桜桃の頃
こんもりとこぼれんばかりにボウルに盛られた、つるりとした光を反射する赤い玉。トレーニングからシャツを張りつかせて戻ると、瑞々しいさくらんぼの山が待ち構えていた。
「ああ、それ隣のおじさんからの差し入れだよ」
国重は台所からかけられた声に頷きながら、隣とも言えない距離に住む御仁にまた農作業の手伝いを頼まれることになるだろうな、と予定を頭に浮かべる。目を滑らせると黙々と何かの機械のように口に含んでは種を吐き出す大倶利伽羅がいた。本を読みながら右手は器用に山から宝石をつまみ口に持っていく。反対の龍が踊る左手はページを捲る。向かいの椅子に座り、ぬるい水を義務的に飲んで、じっくりと目の前の絵を眺める。健康的な赤がつるりと唇に吸い込まれては、小さな種になって出てくる。種が小さな屑入れでまた山となる。こぼれてしまいそうな笑いを口元を歪めて抑えた。今度は水滴をまとった少しずつ減っていく山を見つめる。さくらんぼの甘酸っぱさを想像してあふれた唾液を飲み込んで、ひとつ指でつまんだ。小さな丸に凝縮された甘露はおいしそうだが、種があるという当たり前のことがわずらわしい。自分勝手にも。
「……食べないのか?」
「種が面倒くさい」
いつまでもまじまじと見つめているのを訝しんでかけられた問いに返した言葉は、思っていたよりもうんざりした響きをしていた。
「口に含んで吐き出せばすむだろう」
「……それがうまくできない。やろうとしたら思いっきり種を噛んでしまって不快な思いをした」
「味は嫌いではないのか?」
「好きだ。だから悩ましい。ちまちまと齧っていると段々腹立たしくなってくる」
「そうか……ほれ」
ひとつつまんだ大倶利伽羅がもごもごと頬を動かし、ぱかりと口を開けた。舌の上にはちょこんと種ひとつ。得意気な顔が小憎らしいが、それよりも気になることがある。
「どうなっている?」
想像よりも長い舌を思わず指で挟んでしまって自分の行動に驚く。ねとりとした感触に、しゅうと熱が上がった気がした。
「すまん、不躾だった」
ぱっと離せば、大倶利伽羅は目を瞬かせる。
「……不公平だから見せろ。ほら、舌をだせ」
そして、理解に苦しむことを言うが、その声には素直に従ってしまう自分がいる。
「舌を上顎につけろ……出せるだけ出してみろ」
ふにゃりと出した舌を見ると、次々と指示を出す。
「チェリー……言ってみろ」
「ちぇりい」
「らりるれろ、言ってみろ」
「らいるれろ」
「アイスを舐めるの苦手だろ」
「アイスは齧るものじゃないのか?」
ああ、アイスが食べたいな。
目の前にはつやつやとしたさくらんぼしかない。ぼんやりする俺に構わず、何かを確認した男はひとり頷いた。
「舌小帯短縮症だな」
「ぜっしょうたいたんしゅくしょう」
目の前の本をパラパラとめくり、グロテスクな人体図を指さす。
「舌小帯とはここだ。べろの下にあるひだが下顎と強く癒着しているために、舌を上手く動かせない症例だ。舌を出した時に先が引っ張られハートの上部分のようになるのが特徴だな」
「よくそんな本を読みながら食べられるな」
変な博識もだが人体について知る必要があるとはいえ、それを読みながら食べているとは変わった男だ。ハート型の舌。みんなこんなものかと思っていたが、確かに目の前の男のは先が尖っていた。
「うーん、きみの舌も特殊だと思うけどね。長くて尖り気味で」
背後から聞こえた声にぴくりと正面の男の肩が揺れるのが視界に入った。大倶利伽羅は光忠の言葉に左右されるのを知っている。感情を揺らしてやりたいような意地の悪い気持ちになって、「お前のも見せてみろ」と振り返り問うた。肉厚な丸い舌をべぇと出すのを目に映してから正面に向き直れば、刺すような視線で俺を通り越した向こうを見つめる大倶利伽羅。
先程ふれた舌の感触を思い出す。その指で自分の舌にもふれてみる。じゅうとあふれる唾液を飲み込もうとして指に歯を立ててしまった。とことん不器用な国重はどことなく日常生活での身体の使い方がちぐはぐで、ぎこちなくなってしまうのだ。口内で存在を主張する思い通りにならない指に、なぜか安心感を覚える。
指を増やす。少しむずがゆい。指を動かす。ぴりりと電気がはしるよう。口をいっぱいにふさがれたい欲求が膨れ上がる。やっぱりアイスが食べたい。あのしゅわっとしたやつ。
「あんた、それは卑猥だからやめた方がいい」
「う?」
力強い褐色の手に引き抜かれた指にティッシュを渡された。どことなく萎れた気分で、テーブルにつっ伏しながら、さまよう思考のままにつらつらと言葉がこぼれていく。きっと急に暑くなったからだ。
「庭の桜にはさくらんぼはならないのか?」
「花の桜の木と実がなる桜桃の木は違う」
「よく知っているな」
「一年前、同じことを疑問に思った……桜と同じで、さくらんぼは同じ品種では実がならない。だから、違う品種と受粉させる」
「ふーん、じゃあ、こいつらも俺たちと同じか」
この小さな管理された世界では俺たちのような他と違う色彩を持つ混血は肩身が狭い。俺たちは様々な理由から置いていかれた子供だ。そして、あと一年でこの施設を出なければいけない年齢になる。夏は蒸し暑く、冬も雪が多い、厳しい場所で汗を拭いながら過ごすのもあと少し。なんのつながりもない俺たちが家族のように生活をする日々の終わりが見えている。
春に全身真っ白な男はここを出ていった。次の春に俺と隻眼の男も出ていく。その次は目の前にいる褐色の男。ここを出たあとは付喪神を降ろして戦う兵士になる。日本という小さな島国を守るために戦う兵士が混血の奴ばかりだと言うのも皮肉だ。
白い男がこの間よこした手紙が頭をかすめる。
『戦うっつうのは痛くて苦しいものだが、生きている感じが悪くない』
そんなふうに達観して思えるのはお前ぐらいだろう、と呆れたと同時に不在が己にもたらした緊張が解ける心地がした。大した時も経っていないのに。神聖な刀を取り扱うからと、清らかさを要求される容れ物の候補生たちは人と交合うことを禁止されている。いい歳の男に性行為を禁じるとは清らかさ以前の問題で身体に悪そうなものだ。
器用にさくらんぼを食べる口元を目に映して、いいな、と思う。大倶利伽羅の熱は好ましい。柔らかな内部にふれてひどく欲しいと思った。決してつながれない相手に欲情している。だが、きっと恋ではない。吐き出せない熱を持て余しているだけだ。
また、さくらんぼにのびた褐色の手を掴み、指ごと口に含んだ。
「夕飯は何が食べたい?」
流しからは俺が影になって見えないだろう。噛まずに舌の上で指とさくらんぼを転がす。
つるつるとざらざら。
「暑い日こそカレーかな?」
穏やかに提案する声を聞きながら指に歯を立てた。
お前も俺と同じ気持ちを持て余せばいい。張り合うようにお互い視線を逸らさない。だが、結局負けたのは俺で、ふっと目を窓から見える青い空に移す。
夏が近い。
くなりと力が抜けた。
やっぱりアイスが食べたいなぁ。
あの青いやつ。
『追伸、ツクモガミが定着したら、あれも遂に解禁なんだぜ、驚いたか? すこしはやる気もでるってもんだろ?』
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