忠がこぼした言葉どおりふたりは仲がいい。
国重が施設に入学し四人部屋に放り込まれた時、彼らともうひとり春先に卒業してしまった白い男—国永—がいた。国永は真っ白な髪と肌を持ち、その細い肢体と儚げな容姿を裏切って騒々しく、また軽薄かと思えばしっかりとした強さを持つ先導者に向いた男だった。彼がいなくなってから少しこの部屋は静かになり、いやでも国重の目に入り耳につくものが多くなったように思う。兄弟のようなふたりのやり取りが気になるのも、視界の空白を埋めるためだろう。実際には血のつながりも戸籍のつながりもないが、彼らはホームに来る前に養護施設にいた時から一緒で兄弟のように育ってきたらしい。あまり自分のことを多く語らない彼らではなく国永から聞いた来歴、その事実を知らなくともお互いを大事に思っていることははたから見ていてわかった。
暑さの余韻でぼうっとダイニングの椅子に座り、ねぎらいの言葉とともに差し出された麦茶を機械的に口に含んでいた国重は、ふわりと漂う石鹸の香りで目を覚ました。シャワーを浴びてきたのであろう大倶利伽羅が冷蔵庫に手をかけたところ、いまだしずくの垂れる髪をバスタオルに包まれ光忠の馬鹿力で揺らされている。手のかかる子猫のようなさまに唇が笑みの形に歪むが、追いかけるように奥から苦いものがこみ上げた。以前、同じように指摘してかぶせたタオルからするりと抜け出された感触がよみがえる。手に刻みつけられた明確な拒絶に怯み、臆病な国重は自分から近づくことをやめた。
なのに、なぜだか目で追ってしまうことはやめられない。同室なのも、不用意に近づいてくるのも、そして、何よりもあいつの存在が鮮やかすぎるのがいけない。こんな埒もないことを気にするなんて、長い夏期休暇のせいで実習も講習もなく時間ばかりが有り余っているからだ。迷っている時間が惜しい。一拍目を閉じて、国重は自主練に向かうために重たい腰を上げた。
「なんで付いてくる。シャワーを浴びたばかりじゃないのか?」
トレーニング室の扉を閉めようとしたところで、するりと身体を滑り込ませてきた大倶利伽羅はなぜここにいるのだろうか。
「あんたの動きを見たい」
どう反応したらよいのかわからない国重の目を見つめて、男は重ねる。
「……見たいんだ」
こちらの胸の内まで見透かされてしまいそうな視線に怯む。
大倶利伽羅は最初、国重に対して、それは誰に対してもだったが、興味無いとばかりの態度だった。変わった色彩に向けられる不躾な視線に慣れた国重には、男の何ものにも動かされない姿勢にちろりと羨望の視線を送ることはあっても、視線を向けられない方がちょうど良かった。けれど、いつからか大倶利伽羅は真っ直ぐに国重を見るようになった。その感触は恐怖と少しの喜びをもたらした。微かに喜びがなかったとは言えない。男の真っ直ぐな視線はちらちらとこちらを見るくせに国重が視線を向ければ逸らされる、たわいないけれど俺の胸に引っかいたような傷を残す不愉快な視線とは違う。今も真剣に嘘を許さない見定める目が国重を見ている。見ないでくれ、という泣き言は唾と一緒に飲み込んだ。
「好きにしろ」
苦し紛れにそう答えることしかできなかった。
ふつりと浮上してしまった意識に眉をしかめる。寝苦しさを訴える身体が目覚めてしまえば、べたつく汗が不快で再度眠りに落ちることも容易ではない。今日は涼しいからと窓を開け放ち空調を止めたことが良くなかったようだ。空調機に頼りすぎるのは良くない、という光忠の言い分に流されるんじゃなかった。頭を枕に擦りつけ、意識がはっきりしてくるとヂィヂィと鳴く蚯蚓の声なき声が耳についてしょうがない。最初はこの音がなんなのかもわからなかった。
教えてくれたのは大倶利伽羅だ。
何を考えていてもちらつく男の影に苛立ちが募る。無駄に身体を転がしても勝手な己の頭を罵っても慰めにはならない。厳しい夏の日々にじわじわと蓄積するように太陽に焼かれた肌が火照っているような気すらする。深いため息をひとつ吐いて、水でも飲むかと身体を起こした。二段ベッドから降りたところで、気持ちの良い風が吹き込み慰めるように肌をなでる。湿った夜の匂い、そして、ひどく目の前を眩ませる艶やかな汗の匂いがした。
この香りは知っている。二段ベッドの下で身じろぎもせず眠っている大倶利伽羅の匂いだ。男がすっと国重に近づく度にさわりと鼻腔をくすぐり、覚えたくなくとも覚えてしまった。どことなく────懐かしい。郷愁などとは無縁の己に何かを呼び起こさせる香り。
ふらり誘われ、慣れた足つきで梯子を降り、下段のベッドを覗き込む。目を閉じていると鋭い目つきに付随する険しい雰囲気は消えて、穏やかな寝顔が愛らしい。なだらかに下がる眉、艶やかな睫毛、薄く開いた厚めの唇、夜目が効かない光忠のために付けられた豆電球の灯りでもはっきり見える稜線をたどって、蜜を湛えた瞳に会えないのは残念だなと思う。いつもは大倶利伽羅の方が観察するように国重を見るが、構図が逆転してもなお動揺するのは己だ。ただ存分に眺めて呼吸音を聴き、生きている肉体を感じる。
肌が弱く暑くなると痒みで眠りが浅くなる国重が、こうやって寝顔を見つめるのは初めてではない。最初はほんの偶然で、季節が夏への階段を登り始めたある夜、強い痒みに肘の内側を搔きむしりながら寝返りを打っていた国重の鼻をある匂いがくすぐった。それは苛々としていた己に水が染み込むように落ち着きを取り戻させ、次いで、再度ぷつりぷつりと焦燥を生みださせた。揺れ動く感情にどうにもならなくなって、水浴びでもしようと梯子を降りた国重は、強く存在を意識させる匂いが無視できず立ち止まった。すぐそばに在る大倶利伽羅の寝顔。こちら側を向き、少し身体を縮めて眠るさまを息を殺して見つめた。大倶利伽羅の匂いだったのか。穏やかな寝顔に毒気を抜かれて落ち着き始めた燻るものは、目が離せないでいるうちにまた騒ぎ出した。まるでこの胸の中に寄せては返す波を孕んだ海があるようだと思った。
それから国重はまれに訪れる眠れない夜は、ただ寝顔を眺めるようになった。毎回これが最後と思いながら、胸の内がざざぁざざぁと揺れ動くままに、へたり込んでベッドの枠に顎を預け身じろぎもせず眺め続けた。欠伸がひとつ出たら布団に戻るタイミング。ひたすら頭をからっぽにして眠りにつく。休みに入ってからというもの、肉体が酷使されていないからか目が覚める頻度が多くなっていた。
ざざぁん、ざぷん。
海が荒れている。こくりと唾を飲み込んで波の力に押されるように、指を綺麗に盛り上がった唇に触れさせた。指を押し返す感触に煽られ、ひときわ大きな波が打ち寄せたかと思えば、ぴたり、海は凪いだ。不思議と目の奥が痺れて泣きそうだ。落ち着きたくて瞼を閉じたところで、動揺のままに震える指が何かに包まれる感触に震える。見開いた目に映った薄闇に浮かび上がる金色の瞳は、豆電球の光を反射し艶かしく橙色を帯びていた。
急に頭が冷えて、素早く指を引き抜きシャツの裾で拭う。候補生たちは入学する時に、他人との性交を禁じられている。身体の純度を保つために遺伝子情報が含まれる他人の精液や唾を取り込むのは望ましくないという。コンドームがあるじゃないかという反論には、神を降ろす器としていまだ交わったことがないという科学的な実証とは遠い条件が必要だと返される。巫女のように処女性が重要視されるとは前時代的だが、それが政府の検証の結果だということだ。
ここに在るのは契約という鎖で繋がれ、ゆるく囲われている肉体だ。お互いに繋がれた鎖を思い出し、逃げ出そうとした国重の手に熱く強い手の感触が。
「逃げるな」
隣のベッドで眠る光忠を起こさないようにひそめられた声は、それでもしっかりと耳に届いた。引っ張られるがままに大倶利伽羅の身体に半ば乗り上げてしまい、慌てる国重の腰を掴んで離さない。
「どうした?」
男は胸で荒れ狂う海がこぼれてしまわぬよう、口を引き結ぶことしかできない国重の頭を抱えて髪を撫でつけた。
「眠れないのか?」
頰の下でどくどくと心臓が脈打ち、熱い身体と触れあった場所にじんわりと汗が生まれる。
「しゃべれないのか? しゃべりたくないのか? 国重の形をしたあやかしか?」
昼間の寡黙さはどこに行ったのか、独り言のように続く言葉は甘く耳をくすぐる。優しく懐かしい香りも、低く柔らかな声も、鍛えられた硬い身体も、絡みつく強い腕も、何もかもがだめだと思った。
────あふれてしまう。
「国重?」
そんな声で名前を呼ばないで欲しい。
耳の奥で潮騒がこだまして、思わず両手で猫っ毛を包み口づけた。衝動とは裏腹の慎重に唇をふれあわせるだけの口づけ。湿った薄い皮膚が擦りあわされ、端から端までたどっては開きそうになる唇を戒めた。何度も何度も拙く押しつけて、漏れる息とふにりとした感触だけを追い続ける。なぜこんなことをしているのだろうか。歯を食いしばっても抑えきれない嗚咽が漏れ、目が潤むのを感じた瞬間、されるがままだった大倶利伽羅の光る瞳が収縮し、ぐるりと世界が反転した。
「泣くな」
「泣いてない」
「じゃあ、泣け」
「……泣かない」
「国重」
「名前を呼ぶな……その目もやめろ」
大倶利伽羅の鋭い目が、光忠に向けられるように柔らかく己に細められることはないだろうという事実がこんなにも胸を軋ませる。顔を覆ってしまおうとのばした手は、シーツに縫いつけられた。
「煽ったのはあんただ」
刺すような目つきの顔が近づき乾いてしまった国重の唇を吸う。いちど、にど、さんど、あわされる唇。どくりと心臓が跳ねた。先に過ちを犯してしまったのは自分だが、大倶利伽羅の行動はなぜだろうか。いつもの観察、好奇心、溜まった欲の発露、さまざまな言葉が脳裏をよぎるが、少しでもこの行動に好意が含まれているのだろうか。我慢することばかりを学習して成長した国重は何ひとつ己の手には残らないとわかっている。だがどうだ、目の前に甘いお菓子を並べられて期待することをやめられない。欠片ばかりの好意を拾いたくて覗き込んだ間近にある瞳は、やはり硬い輝きのレンズのように己の挙動を追っていて、石でも飲んだように内臓が重く引き絞られた。
違う。この瞳は違う。短くはない共同生活で違いを知ってしまった国重は、いまだ降ってくる口づけから逃れるように顔を背けて唇を噛む。
「チッ……あんたがわからない」
「んッ」
苛立った仕草で腰を押しつけられ、硬い感触が足の付け根を抉る。はくりと息を飲みながら目を向け、果たして逃げたいのか縋りたいのか自分でもわからないまま、思考が渦巻く頭で硬く立ち上がった性器に手をのばしてしまう。おそるおそるその熱をなぞった。震える胸の内で欲望がめちゃくちゃに暴れている。国重の行動を止めない大倶利伽羅がまたひとつ舌打ちをするのに頭が冷え、びくりと肩を震わせたところで押し殺した声で囁かれた。
「俺はしたいようにする。止めたきゃ殴れ」
迷いのない仕草で国重のショートパンツをずらし、僅かに反応している性器をあらわにされ、ひゅっと息を飲んだ。大倶利伽羅自身のボクサーパンツも下ろし、横に寝転がると手のひらに唾を吐き出し、ふたりの性器をまとめて包みこんだ。ぬろりと塗りたくられる感触に背が打ち震える。いくら性交ではないとはいえ、勧められた行為ではない。くちくちと耳をくすぐる水音と硬いざらざらとした皮膚を持つ手が扱く感触、大倶利伽羅の雄の熱、全てが国重の脳を搔きまわし自分がどこにいるのかわからなくなる。光忠を起こしてしまうから声は出せない。いや、それよりもこの行為を止めるべきだ。頭に瞬く正論はなんの役にも立たない。思わず殴りつけようと振り上げた手が止まる。仲間を打つ為にこの手は在るのか? お前はどうしたいんだ? ためらいながら柔い髪をひしと掴む。惑う頭で悪魔が囁く。本当は殴ってやりたいんじゃないか? 違う。小さなお前がされたように。違う! 過去と今がぐねぐねと混ざりあう。
ああ、おぼろげな過去の手も最初はなでる為に振り上げられたかもしれないのだ───。
「はっ、はっ、んん」
止めることも逃げ出すこともできず、荒い息だけを吐いて毒のような快楽を甘受し、貪欲に味わっている身体の狡猾さが憎い。先走りでどんどん滑りが良くなり、扱く速度も加速する。
「んっ、んっ、んぅぅ」
「はぁっ」
色素の違う震える性器がそのおうとつを擦りつけ合い、柔くくすぐられては強く扱かれるみだりがましい光景を目に映し、誘われるように己の手も重ねた。緊張で冷えた手の感触にふたりして腰を跳ねさせる。
────熱い。
一緒になって指を絡みつかせ扱けば、強くなった刺激にもっとと腰が揺れるのを止められない。とろとろしずくをこぼし続ける孔をなぞりなぞられ裏筋を抉り、お互いの間で湿った息だけを交わしながら没頭していく。
「ひっ、んっ、ン」
「はっ、くっ……んん」
絡めあった脚の間で次々と汗が生み出され、軋むような音が肌に響いた。
絶頂は突然、視界の端でカーテンを揺らし吹き込んだ風で、漂う大倶利伽羅の匂いを認識した途端に。
「くっ、あアッ」
ごぼり、海に沈んでいく重たい身体。もたりとした国重の精液がお互いの肉を伝い、一瞬、動きを止めた大倶利伽羅だったが、また直ぐに萎え始めた国重の性器とともにいまだ吐き出していない熱く脈打つ性器を扱き出した。
「くぅっ、やめっ、」
「はっ、はっ」
達した身体に行き過ぎた快楽は苦痛に近い。抑えようと縋る手を気にも止めず、速度を緩めない筋が浮く硬い腕。ぎりりと奥歯を噛みしめる国重を破壊するべく叩き込まれた二度目の絶頂とともに、大倶利伽羅の雄もびゅくりと勢い良く濃い精液を吐き出した。
「はぁ……はぁ……」
汗でシャツが張りつき心臓がばくばくと煩い。大倶利伽羅の方を伺えば、動けないお互いの腹をゆっくりと伝っていく白濁が目に入り、見てはいられなくて目を閉じる。吹き出した汗と一緒に身体も頭も冷えていく。沈黙が満ちる部屋に乱暴な呼吸音と光忠の穏やかな寝息だけが重なっていく。石を詰め込まれたような身体がひとつ戦慄く。恋人でも家族でもない、ただ同室なだけのふたりがお互いの身体を使って快楽を得た。こんなことは自慰と一緒だ。何を期待し、望んでしまったのだろう。漂うべたりと鼻腔に絡みつく精の匂いがひどく煩わしくて、腕で目を覆いまたひとつ嗚咽を飲み込んだ。
「はいどうぞ、君の分。頻繁でお熱いね」
ホームに届いた手紙はなぜか同じ候補生の青江が仕事でもないのに各部屋に配っている。一度なぜだと足りない言葉で問うた時、青江はその一言から自然に察して趣味みたいなものさ、と何が面白いのかくすくす笑いながら答えた。受け流すことにも慣れてしまったいつもの揶揄を鼻を鳴らしてあしらい、真っ白で飾り気の無い封筒を受け取る。少し冷やりとして外の匂いがした。
汗をかいたジャスミンティーが所在無げに置かれたダイニングに戻り、封を手でびりびりと破くと指に残る乾いた砂の感触。〝国重ヘ〟でかでか書かれた便箋を開き、白い男が紡ぐ世界に没頭した。彼の張りのある声が脳内に再現される。
『お前が、苦しい、とひとことだけ書いた手紙を送ってきた時はびっくりしたぜ。だが、同時に安堵もした。お前苦しいって言えるようになったんだな。つらいことをつらくないと思い込んで、平気な顔してばかりのお前がなぁ。なんのことで悩んでいるのかは知らないが、まーた何か溜め込んでいるのか? 苦しいのはお前が自分を解放してやらないからだと思うがな。お前は怒ってもいいんだ。感情を封じ込めるんじゃなくて、形にして名前を与えて認めてやれよ。そうすりゃ、勝手に風通しが良くなる。逃げ道を探し続けてもどこにも行けないぜ。俺たちが生きる世界はそんな優しいものじゃないだろ? ま、今度西瓜でも食べに行くわ。んじゃ、またな!』
何かと手紙を送ってくる国永の筆致は、普段の騒々しさとは反対に静かに流れる水のようで心が凪ぐ。その冷えた静けさは彼が眠る姿に似ている。ぴくりとも動かず、時が止まってしまったかのように音が無く思わず見蕩れてしまった寝顔を思い出す。
過ちのあと、いつも通りに振る舞い続けることはできたのに、忘れようとしてもなかったことにはできなくて、耐えきれず〝苦しい〟とだけ彼に送ってしまった。それに応えた国永の言葉を反芻して、どこから手をつければいいのかわからないくらいの難問を前にしているような心地になる。
「かたちにする……」
感情が美しい形を描いた瞬間を一度だけ見たことがある。国永が思わず一節、歌った瞬間のことだ。彼は色彩の抜け落ちた見目のおかげで、とある宗教で親を含む周りの大人に若き教祖に持ち上げられた。幼い頃の彼は神の声として歌うことを求められ命ぜられるままに歌っていたが、ある時急に馬鹿馬鹿しくなって逃げ出したという。他人に何もかもを決められる人形のような自分、欲のために自分を見ず偶像を作り上げる親、こんな人形に願うばかりで努力しない信者たち、全てが馬鹿だと思った、と彼は内緒話のあとに笑った。
歌うことは彼にとって禁忌に近いことなのに鼻歌を歌ったのだ。それは、意図せず漏れたものだったのだろうが、柔らかく楽しいという気持ちを形にしたようだった。自分で歌っておきながら、びっくりして目を見開いていた国永の珍しい表情を思い出すと可笑しい。
「みとめる」
ふつりと上がった口角が落ち、咀嚼しきれない感情を抱えたまま目を滑らせる。最後に付け加えられた追伸には隠す気のない企みが透けて見えて、今度は苦々しい笑みが浮かんでしまった。
『追伸、ミツ坊とカラ坊への手紙も同封したから渡してくれ。頼んだぞ。中身は読むなよ!』
「おせっかいめ」
口の中で呟いて、気が進まないことはさっさっと終わらせるに限る、とまずは光忠を探しに向かった。夏期休暇中で自主練をする以外は時間が有り余っているのだ。
きっと、今の時間はあそこにいるだろう。小さな彼の家庭菜園。
「やあ、国重くんも帽子かぶらないと熱中症になるよ」
色褪せた青のじょうろで水遣りをしながら、麦わら帽子をかぶった光忠が陽気に言う。
「すぐに戻る。お前に、国永からだ」
軍手をした手では汚れてしまうだろうと逡巡していると、指し示されたエプロンのポケットに滑り込ませた。
「ありがとう。あっこのミニトマト食べてみない? トマトは水分量が多いからこまめに水をあげなきゃいけないんだけどさ、大事に手をかけてあげてたら、こんなにいっぱいなったよ。少し熟れすぎて弾けちゃったのもあるんだ」
ふふっと笑みを滲ませ、甘いよ、と続けた。見事にいくつもなった赤い玉は今にも落ちそうで、その中のひとつを指差し目で促してくる。熟しすぎて少しぶよぶよとしたミニトマトはそっと力を入れただけで、まるで待っていたかのように枝から離れた。じょうろに残る水で洗い、内からの圧力で弾けて少し口を開けた赤を口に放り込んだ。ぬるく少しの酸味を孕んだ甘い汁が広がる。
「……あまい」
「でしょ! 今年は良く出来たんだ。マリネにしようかな」
「手紙、渡したからな。……トマトうまかった……大倶利伽羅がどこにいるか知っているか?」
「んー彼は行動が気まぐれだからわからないな。国重くんの方がわかりそうだよね」
「なんでだ」
「なんだか似ているような気がしてさ。探してあげて」
慈愛が込められた柔らかに目尻に皺を刻む顔が気にくわない。世話好きの光忠らしく愛情たっぷりに育てられ、たわわに実る極彩色の野菜たちを横目にもうひとつの届け先を探しに向かった。過去に家族を目の前で亡くしている彼の家庭菜園は、まるで愛情を向ける先を求めた箱庭のようで、国重には少し息苦しい。
あいつはどこにいるのだろうか。あの夜の後も何もかもが夢だったかのように、大倶利伽羅の態度は変わらない。一時の気の迷い。後悔して無かったことにしたい過ち。それとも、取るに足らない性処理。そこまで考えたところで、ぐぅと喉がつまり頭を振る。答えの出ない問題でいつまでも頭を悩ますのは嫌いだ。
あてもなく踏み出した足は、肌を焼く日差しを避けるように木陰が出来た裏の林の方に向かっていた。特に何があるわけではないが、ただ静かで涼しく、ひとりになるにはもってこいの場所だ。生き生きとした緑が紗のように編まれ、光を柔らかいものに変えていて、冷やりとした空気に幾分息がしやすくなった。
視線を投げた先、木の陰からちらりと印象的な紅が覗いた気がして目を凝らせば、結ばれた大倶利伽羅の髪が揺れている。その横顔は一心に何かを見つめていて、また観察に勤しんでいるのが伺えた。好奇心が旺盛で動くものを目で追ってしまう猫のようだと思う。近づくのがこわいような心地でゆっくりそばに寄ると、視線の先にあったのはベルベットのような羽を誇る揚羽蝶で、暫く近くを飛び回っていた彼女は、すっと差し出された褐色の手の周りを漂い、指先に止まった。
あの指は甘いのだろうか。
声をかけるより先に気配を感じたのか大倶利伽羅が視線をこちらに向ける、と同時に蝶も飛び立った。
「捕まえなくていいのか?」
「もう充分見た。俺に所有欲はない」
じっとこちらを見る瞳に、また自分の輪郭が覚束なくなるような感覚がして、ざわりざわりと身のうちが騒ぐ。目をさまよわせた先で揺れる指を口内に招き入れたい。飴玉のようにしゃぶり硬い皮膚を感じたい。はしたない想像をしたところで我に返り、少し手汗でよれてしまった手紙を差し出す。
「国永からだ」
「あんたに届いたのか?」
受け取った大倶利伽羅は、僅かに眉間に皺をよせて問うてくる。
「ああ。光忠のも」
「なぜだ?」
「なにが?」
「国永はなぜいつもあんたに送る?」
「さぁ、あいつの考えていることはわからん」
「国永とあんたは……いやなんでもない」
彼が言い淀むなんて珍しい。いつも毅然としているしマイペースなものだから年下であることを度々忘れそうになるが、今の彼は年相応な感じがした。思わず観察するようにその表情を眺めていると、ふいに手を取られ強く引っ張られる。
「夕立が来そうだ。戻るぞ」
動物みたいな嗅覚に感嘆し、湿った風が吹き抜け厚い雲が流れる気配を感じながら無言で歩く。空は作り物のような色をして、雲は次々と形を変えていく。まだふれてくれる、小さな事実が胸を刺し、汗でぬめる手の感触だけが現実に思えた。強い風が吹いたら蝶はどうするのだろうか、そんなことばかりが頭をぐるぐると回っていた。
「いつでも格好は整えとかなきゃね、伽羅ちゃん頼んだよ!」
だらだらと続く休暇も終わりが近くなり、祭りの後始末をするような空気が漂い始めた頃合い。光忠から強制的に西瓜を食べさせられたあとに歌うような声が響いた。影になっているとはいえ相変わらず湿度も高く暑苦しい縁側で夏の名残を味わったのだが、食べるのが不器用な国重は散々汁をこぼしたから結果的には縁側でというのは正解だったようだ。西瓜の皿を片付けに行った光忠はケープとハサミ、梳きバサミを手に帰ってきた。田舎のここでは散髪をするのにも苦労をするので、休みの日に遠くの散髪屋まで行く奴や、色とりどりの髪をのばし続けている奴もいれば、身近なものに切ってもらう奴もいる。
ベタつく唇をひとつ舐めて、髪が切られていくのを目に映す。手際良く準備を整え、ハサミを大胆に入れていく手つきには迷いがない。くすくすと柔らかく笑っては話しかける光忠と言葉少なに返しながら的確に切りそろえていく大倶利伽羅。漆黒の艶やかな髪をひと房つまみ、捻り、汗をこみかみに伝わせながら梳きバサミを通す真剣な眼差し。じっとりとした空気をものともせず、はらり、はらり舞い落ちる黒い糸は、地面に降り積もる。
しゃきん、しゃきん。
リズム良く響く音は、国重の胸も切り刻む。
しゃりん、しゃりん。
場所を移動しながら短くなっていく髪を梳いては形を確かめ、黒を游ぐ銀色。そして、最後に眼帯にかかる前髪に来たところで前にまわり、顔をよせ慎重に少しずつ切り揃えてハサミを置いた。髪に褐色の手を差し込み、優しくかきまぜるように切った髪を飛ばすさまを、ただ見ていた。目を逸らすことも話しかけることもできず、ただ見ていることしかできない。首筋を伝う汗の不快感に現状を思い出し、乱暴にシャツで拭う。ひりつく肌の感覚が国重の輪郭を思い出させ、暴力的な衝動が体内で膨れあがった。
脚に力を込めて立ち上がる。国重はもう泣き虫の子供ではない。異端の色彩を自分でも持て余し、他人には興味本位に手を出され、肉親には目を逸らされ、良い子であることで存在を証明しようとしていた日々は終わった。己を見ない両親に手放され、縋ることもできず小さくなっていつまでも泣いていた自分はもういない。鍛練を重ねた果てに力を得て強くなり、この場所までたどり着いた己はもう行動する力を得ているのだ。汗を残してしまうと、またこの皮膚は痛痒を覚え眠れなくなる。冷えた水を求めて、足を部屋に備えつけの小さな風呂場に向けた。踏みしめる感覚が雲のようでも、足取りは力強く背をのばし振り返らない。
機械のようにいつも通りの手順で育ちきった身体を小さな風呂桶に押し込め、冷たいシャワーを降らせた。肌を叩く水が国重の形を削っていけばいい。不甲斐なく立ちすくむ自分を叩きのめして、めちゃくちゃにしてやりたい。甘ったるくこびりついていた果汁も、染みる塩っぱい汗も、馬鹿みたいに囚われていた子供の自分も、全部流してしまえ。
頑なに何を認めないでいようとしたのだろう。あの光景を見て感じたことが全てだ。大倶利伽羅に大事にされ柔らかな瞳を向けられる大倶利伽羅を目撃して、身のうちで膨れあがったのは醜い嫉妬だ。自分だけ見て欲しい。なんてわがまま。
弾ける水音にまぎれて国永の声がする。
────名前を与えて認めてやれよ。
国永が贈ってくれた言葉、ふとした瞬間こぼれた奇跡のような鼻歌、何があっても楽しむことを忘れない強さ。光忠の本心からの微笑み、優しさが詰まった甘いミニトマト、その奥の癒えない悲しみ。大倶利伽羅の懐かしさすら覚えるようになった匂い、繊細に動く傷だらけの指、いつまでも逸らされない己を見つめる強い瞳。ちかちかと明滅する光に照らされた色彩が混ざりあい模様を描く。
大倶利伽羅の目を見つめ返す時、胸に渦巻く潮騒は、ただの好意ではない。もっとどろりとうねって、激しく暴れる暴力的な熱量。
────俺は大倶利伽羅に恋をしている。
冷えた身体に暴れる心臓を抱え縮こまってひたすら眠った翌日、短くすっきりとした髪型が眩しい光忠におつかいを頼まれて、ギィギィと隣まで自転車を漕ぐ。虫たちの声が僅かに音色を変え、道の両脇に広がる緑の海もぽつりぽつり黄味を帯びてきた。強い風に煽られ揺れる若い稲穂の中、重いペダルを意地になって踏み込んだ。
「ごめんね。彼、ちょっと恥ずかしがり屋なんだ。お詫びと言ってはなんだけど、いつもより多めに入れとくね」
いつもと同じように迎えてくれたタナカさんの家には甥だという、十四、五ぐらいの子供がいた。都会育ちらしく綺麗な洋服を着たその少年は、じろじろと値踏みするようにこちらを見ている。それでいて国重が見返せば、ぱっと逸らされ冷めた顔をした。
懐かしいぐらいに慣れてしまっていた視線。
不快感は覚えるが、思っていたよりもなんでもないことのように感じた。こんなことではもう傷つかない。申し訳なさそうにタナカさんが言うのに、丸々太った冬瓜が二つ入った袋と巨峰が詰まった箱を持たされた国重は、袋の持ち手を掌に食い込ませながら、気にしないでくれと笑うことだってできた。不躾な視線は確かに胸を微かに引っ掻くけれども、もうそこに傷痕を残すことはない。
荷台にくくりつけた箱からひと粒巨峰を毟り、土の香りを纏った皮ごと口に放り込んで、ペダルを踏み出した。じゅうと喉を潤す果汁を飲みくだしたあとに、歯に絡みつく皮の渋みに目が覚め、小さな種を噛み砕くごとに広がる不快感に眉根を寄せる。
「にがい……」
駄々っ子が泣いている、俺が欲しいのはあの瞳だと。見飽きて、でも見飽きない景色を、かつて夕暮れの色だと男に言われた瞳でなでながら、ペダルを踏む足に力を込めた。
「夕飯何が食べたい?」
おつかいの成果を渡した国重に米を洗う手は止めずに光忠は問う。ざっ、ざっ、と米を研ぐ音にまじって隙間風が奏でる笛の音が響く。雨が近いのかもしれない。
「あれ……えびと冬瓜の冷たいの」
鍛えられた広い背中で肩甲骨が動くさまをぼんやり眺めながら、浮かぶままに答えた。恵まれた体躯を持ち他のものを気遣う余裕のある大きな男、いやむしろ、自分のことを見ずにひとつきりの目で他のもののことしか見ていないのかもしれない。気づいた瞬間、言いようのない感情があふれて、眉が下がった。
「ああ……暑くても食べやすくていいね。もう少ししたら、冬瓜のそぼろあんかけもいいよね。国重くんあれ好きだろ?」
「え?」
「だって、前に猫舌なのに待てないみたいに頑張って食べててさ。きっと好きなんだろうなって、違う?」
熱々のあんかけ。口内に広がる鶏肉のあっさりした優しい味とつるりと通る喉越し、舌が痛いくらいの刺激を感じているのに蓮華が止まらなくて、一息つけばほかほかと中から温まっている感覚を思い出した。国重自身すら自覚していなかった、好きなもの、苦手なもの、そんなたわいのない一瞬を覚えていたのか。
「……好きだ」
「でしょ? また寒くなったらあれを作るよ。今日は冷たいのにしようか?」
弟を見るような目で言われるのに、恥ずかしさを覚えるより先にあふれた現金な唾と小さな喜び。降り積もるものが確かにこの胸に存在し、静かに見守られ、芽吹くのを待っている。
「……うん」
僅かに目を瞠った光忠の表情が格好つけらしくなくて可笑しい。国重は己の身ひとつ以外は諦めた気でいた。何ひとつ己を揺さぶることはできないし、かたわらを通り過ぎていくものに思い入れることなどないと思っていた。けれど、本当は諦めることなどできていなかったのだ。
ああ、求めてしまうわがままを許してやりたい、許してやれるのは自分しかいないのだから。
「髪を切ってくれないか」
暑さをものともせず縁側で横になっていた男に声をかけた。
国重の身体を構成する何かが切り離されゴミとして捨てられるのなら、感情も同じことではないだろうか。どうせ捨てるなら褐色の手に捨てられたい。そんなどうしようもない感傷をぶつけてやろうと、初めて大倶利伽羅に甘えた頼みごとをした。頷いた男は昨日と同じように縁側に座った国重に手際良くケープを被せ、迷いなく切っていく。
しゃきん、しゃきん。
痛みすら感じた音が今は余計なものを削ぎ落とすように、こぎみよく胸に響く。褐色の指が顔の輪郭をなぞり、髪を流して、またひとつ切り落とされた。安心感すら覚えるリズムは寝かしつけられているかのようで、とろりと頭が緩んでいく。
しゃん、しゃん。
姦しく夏を惜しむ蝉の声に重なって、澄んだ鈴に似た音がこだまする。うなじをつうとたどった指がさらさらと髪をなでつけ確かめるように髪を揺らすのが、やわやわと国重の形をなぞるようで、またくうと胸が鳴いた。
しゃりん、しゃりん。
今、あふれるものを閉じ込め続けたことでぼこぼこになってしまった輪郭が、緩やかな曲線に整えられていく。目を閉じて大きく深呼吸すれば、大倶利伽羅の匂い。ぱちりと開けた目の前に端正な顔が迫っていて息をのむ。真ん中で分かれた前髪を引っ張ってはのばし確認してからおもむろにハサミを入れる真剣なさまに、どうしようもなく胸が騒いで笑みがこぼれてしまった。光忠に向けるような表情ではなくとも、これだけ真剣に向きあってくれるだけで充分だ。ハサミが震えるのを感じながら、切り離された髪が目に入らぬよう瞼を伏せて、全てが終われば何も伝わらなくとも、きっとせいせいするだろうと独りよがりなことを思った。
ただ胸に残るあぶくを吐き出す。それが、溺れる国重の精一杯の足掻きだ。
「終わったぞ」
優しく何度も髪を梳かれたあと、耳に吹き込まれたとろりとしたさわり心地の低い声にまた瞼を上げ、さっさっと片付けをする大倶利伽羅を見つめる。
「ありがとう。さっぱりした」
ずっと引き結んでいた口から出した声は少しかすれていた。
「……おおくりから」
「なんだ」
「お前が欲しい」
目を見開いて、珍しくわかりやすいくらい驚いた顔をする彼がわけもなく可笑しいのに、表情が光忠に似ていて締めつけられるような嫉妬を感じる。眉が下がり口角が上がる。らしくもなく必死な顔を晒していることだろう。けして、想いを返してもらえなくとも、たとえ泣きわめくことになったとしても、それでも伝えたい。
「俺はなにも所有したくないし、誰かに所有されたくもない」
つきりと胸を刺す痛みに、わかっていても縋りたくて震える指を握り込む。
「けれど、何よりも近くであんたを見ていたい……この気持ちはきっとあんたよりも強い。あんたが言う欲しいという気持ちに近いのかもしれない」
甘いお菓子を口に詰め込まれたようで、間抜けな顔になってしまう。
「……そばにいたい……一番近くに」
「……本当に?」
呆然として真っ白になった頭で絞り出した言葉は疑う言葉で、まずい返しだとわかっていても確かめたい。嬉しさとともに抑えきれない不安が、国重の弱さが、信じさせて欲しいとこちらを見やる大倶利伽羅に震える手をのばす。
「ああ」
「嘘じゃ」
「ない」
「お前は光忠が……好きなんじゃないのか?」
「あいつは家族だ。好意の形が違う」
「本当に?」
「本当だ」
「……ほんとう」
誤魔化すことを知らない、訥々と己の中の事実だけを連ねる大倶利伽羅の透明な言葉。染み込んだ言葉の欠片が、国重の海に沈みながらきらりきらりと光を屈折させて反射する。目を逸らさない大倶利伽羅が嘘をつかないことを、誰よりも嘘つきな国重は知っている。
〝ほんとう〟
〝そばに〟
国重だけに贈られた言葉をぎゅうぎゅうに握り締めて閉じ込め、離さない。
「国重、俺の髪も切ってくれ」
人は嬉しくても途方に暮れるらしい。言葉を飲み込むのに精一杯で俯く国重にかけられた言葉は予想外のもので、慌ててその目を見れば金色が潤んでいる。
「俺が不器用なの、知っているだろ」
「あんたに切ってもらいたい」
「間抜けな髪型になるぞ」
「それでもいい」
「耳を切ってしまうかもしれない」
「それぐらいなら安い」
何を言っても直ぐに返ってくる言葉は、常の彼らしくなくごつごつとしていた。
「なんで……」
「あんたがいいんだ」
片付けの途中だった散髪セットを広げ、ハサミを国重に握らせる。切ってやりたいが傷つけてしまったらと迷子のようにうろたえていると、結んであるところだけでもいい、と甲をなで優しく促した。
尻尾のようにうなじで結ばれた紅がさす束を握り、人の急所である首の上で柔らかく躍る髪にハサミを入れていく。刃に伝わる振動が、国重の海をさざめかす。
じじじじ、じゃきん。
力を込めれば、あっけなく切り離された。見よう見まねで切り落とした箇所を揃えるように刃を入れ整え、ケープを取り去ったあとでうなじについた短い髪を払った。
汗でシャツが張り付く背中を眺める。
ざぷん。
またひとつ気持ちの良い大きな波が打って心が震えるままに、後ろから首に手を回し頬に頬をよせた。張りのある頬の弾力、こつりとあたる骨、硬い背中、チクリとした髪の毛、熱い身体。隙間なく肌をあわせるのを大倶利伽羅は身じろぎもせず受け止める。
───この男の形が好きなんだ。
気がつけば蝉が腹の中に求愛の声を響かせることをやめ、ふつりと音がと切れた空白の瞬間のあと、ぼたり、雨粒が地面に点を落とす。天からの賜り物、恵みの雨でぶわりと脳髄まで刺さるように土の香りが広がり、眼前の変わりない景色の色が鮮やかに立ち上がる。土に染み込んだ雨粒は、巡り巡って結実する甘露になるだろう。
目を瞬かせ空を見つめる精悍な横顔。大倶利伽羅は回した腕を優しくとき、強い夕立の中にサンダルをほっぽり裸足で迷いなく進むと雨で頭を流し、にやりと悪戯っ子のように笑った。初めて見る表情に目を奪われる。
「くにしげ」
優しく名前を呼ばれ、己を見つめる金色の瞳が湛えた甘い蜜に、誘われる蝶になってしまった国重はふらふらと裸足で駆け出した。ざりりと足の裏を削る熱い土の感触も、直ぐにしっとりとしたものに変わる。確かに存在する自分より少し小さな消えない肉体に手をのばす。
ふ、と音を立てふれた雨の味がする口付けに何よりも満たされる心地がした。吹き込まれる息で胸がふわりと膨らんでいっぱいになる。でも、際限なくもっともっと欲しい。いつかは消える泡沫の夢だとしても、貪欲に欲しがっていいのだと思った。宝石のような欠片は確かに国重の海の底で守られ眠っている。
目の前で、眇められた瞳に射抜かれる感触は、────きっと忘れられない。