茉莉花の頃
その男を形容するなら、ひねりもなく紫の男。紫は紫でも青に近い硬質な冷たい青紫。形は端正で良くできた西洋人形のようなヒトガタだ。養成所で同室になった男を大倶利伽羅はまだ掴みかねていた。何よりも体温を感じさせない姿と態度が原因だと勝手に思っている。どこか、もろくすぐに壊れてしまいそうな印象を受けるが、意外にずぶとく頑丈でなかなかに強い。手合わせの最中でも、冷静にこちらを見返す瞳。子供の頃、集めていたビー玉のように透明で尖った輝き。乱れる息だけが生きたもののよう。
白熱した手合わせを終わらせて、ひと息つく。呼吸が合うのか、見事にタイミング良く打ちあう様は演武ならば良いだろうが、手合わせでは零点だ。引き分けなんて一番よろしくない。勝つか負けるかはっきりしなければ、得るものもないではないかと荒い呼吸を繰り返しながら苛立つ。ふと、目の前の男のこめかみに伝う汗であろう液体に目を奪われた。澄ました顔に流れるしずくは清涼な水のようにすら見えて、腹の中で何かが囁くように違和感が燻る。顎まで伝ってぽとりと落ちるのを見て、涙だという方がまだ納得いくように思えた。
いや、この男は泣くのだろうか?
「おい、近いぞ……暑い」
無意識に近くによって観察していたようで、怪訝な顔で離れて行ってしまう。少し遠くなった先で、光忠お気に入りの柔軟剤によりふわふわのタオルで拭われる汗。汗はほとんどが水でできていて、微量の塩化ナトリウムやミネラルが含まれる。この男の汗にも味はあるのだろうかと想像するうちに、食いしばった歯の奥で涎がじゅうとあふれた。さっさと出ていく男のうなじに貼りつく濡れた光を放つ髪を眺めて、ふらり蜜に誘われる蝶のように後を追った。
頭を埋める思考の渦の速度にあわせてゆっくりと向かった食堂で、男は良く冷えた空気の中、お茶を飲んでいた。嚥下する度に動く喉仏から目が離せない。大きくつかれた息から花の香りがして、光忠が最近はまっている自家製ジャスミンティーかとちらり思う。
「その目をやめろ。見るな」
抗議は聞かないふりで向かいに座り、何気ない顔をしてその手をとった。節くれだった長い指に白い部分が見えないぐらいの深爪。表に返させ、汗の光る掌の溝をなぞる。……冷たい。冷房と汗で冷やされた皮膚をつうと何度もなぞりながら、目線を上げると汗の引いた白い首筋と薄い唇が目に入った。温度を探して、引き結ばれた口の中に指を割り込ませる。氷に冷やされた温度と柔らかい感触に包み込まれた。舌の中心に一本線を描き、上顎の襞をたどる。男の身体が細やかに震えるほどに口内はぬるくぬかるんでいくのが面白い。エナメル質のつるりとした歯の段差を確認している時には諫めるように柔く噛まれた。身体が反応しているように見えた上顎をもう一度くすぐってから、ぬめりをこそげるように強く指の腹でひっかく。そう、猫の喉をくすぐるように。白い頬が紅く色づいているのが目に入って、そっと左手で触れて確かめた……熱い。
「こらこら、お前は好奇心だけでべたべたするな」
にゅうと視界に割り込んだ白い手に引き剥がされて、不満を覚える。
「お前もちゃんと抵抗しろ……おっ? さてはいっぱいいっぱいだな」
青紫の男の顔を覗き込んでいた国永が、そんなことを言う。
は? このぴくりともせず、冷ややかな目をした男が?
じっと見つめていると、青紫の瞳が割れてしまいそうに震えていて瞠目する。固まる男の手をとれば、熱い汗がじとりとこちらを濡らして我知らず上がっていく口角。かたくなな瞳から目をそらさずに掌に滲む汗を舐めとった。舌を刺激する味が、歓びに似た何かを呼び起こす。
そうか、この男は生きているのか。
目の前で国重の手をいいようにする男が舌舐めずりをしたような気がした。
「おいおい、聞いていたのか?」
「ひっ」
「あぁー、これはだめだな。お前もついに人だと認定されたようだ」
「ひゃっ、ちょっと、これを止めてくれ」
「いやぁ、驚きだぜ」
「おい、こいつを止めていけっ……いっ、噛むな!」
「あれ~仲いいね~」
飄々とした国永は興味を失ったのか出て行ってしまうし、入れ替わりに来た光忠は微笑ましいものを見るかのようで、どこかずれている。
「違う! あぁ、もう……痛い! どうにかしろ!」
「そうは言っても納得するまで離してくれないと思うよ」
「んん、だから! もう、なめるな、ぁっ」
自分でも知らない高くかすれた声が出てしまって、常に無く動揺する。こんな子供じみたじゃれあいなど知らない。こちらが反応すればするほど煌めく琥珀も知らない。呼吸が乱れて、うなじを冷や汗が伝った。
「ひっ、んあっ」
「うん、うん、今はもうやめよ。また今度ね」
見かねた光忠が諌める声に、力が緩んだ隙にべたべたの手を取り返した。痒みに似た痺れが残る手をすっかり氷が溶けてしまったグラスで冷やし、獰猛な龍の瞳を睨みつけた。
冷えた手にいまだ残る余韻が消えるのが惜しいなんて、────思っていない。