戦場のボーイズライフ
1
約束なんてするんじゃなかった。
四角形の塗装が薄れたボタンを押し込むと、滑らかにつま弾かれ空気を震わせていた音がやんだ。型遅れだけれど頑丈さが取り柄のプレーヤーを放って、長谷部は清潔なシーツの上で丸くなる。低くリズミカルに耳をくすぐるウッドベースの音はなぜかあの男を思い出させた。あいつにそんな繊細なところなんてなかったのに。楽器を弾いているところだって、鼻歌を歌うところすら見たことない。これは長谷部自身の感覚なのか、付喪神の〝へし切長谷部〟の記憶なのか、頭の中でぐずぐずにまざりあってわからなくなる。いや、きっとこころにあいつが住み続けているのがいけない。もう卒業した頃なのに会いに来ない。だからだろうか、最近はこの音楽を聴くと勝手に涙が出る。ほとりほとり落ちていくしずくが煩わしくて、好ましかった旋律を聴くことがためらわれるぐらいだ。久しぶりに聴いてもきちりと流れる涙に呆れて自嘲する。まるで条件反射だ。
宙ぶらりんな約束が浮かぶ。いつか海に行こう、と大倶利伽羅は言った。
海は実際に見たこともないのに少しこわい。此岸、彼岸、本当に海の向こうはどこかにつながっているのだろうか。長谷部はぼんやりそう返した。男は確かめるか、と柔らかな雰囲気で言った。長谷部は小さく頷いて約束をした。
別れの時もふれるだけの口づけをして、待っていてくれと言った大倶利伽羅。先で待っていてくれ、そう言った。果てのない想いは別れと約束から始まった。知っている。長谷部の人生は別ればかりがつきまとうのだ。
いつか、という約束だけを交わして長谷部は卒業して軍に進んだし、大倶利伽羅は養成所に残った。約束すらないのに施設で両親を何年も待ち続けた幼い頃に比べたら楽だと思った一年は、途方もなく甘いのに苦しく、約束の日が近づくほどに胸が期待で跳ねた。
けれど、彼はこなかった。
四月はとうに過ぎ、長雨の頃になっても消息がつかめない。人事に配属先を問い合わせても、手紙を送ってもなしのつぶて。囲われているに近い閉鎖的な養成所とは直接連絡する術がないのがもどかしく、無事を心配するこころはいつしか自分に嫌気がさしたんじゃないか、という弱気まじりになった。
頭を振って、サイドテーブルで冷え切ってしまったジャスミンティーに手をのばす。温かい時は長谷部を慰めた香りも、冷めてしまえばひどくよそよそしい。手慰みに布団の波に沈んでいる分厚い本をすくいあげ開いた。部隊長である秋田藤四郎に押しつけられたものだ。鮮やかな写真であふれる植物図鑑でカップの横、無造作に横たわる花を探す。似たような色彩、形の群れ。ぱらり、ぱらり、めくって、見分けがつかないので早々に諦めた。何もかもがすっきりしなくて衝動的に花びらをちぎって食む。苦い。憂鬱は苦味のせいにしてしまえばいい。花を食むなんて、野蛮な行動があの男みたいだと気づいて、己の思考が湿っぽくて嫌になる。うなだれた長谷部の耳に、さっきまで身を委ねていた音楽の続きのように、聞きなれた弾ける話し声が近づいてくるのが聴こえた。転調して、まるで行進するマーチングバンドだ。
「──ひとつ、サプライズ交ぜといたから」
「もぉ~なんでそんなことするかなぁ。お菓子に対する冒涜だよぉ~」
「えーだって面白みがないだろ」
寮の薄い壁程度ではさえぎれない声がドアの前で止まった。
コンコン。
「おやつの時間だよ~」
「長谷部さーん、いるのはわかってるんですよー!」
ドンドンドン。
笑みを崩さないままでしつこく追いかける戦闘スタイルのふたりが来たなら逃げられない。観念した長谷部はひとつため息を吐くと、気怠い足を動かしてドアを開けた。
そこには「クッキー焼けたんだ! 焼きたて食べよ!」とにこにこ笑う包丁藤四郎に、「長谷部さん運ないから当たりそうだなぁ」と悪びれることなくにやにやする鯰尾藤四郎がいた。なにか食べてる? という問いには曖昧に返して、むりやり喉に絡む花弁を飲み下す。同じ部隊になることも多いから身に染みて知っている、強引さが売りのふたりに引きずられて食堂に向かった。
「浮かない顔してる」
待ち人はまだ来ないの。精悍な小夜左文字が音を立てずに向かいの椅子を引いた。頷きだけで返事を返し、まだ温かいクッキーに手をのばす。甘い匂いに幾分慰められながら歯を立てると口の中に違和感が広がった。
「あっ、そっちはフォーチュンクッキーなんだよ。こっちはチョコチップ」
何が書いてある? と覗き込む包丁に、そういうことは最初に言って欲しかったと睨みつけてもどこ吹く風だ。口からクッキーと唾液まみれの紙を救いあげ開くと、
〝待ち人来たらず〟
残酷でいっそ無邪気な言葉に思わず苦笑して、目を伏せる。
「ん? 長谷部さんも待っている人いるの? 俺もママに早く会いたいなぁ」
包丁がこぼしたいつもの口癖を聞いて、微笑ましそうに場の空気が揺れた。ママという丸く優しい響きを持つ存在など望めないものも、この場には多いだろう。それでもみな笑える強さを持っている。弱いのは長谷部ばかりだ。やけになって皿の上のクッキーをわしづかんで頬張った。バリバリ、心地よい音とチョコレートの甘さが口の中に広がるのに苛立ちを紛れさせていると、ごりり、嫌な感触が。次いでツンとした辛さが広がった。吐き出すこともできず、涙目になって口を動かすことしかできない長谷部を鯰尾が覗き込んだ。
「あ! 当たりました!? 当たりはペッパーの粒入りでーす!」
あはははは。嬉しそうに言われても文句のひとつも返せない。小夜が差し出した水を飲んでやっとひとごこちがついた長谷部の頭に突然の衝撃。見事に頭が揺れた。
「あっスイマセーン」
秋田がバットを片手にひらひら手を振りながら言うのを目に映して、今のはゴムボールだったと知る。
「屋内ではやめろと言っただろ!」
「はーい」
素直な返事とは裏腹に堪えてないない秋田は笑う。満身創痍な長谷部を見て珍しく小夜まで笑っている。ふっと長谷部の胸に既視感が去来する。こんなふうにきらきらと輝くいくつもの瞳を覚えている。ああ、これはきっと長谷部ではなく〝へし切長谷部〟の記憶。
自分は、確かに、自分なのだろうか。
「あー! また考える人になってる!」
耳のそばで叫ばれ、はたと目が覚める。
「考えても仕方のないことを考えるのは時間の無駄ですよー」
「ん〜人は考える故にあるって、ね」
「ぎゃ〜〜!!」
したり顔で言う鯰尾の背後からにっかり青江が突如にゅうと顔を出し、取り乱した鯰尾の長い髪の毛が顔に当たり地味に痛い。どいつもこいつもそっとしておく気はないらしい。
「はい、ママから。君にはこれ」
包丁には大きなハートのシールが付いた手紙を渡し、長谷部には簡素な白い封筒を渡してきた。中身を確認して固まる。
「……おい、これは国永宛ての請求書じゃないか」
「彼、なかなか捕まらなくてさ。君が渡しておくれよ」
でかでかと判を押された赤い請求書の文字が目に痛い。あの男からの手紙もこんな素っ気ない封筒だった。最初はぽつぽつと優しい雨だれのように届いていた手紙も、今ではもう枯れてしまった────。
「長谷部くん!!」
突然の通る声に入り口を振り向くと、いつものように花を片手に入って来た骨喰藤四郎の後ろに、走りこんで来たのであろう息を切らす燭台切光忠が見えた。
「はっ、伽羅ちゃんのっ、……伽羅ちゃんの居場所が!」
不意に思い出す。骨喰の手の中でひっそりと咲き誇る白い花の名前。
『ユキノシタ』
────教えてくれたのは大倶利伽羅だった。
2
ぐるぐると振り回されもみくちゃにされていた身体が前触れなく放り出された。内臓が浮くような浮遊感を感じたのちに、硬い地面の感触が身体を打つ。土の上を転がり、つい何日か前に実戦に配属されたばかりの長谷部はえずきながら、この感覚に慣れることはあるのだろうかと思う。
「索敵開始!」
すぐさま立ちあがり部隊長の秋田の声に従った。一昔前の遊具を再利用したものだという球状の鉄格子でできた空間転移装置から遠ざかり、国境線近くの崖まで走り寄る。
以前は現在という時だけではなく、時空を飛んでさまざまな過去を戦場にしていたというが、長引いた戦に疲弊消耗したことにより、いがみあう全ての体制がこれ以上は人類が滅びかねないと協定を結んだという。時渡りの禁止。そうして時空転移装置は全て破壊された。しかし、いくら形を変えてもこうして戦いは止まない。
目を凝らせば島国である日本では陸地の際と同義である国境線に敵影がグネグネと増殖しているのが確認できた。鯰尾が口笛を吹く。協定で定められたことがもうひとつ。空間転移装置での他国への侵入の禁止。海底にいまだ採り尽くされていない資源を隠し持つ海は、権利の主張が激しくどこのものとも言えない無法地帯になっている。故に戦場はいつも国境近くで、取り決めを律儀に守って一進一退の鍔迫り合い、終わりのない戦いは続く。
「いつもと変わりのない顔ぶれのようですね」
「少ないぐらいだ」
骨喰の指摘に頷き、秋田がすっと手を上げる。
「遠戦用意! 放て!」
この身体になってから得た特殊能力である刀装兵を解放すると、しゅるり、煙のようにのびた爪から分離するように擬似兵士が現れる。己の一部でもある従順な兵士は得物を隙のない動作で構え、それぞれの種類の元、弓矢・石礫・鉛玉を放つ。暴力的な雨が数ばかりの雑魚を蹴散らし分断した。
「来ますよ……総員構え!」
付与された一番大きな能力。各々が自身の身体から降ろした付喪神の本体を引き抜く。内臓をずろりと熱い舌で舐られるような不快感と快感が混じりあった感触には慣れない。けれど、この重みはしっくりと手に馴染む。遥か昔に失われたテクノロジーの結晶である鋭い刃が冴えた光を放つ。長谷部はこの身に降ろされた得体の知れないものがそら恐ろしい。肉体は神降ろしの儀が行われた前と後では何もかもが変わってしまった。ではこころは? 馴染んでしまえば迷いなど消えるのだろうか。
「散!」
疾風の如く駆け抜け、先手必勝とばかりに崖の上から鈍足の敵に斬りかかった。たわいなくすぱりと両断された身体は苦しむ間も無く砂浜に転がり、幾許かのあとにじゅうと陽炎のように消えた。生きた肉の感触と吹き出す体液をこの手に残しているくせに跡形もなく消える。何と戦っているのかすらわからない。転がった死体が持つ黒曜石のようにつやりと潤んだ目の残像は確かに残っていると言うのに。長谷部たちも死ぬ時はこのように存在全てが蒸発してしまうのだろうか。
「長谷部さん! 後ろ!」
目前まで迫っていた異形の刀をギリギリで避ける。肩が防具ごと抉られた。すぐさま打って出ればガキンと嫌な音を立てて受け止められた。人とは違う色彩に形、けれど生きているもの特有の生臭い息が顔にかかり目を眇める。鍔迫り合いをしながら相手の顔に目を凝らすとぼやけたように認識できなくなるジャミングが、敵からの妨害なのか政府の制限なのかもわからないのだ。力で押し切られるのを避けるため苦し紛れに蹴りを放った瞬間、軸足を払われた。距離をとりたくてした行為の逆手を取られ無様に転がる。回避行動に移りつつも五体満足では済まないかと長谷部が覚悟した刹那、敵の首元に飛び込んで来た桃色が正確に頚動脈を分断し抉るのを見た。生温かい血が吹き出すのを受け止めて呆然と見上げる長谷部に、目を細めた秋田が言う。
「へし切長谷部、迷いと諦めは危険です。そんなことは自室で好きなだけやってください」
いつのまにか全てが片づけられたようで、隊員は各々気配を探っている。
「今度やったら本気で怒りますよ」
僕はまだまだこの世界を見ていたい。
小さく続けられた言葉に手早く止血する己の手が止まった。長谷部を見やる静謐な空色に小さく頷き、包帯を噛み締め左手で引きしぼる。まだ戦える。血で滑る柄を握り直した。
「いきましょう」
秋田が前を向いたその時、ドスンッと地面が揺れた。
「なに? なに? 少ないと思ったら新手かよ〜」
「大きい」
「敵影確認。未確認の新種と思われる。視認できるだけで五体。大きさが十メートルほどある四つ足。全身に装甲のようなものを纏っている」
迎撃体制をとるが近づいてくるほどにわかる桁違いの大きさに、虚を突かれ呆けた声が出た。
「ちょっと、大きすぎじゃないか……」
「え? あれもしかして絶滅した象ってやつでは、いやそれよりも大きい……改良種か」
常時冷静な秋田ですら呆然としている。
「ヒュ〜知能が足りなそうなデカブツだ。まずは先手必勝ってね!」
逸る鯰尾が止める間も無く駆け出していった先で、切りかかった太い足に跳ね返される。見事なまでに飛ばされた鯰尾の身体が鞠のように地面をバウンドして止まった。
「まずい」
止まることなく走り続ける敵が迫る。慌てて走り出し、丸太よりも大きい足に潰される前に回収する。
「大丈夫か!」
「大丈夫ではないけど生きてますよー」
右肩に抱え一目散に逃げ出す。他の個体は水を吐き出ししていて隊員が水浸しになっているのが視界の端に見えた。
「ぎゃあ! あの長いの鼻? 鼻? じゃあこの水、鼻水? 刃が滑る〜」
「不快だ」
包丁が刃が立たないと見て素早く距離をとり、骨喰も続く。
「ちっ」
小夜が苛立ち、重い蹴りで敵を怯ませる。秋田の声が響き渡った。
「退却!! 火力のある部隊と交代します!」
消耗した身体で必死に足を動かせど、地響きが背後に迫るのがわかる。
「長谷部さん、はやく! はやく!」
鯰尾が焦った声を出して尻を叩く。
「か、簡単に言うな!」
「あはははは、もうなんだこれ。こんな敵、反則でしょ」
「はっ、正気か」
「正気も正気ですよ。なんかもう凄すぎると逆に笑っちゃうな、ゴホッゴホッ……」
肩の上が痙攣するように震え、不可解な笑いが伝播してくる。
「くそっ、息が、苦しいんだ……笑わせるな!」
「あはははははは」
状況は待ってくれない。自分が何ものであろうと、戦い続けるしかないんだ。
壁のように屈強で濃い森の中を敵を撒くように走り抜け、見えて来た転移装置に鯰尾を放り込み、ついで長谷部も必死にしがみついた。
ぺっと吐き出され転がった汗だくの身体に砂が張り付く。錆びついた遊具が幾つも目に映り、力を抜く。拠点近くの転移施設に戻ってこられたようだ。
「ふ〜あとは他の部隊に任せましょう。さーて、いつものいくよ。僕たちの目的は別々!」
秋田が出した掛け声に隊員が続ける。
「いち、強い力」
「に! あまーいお菓子!」
「さん! 遊べるお金!」
「よん、温かいご飯」
「……はー、はー」
「ろく、自由! もう長谷部さんは秘密主義なんだから。はーい、では解散! 鯰尾くんと長谷部さんは修復室ね」
にっこりと笑う秋田の顔を見上げ息を整える。秋田を見ていると眩しい。傷ついた身体は修復室で清められた培養液に浸されれば細胞の活動が促進されすぐ元に戻るが、まだ痛みを甘受していたくてぐずぐずと横たわったままぼんやりと周りを眺める。
強い風にキィキィと耳障りな音を立てて揺れるブランコ。傷に擦り込まれる砂場の砂。未知の生物が官能的な曲線を描く塗装の禿げた滑り台。赤茶けた錆だらけの低い鉄棒。降り注いでは顔をくすぐる花びら。
約束まで一年。
あいつは、どんどん人ではなくなっていく俺を俺だと認めてくれるだろうか。あいつはあいつのままだろうか。小夜に乾いた血がこびりついた手を引かれるまで、清々しく散ってしまう桜を前にそんなことを思っていた。
3
「何号室だ!」
「確か、一〇五!」
光忠曰くクラシックカーだと言う鈍足のポンコツから飛び降り、長谷部は大倶利伽羅がいるという施設に走り込んだ。古ぼけた病院のような外観をした建物は、軍関連の施設にしては驚くほど警備がゆるくのどかな空気すら漂っている。鈍く光る廊下を部屋番号の表示を頼りに進んでいく。後ろから「走らなーい!」と叫ぶ高い声や、光忠の「ちょ、ちょっと待って!」と制止する声も聞こえるが、すまない今は聞いてやれないと長谷部は走る。
今までどうしていたんだ? 元気なのか? 様々な思いはあるけれど、会いたい、やっと会える、それだけが長谷部を駆り立てる。
一〇五。表示を視界にとらえ、部屋にノックもせず飛び込んだ。日当たりの良い室内は白い壁紙も相まって眩しく、大きな家具はベッドに机だけでひどく簡素だと感じた瞬間、ぶわり、胸にかつての光景が去来する。長谷部たちが過ごした養成所そっくりな間取り。記憶に残る初夏のように爽やかな風が頰を撫で、カーテンが揺れている。窓のかたわらに佇む人物の背中で赤と茶に彩られた髪がなびいているのを認識して初めて、懐かしい匂いに包まれていることに気付いた。
外を見ていた人物が緩慢に長谷部の方を振り向く。
────大倶利伽羅、やっと会えた。
「お、」
「あんた……だれだ?」
眉を下げ無垢で明け透けな表情で首を傾げている男に、喉がつまって頭が真っ白になった。
「……お、くりから」
「おれをしっているのか?」
キョトンとした顔が小気味よく変化し、つぶらな瞳がきろきろと長谷部を見つめる。大倶利伽羅のこんな幼い表情など見たことがない長谷部は、嫌な予感で手が震えるのを感じた。鉛を飲み込んだかのように違和感が臓腑を重たくし芯が冷える。懐かしい色も匂いも声も霞んでいく。
この男は誰なんだ?
からからになった喉を軋ませ何とか言葉を振り絞ろうとしたところに、背後のドアが開く音がした。
「はっはっ、もう、長谷部くんは速すぎだよ」
「……光忠!」
ふわり、そのかんばせに花を咲かせた大倶利伽羅が、長谷部の横を通り過ぎ光忠に駆けよる。長谷部は歯を食いしばり立っているのが精一杯で、見開いた目にただただカーテンの羽ばたきを映していた。この目には白につけられた手垢の汚れすら見通せる。彼の手は何を想い幾度もそこを握りしめ外を見ていたのか。戸惑う光忠の声と聞いたこともない感情を曝け出した大倶利伽羅の声がこだまする。混乱した頭は何の答えも見つけ出せないけれど、何もかも変わってしまったことだけはわかった。長谷部も大倶利伽羅も、あの夏の日からは、遥か、遠ざかってしまったのだ。じくり、陽の光が目にしみて、ひとり目を伏せた。
談話室で置き物のように座り込み、鈍く光るリノリウムの床を眺める長谷部の視界に、同じくよく磨かれた革靴が入り込む。見上げれば常日頃のふざけた格好とは打って変わってぴしりとスーツを着こなした鶴丸国永がいた。
「すまん、遅れた……カラ坊は?」
「ちょっと興奮してしまって、介護士さんと一緒にいるよ」
何かがあふれてしまいそうで口を開くことすらできない長谷部の代わりに、隣で落ち着きなく身体を揺らしていた光忠が答えた。
「大丈夫なのか?」
「ああ、興奮って言ってもなんというか……はしゃぎすぎちゃったみたいで、今は部屋で大人しく遊んでいるよ。その……伽羅ちゃんは……」
「それは俺の方が詳しいだろう。ちょっと長くなるが」
ネクタイを緩めながら長谷部の隣に勢いよく座った国永は、珍しく浮かない顔で話し出した。
「本部の方に潜り込んでツテを頼って探ってきたんだが、カラ坊に関する報告書にはこう書かれていた。──大倶利伽羅二二三一番、神降ろしは成功したが能力が解放されず。検査の結果、記憶の退行が認められたが原因は不明。本来、身体に形成される刀身には柄が確認できず。よって四月三〇日、養護施設(ト)に送致──とさ」
「神降ろしの失敗……?」
「ああ、俺たちはリスクについて説明されていなかったが、少なからず失敗はあったようだぜ。こんな施設があるのが証左だ。ただ、付喪神を降ろした存在を粗略には扱えないってんで、ある意味丁重に保護されているのは、良し悪しだな」
「……記憶の退行とはなんだ」
長谷部が絞り出した声はとても耳障りにかすれていて、国永が目を細めた。
「そのまんまさ。調査したやつらの見解ではカラ坊の自我が付喪神の力に押しやられて幼くなっているんじゃないかって。まあ、きっとあいつらも確かなことは何もわかっていない」
「その、伽羅ちゃんは僕のことはわかったけど、長谷部くんはわからないみたいで……」
「……んじゃ、俺のこともわからないかね」
俯く長谷部の髪を、さらり、耳にかける白い指。
「戻るよね、きっと」
「それはわからない」
国永の楽観を許さない言葉と光忠の揺れる瞳が、どうにもならない状況を如実に表していた。
「……どうして伽羅ちゃんに限って……失敗したんだろ」
「さあな、神の怒りにでもふれたかね」
空気を和らげようと冗談交じりに言ったのであろう国永の言葉がいやに長谷部の胸にしこりを残す。ひやりと頭の芯が冷えた。長谷部と大倶利伽羅が一線を越え、肌をふれあわせた日々がよみがえる。どうしてもふれていたい。求め求められるままにお互いを愛おしんだ夜。
美しい存在を望んではいけなかったのだ。
俺があいつを変えてしまった────。
「お……俺のせいだ」
戦慄く唇から抱えきれない罪悪がぼろぼろとこぼれていく。
「俺は、あいつと、肌を、あ、あわせていた……俺が、あいつを、汚して……しまった」
びくりと隣で肩を揺らした光忠が、呆然と呟く。
「ちょっとまって……君たちは何を……」
突如、強い力で長谷部の胸倉を掴んだ。
「き、君はっ、……あの子になんてことをしてくれたんだ!!」
すまない。すまない。
潤んで燃える金色を見つめ、うわ言のようにそう呟くことしかできない。いっそ好きなだけ殴ってくれたならいい。
「落ち着け! しちまったことは仕方ないし、時間は戻らない。あいつらの言う禁止事項の正当性だってあやふやなもんだ」
光忠を引き離した国永の冷静に透き通った瞳が、長谷部の逃げを許さず引きとどめる。
「まぐわいをしたか?」
「……いや」
「合意の上だな?」
「……ああ」
「じゃあ、カラ坊だって子供じゃないんだ。あいつの意思なら仕方ない。これからを考えるしかないだろ」
激情で身体を震わせた光忠が噛みしめていた唇を開いた。
「……僕は、僕は、……僕の家族をそんなふうに簡単に割り切れない!!」
「ちょっと静かにしてくれる」
有無を言わせない響きを持つ高く澄んだ声が三人の動きを止めた。桃色の長い髪を一つにくくった三十代ぐらいの女性がこちらを睨みつけている。細い身体を覆うエプロンの胸元には「施設長 乱」の文字が見えた。
「走るのもだめなんだからね」
歴戦の猛者のような静かな迫力に三人は姿勢を正した。
「でも良かった。あの子、なかなか面会がないから近親者がまったくいないのかと思った。もしくは、いるのに来ていないなら殴ってやろうかと」
「いや、俺たちは同僚というか……」
国永ですら、しどろもどろに答えるなか乱はにっこりと笑って返す。
「同僚でもいいよ、縁のある人ならだれでも。また来てあげてね。その方が症状も良くなると思う」
綺麗に一礼して乱がいなくなると、気が抜けたように三人はソファに身体を埋めた。
「ちょっと僕、頭ひやしてくる」
すぐさま立ち上がり歩いて行ってしまう光忠の背中に、長谷部はかける言葉がなかった。彼の家族に等しいものの時間を奪った事実は消えない。
「あんまり気にするな。ミツ坊の過去からすれば喪失に敏感になっちまうのも仕方ない」
そう、彼は両親と妹を幼い頃に亡くしているのだ。俺はここについて探ってくるわ、そう言って長谷部の頭を軽くなでて国永も行ってしまう。長谷部は押しつぶされそうな身体を抱えて座っていることしかできない。苦しい呼吸をかろうじて紡ぐことしかできない。
頭によみがえるのは神降ろしの光景。
春の日、禊を済ませて白い襦袢に身を包み通された部屋で待ち受けていたのは、
────満たされた水と絨毯のように浮かぶ白い菊の花弁だった。踏み込めば踝までつかる水は鋭い感触の冷たさで身体がひとつ震えた。くそっ。長谷部は思わず苛立ちのままに水ごと花弁を蹴とばし悪態をついたものだ。まるで死装束ではないか。長谷部は死ぬためではなく生きるための選択をしたはずだ。覗き込んだ水鏡、花弁の合間から、悲壮な顔をした男がこちらを見返していたのを覚えている。長谷部の神降ろしは成功したが、身体は確かに変わってしまった。以降ほかの兵士と同じように成長は止まり、髪も爪ものびなくなった。質量が固定され肉体年齢が止まるという話で、成長に使う分の熱量を修復のための細胞活性に使うらしい。後出しの説明に歯噛みし、そして、諦めを覚えた記憶も鮮明に残っている。事前に説明されたところで、こうなる以外に生きる道がないのも確かなのだ。それが、こんな。簡単に諦めた飼い殺された生き物特有の従順さに拳を握りしめた。
噛みしめた唇がぶつりと裂け、舌の上に鉄の味が広がる。空調が効きすぎて冷えきった空気を伝わり、遠く無邪気な笑い声が聞こえた。戦場とは遠いクリーム色した穏やかな空間で、陰っていく陽に縫い止められた影が徐々に倒れ伏していくのを眺めていたら、長谷部の目にまっさらなスニーカーが映った。
「ん」
目の前にいたのは大倶利伽羅で。突然、花を一輪、押しつけられて困惑する。
「そんなにきれいな色してるんだから悲しそうなのはよくない。ほら」
「…………ありがとう」
もごもごと返した感謝に大倶利伽羅は幼い笑みを見せ、問う。
「あんた、なまえは?」
与えられた花を握りつぶしてしまわないように努めて力を緩め、長谷部はやっと答えた。
「……へし切、長谷部」
神を降ろした身に与えられた名前、ふたりが出会った何ものでもなかった頃の名は言えなかった。
「へ、しきり、はべせか」
「……はせべだ」
「ん……は、は、せ、べ」
「はべせでもいい」
もはや何と呼ばれてもかまわない長谷部に大倶利伽羅は首を振り、一音一音確かに発音した。
「は、せ、べ……名前はだいじだ」
きゅっと胸が縮む。ああそうだ。大倶利伽羅とはこういう男だった。ようやっと口を笑みの形にした長谷部は尋ねた。
「この花の名を知っているか?」
「しらない」
「雪の下」
「ゆきのした」
「そう」
物知りなお前がかつて教えてくれた。あの時のお前はもういない。
唇を震わせる長谷部に大倶利伽羅はポケットを探ると何かを取り出した。
「はい。光忠がいっていた。おなかがすくとさびしくなるって、甘いものは元気がでるって」
受け取ることもできずに戸惑う長谷部に、褐色の指はさっさと袋を開封し「あーん」と飴玉を差し出す。
「アタリだ。ぶどうはおいしいから一番好きだ。……きらきらした目といっしょ」
光を透かす薄紫色の飴玉が大人にしか見えない指に挟まれ煌めく。強張る唇を僅かに開くと押し込まれた球体を舌で大切に包み込む。眼前の満足げな笑顔が眩しい。何の憂いもなかった少年時代、彼はこんなふうに笑っていたのだろうか。
「──帰るぞ」
いつのまにか白と黒の色彩を持つふたりが離れたところからこちらを見ていた。腰を上げ歩き出した長谷部の背中に大倶利伽羅が気負いのない言葉を投げかける。
「またくる?」
「ああ、待っていろ」
明るい声で言う国永、苦しい笑みで頷く光忠。端正な顔を極めて美しくほどかせ笑う彼がうまく笑えていないのを初めて見た。長谷部がそうしてしまった。振りむけないまま逃げ出してしまいたい足をとどめる。挨拶のようなものだとしても約束はこれ以上できない。じわり舌に染み込む甘露、輝く飴玉ほど美しくも優しくもない硝子玉がはめ込まれた眼窩が熱を持つ。
けれど、泣く資格なんてないと思った。
4
「いくつになっても夏休みってのはいいもんだねぇ」
テラスのちょうど日陰になる場所に、どこから持ってきたのかビーチチェアを広げくつろぎながら国永は言う。ご丁寧にその目はサングラスに覆われ手には水色の棒アイスと、装いは完璧だ。季節はすっかり蒸し暑い真夏の様相を呈し、山の近くにある養護施設は濃い緑と蝉の求愛の声に彩られている。長谷部はポーチに置かれた長椅子に横たわり、ひたすら鮮やかな夏にこの身を責められていた。光の下の濃い影に、からっぽの部屋に残され痩せ細った子供の姿がくっきりと浮かぶ。幼い頃、夏は際限なく噴き出す汗が不快で、喉がからからに乾き、下手すれば脱水症状で頭が朦朧として、間近に潜む死がこわくて嫌いだった。忌避すべき思考を鈍らせる季節だ。
ただ、あの男──大倶利伽羅──にはとてもよく似合う。
過去との別離に近い再会からこちら三人は休日の度に見舞いを繰り返し、八月の夏期休暇、お盆休みともいうが、にあたり施設に泊まり込みで過ごしている。迎え火を焚く相手などいなくとも八月は停戦協定が結ばれていて、律儀に休み、そしてまた勤勉に争いは再開されるだろう。ここにいるとあまりに長閑な空気で戦時中だということを忘れる。休みいっぱい滞在できるように手配したのはアイスで口の周りをベタベタにしている白い男で、「夏休みはカラ坊のところで過ごすぞ」と告げられた時は思わず光忠と顔を見合わせた。
光忠と長谷部はあれからぎこちない日々を送っている。彼は大人だから表立って人にきつく当たるようなことはしない。けれど、長谷部が彼の心に傷をつけたのは確かなのだ。日光を集め熱を蓄えそうな黒い男は大倶利伽羅と手を取りあいあたりを散歩していることだろう。幼い大倶利伽羅を愛しげに見つめる瞳が目に浮かぶ。のんきにしている国永はきっと長谷部に付きあってくれていて、不器用な自分との器の違いを思い知らされる。
か細く呼吸を繰り返し、しばし閉じていた瞼を開けると帰ってきた光忠と大俱利伽羅に飲み物を勧めている国永が九〇度角度を傾けて見えた。ごくり、大倶利伽羅の上下する喉と筋が浮くたくましい腕が子供ではないのだと直情に伝える。ちろり、こちらを見た鼈甲飴色の目が三日月にたわんで、眩しさに長谷部は瞼を伏せた。
「やる」
蝉の嘆きばかりを追っていた耳に柔らかな声が降り注ぐ。おそるおそる開けた目の前には、つるりと艶を持つピーマンが差し出されていた。
「食べろ」
身体を起こし、ぐいぐいと押しつけられて手の内に収まったピーマンを包み込む。
「カラ坊からのみつぎもんだとよ」
生でいくか、からからと笑う国永をひと睨みして「ありがとう」と告げた。今だけでなく大倶利伽羅は度々小さな贈り物を長谷部によこす。暗い顔をしている長谷部が気になるのだろう。大倶利伽羅は優しい。根底にある魂は変わらないことがなおさら胸を締めつける。
「みつぎものかぁ、僕には?」
と揶揄うように光忠が言えば、大倶利伽羅は彼の背後に回り肩を揉む。
「優しいねぇ。俺には?」
便乗して国永がふざけて問うと、じぃと見つめてから光忠の背に隠れてしまう。
「ん? どうしたの?」
「子供は嗅覚が鋭いな」
国永はふっと物憂い表情を浮かべ、勢いよくビーチチェアに寝転がった。呆けて国永にしては珍しい感触の笑みを眺めていた長谷部の手を、いつのまに近くに来ていたのか大倶利伽羅が引く。
「……どうした?」
「あっち、いこう」
少し離れた場所にあるなだらかで美しい稜線を描く山を指し示す褐色の指に戸惑い、助けを求めて国永と光忠の方を伺う。
「カラ坊はお前がいいんだと。俺は子守はごめんだし行ってやれよ」
「ここには自然しかないぞ」
「なら自然でも見てこい」
見た目のとおり先天性白皮症で本来なら日光に人一倍気を付けなければならない国永は、養成所でもいつも念入りに日焼け止めを塗っていたものだ。付喪神を降ろしたことで日光に問題なく当たれるようになったらしいが、日差しが強い日中に出歩くのは気が進まないのだろうと長谷部は気づく。見上げた先にあるいたいけな瞳に誘われるように長谷部は重い腰を上げた。
複雑そうな顔で見送る光忠と電池が切れたように眠りに落ちてしまった国永を置いて、長谷部と大倶利伽羅は畦道を歩いている。つながれた手はそのままに騒がしい人ならざるものの喧騒に耳を傾けながら。記憶が退行した大倶利伽羅は子供の世界を生きている割には、言葉少なで聡明だ。けれど、自分の身体が大きいことや置かれた環境には疑問を持たないようで、考えるのを拒否するように受け入れ興味の赴くまま動く幼い側面もある。ぐいぐいと逸るように引っ張る大倶利伽羅の手は熱く、次から次に噴き出す汗で滑り今にも離れてしまいそうだ。
「……どこに行くんだ?」
「山」
「それは……面白いのか?」
「生き物がいっぱいいる」
日差しに焼かれ続けるよりはいいかと濃い緑色が蠢くこの街の信仰の対象であり、方角を知る目印でもある目的地に向けて、長谷部は覚束ない足を速めた。
山に分け入り影に入った途端、目が眩んで大倶利伽羅の姿が見えなくなる。気がつけば手は別たれていて、少し先をざくざくと進んで行ってしまう止まらない背中。頭が朦朧とし、ふ、と木々の折り重なる奥から光がちらつき、子供を誘う声が投げかけられた気がした。奥に向かう大倶利伽羅を呼び止めようとした声は空気を震わせることなく、きりりと軋んだ胃の腑に溶けた。ならば身体で追いかけようとした長谷部の行く手を、沈むように柔らかな足の下の感触が、足をとるようにのばされた腕のような木の根が、邪魔をしている。傍観者の蝉は囃し立てる。さぁ行け! とばかりに。彼の頬を温める木漏れ日が弾け、山が恨めし気に鳴り、木々が剣戟の響きを上げ、動物が駆けていく音がする。ひたすら前にある背中を追って歩みながらも呼吸音すら憚られ静かに耳を澄ませる。よどむ空気がたまに躍るその度に光も舞い踊り、鼻に抜ける湿った匂いとともに再度、長谷部の目を眩ませた。
不意に響いた涼やかな声、鳥が警告を発する音が耳に入って足が止まる。
カーン、コーン……山の心臓部ともいえる奥底から遠く響く音。
この山は待っているのだ。美しい子供が帰ってくるのを。湿った土が帰っておいでと、先を行くあの子の足裏を撫でている────。
「……大倶利伽羅っ」
「なに?」
「…………何でもない」
繰り返される無垢な表情に、仕草に、長谷部は何度でも打ちのめされる。怒っているかのようでいて細部に優しさの宿る仏頂面はもう見られない。
自然に惑わされていると感じた長谷部が落ち着くために目を閉じ、たっぷりとした時間を置いて再び開けた時、大倶利伽羅は何かにくぎ付けになっていた。視線をたどった先には大きく艶やかな揚羽蝶。葉に止まってふわりふわり黒い羽を動かしたそれは、ふるふると震えてから飛び立った。あっという間に奥へ奥へと飛んでいく。目だけで追っていた大倶利伽羅が身体も使って追いかけ始めると、蝶と少年は瞬く間に加速して駆けて行ってしまう。
行かないでくれ。
思わずのばした手は空を切り、追いかけたくとも一度止まった長谷部の脚は竦んで動かない。千々に乱れてちぐはぐなこころを写すように己の身体すら制御できない。自慢の脚を地面に縫い付けられ、唇を噛みしめた長谷部は行ってしまう大倶利伽羅を見ていたくなくて目を閉じた。長谷部は見ないふりをすることしかできない卑怯な大人だ。その程度ってことさ、結局お前は愛なんか信じちゃいない、と喚き立てる蝉の声が耳の奥でこだまする。
ぐ、と唇に湿った熱を感じた。
魔法のように戻ってきた大倶利伽羅が引きつれた痛みが残る長谷部の唇に指をねじ込んでいる。
「くちがいたいのはだめだ。苦しい?」
瞠目して、唇を柔くほどき、たどたどしく首を振る。舌の先に触れた指はしょっぱくて大地の味がした。
「……大丈夫……大丈夫だ」
目を瞬かせた大倶利伽羅が、とろり目元を緩ませ言う。
「赤いくち、きれいだ」
息を飲んで、長谷部は大倶利伽羅の優しい魂は毒だと思った。スコールのように降り注ぎ溺れさせ、飲み干せばいとも簡単に己の喉を焼く。
途方に暮れた大人が三人、談話室で顔を突きあわせ項垂れている。子供は今、遊び疲れて穏やかな寝顔をお日様の恩恵をたっぷり受けた枕に預けて昼寝の最中だ。
「調査をしているところのやつと渡りをつけたんだが……」
かたわらに置いてあったお手玉を器用にしながら国永が話し始めた。この男のせいで談話室には物が増え、たわいのない玩具を詰め込んだおもちゃ箱のような様相を呈してきている。
「相変わらず、解決への道筋はついていないようだ。ただ、失敗要因として降ろした付喪神に銘がなく号が大倶利伽羅の名前と完全に一致してしまったことと、腕の龍の刺青と刀身に彫られた倶利伽羅龍が一致したことで、付喪神が同調しすぎてしまったんじゃないかという話だ……ま、それも何の実証もできない憶測でしかない。様々な要因が重なった結果というていのいい文言だけが返される。処理することが膨大すぎて、僅かな失敗例にかかずらってはいられないようだ」
実験ばかりしているんならもっと有用なデータをあげろってんだ。手からこぼれ落ちてしまったお手玉を拾いながら国永はぼやく。兵士になる人間は養成所に入る時に家名を捨てることになっている。長谷部たちはそれより以前に捨てられた子供だったから、持っているものは己の名ただひとつだったが。そして、付喪神を降ろす時に新たな号を与えられる。不思議なことに元の名とそう変わらないものがほとんどで、それも付喪神との相性、適合性、というものかもしれない。そうして、国永は鶴丸国永に、光忠は燭台切光忠に、国重はへし切長谷部になった。
貧しさゆえに離れ離れにならざるを得なかったという大倶利伽羅の両親が、大事に付けた名と加護を祈って彫られた龍が要因になったとは思いたくない。
唸るような声が長谷部の向かいから漏れた。
「まるで幼い頃の焼き直しだ。ひどく胸がつまる……伽羅ちゃんは強くなることを何よりも望んでいた。努力して、やっと…ここまで強くなったのに」
いつのまにかお手玉のしゃりしゃりとした涼やかな音は止んでいた。知っている。大倶利伽羅は手放さざるを得なかったものを守る力を得るために強さを望んでいたことを。
「……あの頃よりずっとまっさらなんだ、伽羅ちゃん。もしかしたら、つらい経験も覚えていないのかもしれない」
隣からお手玉を握りしめる音がした。長谷部は浅くなりがちな呼吸を努めて深く細くする。このまま精神が成長することができたとしても彼はもう戻ってこないのかもしれない事実が、肩に重くのしかかった。
「特別だ」と悪戯っ子のような顔で笑う目の大きな介護士の青年──名札には貞チャンと書かれていた──に礼を言い、灯りの落とされた大倶利伽羅の部屋に忍び込む。今宵は月が冴えた光を放ち、電灯をつけなくとも窓からの光だけであたりを視認できるぐらい明るい。氷枕に頭を乗せ、額に汗を光らせる大倶利伽羅の寝顔は苦しげで胸が痛む。夜になって熱を出した大倶利伽羅との面会は本来なら規則違反になるのだが、落ち着かない長谷部に青年が言った。
「感染症の可能性があるから規則上、面会はダメなんだが、おおよそからちゃんのは違う熱だ。長谷部くんついててやってよ。熱を出した時にはそばで手を握っててやる奴がいないとな」
もちろん部屋を出たらうがい手洗いしっかりな。そう快活に言い長谷部にふれることを許した。
音を立てないようにベッドのそばまで椅子を移動させ、滲む汗をタオルで拭ってやると寝顔をじっくり眺める。自分の罪に怖気づいた長谷部は長い間、大倶利伽羅の顔をしっかり見つめることができていなかったように思う。あの頃と変わらない寝顔。大倶利伽羅の皮膚の下でこころは今どんな形をしているのだろうか。
すう、とベッドの上に細く光が差し込んで、長谷部は肩を揺らした。振り返れば、乱がドアの隙間から室内を覗き込んでいる。
「すまない、」
慌てて立ち上がった長谷部の動きを、人差し指を口の前に立て、しーっと空気を震わせることで封じた乱は、するり、猫のように滑り込んできた。手には桃がひとつ。手際よく隅に置かれた丸椅子を長谷部の隣に並べて座り、首にかけていたタオルを膝の上に敷いて揺れる花のように笑って言った。
「食べる?」
虚を突かれた長谷部に潜めた声で囁きかける。
「大倶利伽羅くんがもし起きていたら食べるかと思って持ってきたんだけど、ダメになりそうだから、誰でもいいんだ」
細い指が器用に薄い皮をよく切れる包丁のように剥いていく。
「あなたたち、ずっと大倶利伽羅くん探してたんだってね。今度連絡を怠った担当しかっとくから」
丸裸にした桃にためらいなく沈められた指が、果肉を割り開きちぎった。
「はい」
したたる果汁をタオルに染み込ませ口の前に差し出された一片に、長谷部は躊躇ったのち齧りついた。熟れきった桃の甘さが尖ったこころを撫で上げる。
「大丈夫」
強く鋭いと同時に灯る蝋燭のような温かみのある光を帯びた目が、長谷部を見つめている。
「上は正直、信用ならない奴も多いけど、ここにいる子たちはボクが守る。だから……大丈夫」
この瞳を知っているような気がした。それは、一心に前を見つめる秋田の瞳────。
「ん、んぅ」
大倶利伽羅が苦しそうな呻き声を上げ、ふたりはじっと目をこらす。彼の身体を責め立てる熱に苦しめられ、眠りながら踠いている。乱が空いている方の手で肌蹴てしまったタオルケットをそっと掛け直し、ぽん、ぽん、優しくリズムを刻む。
「よく熱を出すんだ。身体にこもってしまったみたいな熱……戦っているんだろうね」
がぶりと桃にひとくち齧りついて乱は鮮やかに笑った。
「長谷部さん、笑おう」
その声には花開く確かな意志が感じられて、長谷部は思わず背筋をのばした。鼓舞された身体が必死に口の端を上げる。けれど、どうしても眉が下がり長谷部は上手く笑えている気がしない。
「今はそれでもいいよ。苦しくても笑おう」
笑いたい。笑える強さが欲しい。いつか笑えるように。後ろばかりを向かず戦わなければ勝ちは巡ってこない。泣き笑いのくちゃくちゃな顔で長谷部は大倶利伽羅の手を取った。
「長谷部さんもほどほどにして、ちゃんと寝るんだよ」言い置いてまた春風のように乱は消えた。跪いた長谷部はベッドに顎を預け、必死で熱く柔らかい手を握りしめる。ぷつりと糸が切れるように眠りに落ちるまで、苦しい苦しいと踠き戦う寝顔を見つめ続けていた。
翌朝、熱が下がった大倶利伽羅がそばにいる己を見つけて無邪気に微笑むのを長谷部は目を逸らさず受け止めた。藤色の瞳は太陽を反射して輝く金色の光を柔く包み込んだ。
5
食堂の窓から見える枝に、ぽつり、インクを落としたように染まる葉がまじり始めたのを目に映し、秋が近いのだ、と軽く呆然とする。じわり伝わる温度に、安堵のため息が漏れるようになった温かい紅茶を長谷部は丁寧に口に含んだ。いずれ全てが燃えるような紅に染まるのを思い浮かべる。つられてあの男の紅に移ろう柔らかにうねる髪を思い出していたら、目の覚める蒼を持つ小夜が向かいの椅子を引いた。
「まだ……よくはならないの?」
「ああ」
「諦める?」
長谷部は黙って首を振った。
「耐える…時間なのかもしれないね」
どこか達観した印象を与える静かな物言いに頷いて、もうひとくち紅茶を口に含んだ。小夜はそれ以上何も言わず携えていた本を読み始めた。表紙に踊る『生物と無生物の間』との文字を注視し、確かに興味深い題材だと思いながらまた窓に顔を向ける。今日は大部分が出払っていて、緊急時の待機組しか残っていない寮はひどく静かだ。ぱらり、ぱらり、読む速度の速い小夜がページをめくる音が密なテンポで響く。刻一刻冷めていく紅茶の湯気で顔を温めていた長谷部は、青緑色の長い髪が揺れるのが視界に入って、条件反射で眉間に皺を寄せた。
「そう、嫌そうな顔をしないでおくれよ」
苦笑する青江に「すまない。ついこうなる」と正直に言えば、ますます笑みが深くなった。
「君のそういうところ、好きだよ」
はい、いつものお手紙。
幾つか渡された封書をあらためていると、野次馬根性を隠しもしないで青江が首をのばす。
「恋文があったかい?」
「馬鹿言え。上からの督促やら通知ばっかりだ」
そっけない茶の封筒に印字された文字で、開けなくても何が書いてあるかはおおよそわかる。いつも通り、形ばかりを整えたどうでもいい通知文章だろう。
「ふーん、ロマンがない。僕はこの時代に手紙なんてアナログな方法で届けられる想いが好きなんだ。届くかどうかわからないのにねぇ」
あれ、これはお宝かな。重ねられた封書の束の一番下に隠れていた、チラリと覗く桃色を指差し、ふわり笑った。
「ふふ、見届けたいけど、それは無粋か」
じゃあね。ひらひらと手を振り青江が出て行くと、ほんの少しの期待を持って差出人を確認する。そこには宗三左文字の名前が。少しの落胆とともに首を傾げ、かつて同じ養成所で学んでいて度々長谷部と口喧嘩のような応酬をしていた彼はどこに配属されたのだったかと記憶を探る。かさり、便箋を開くとあの桃色の髪を思い出させる甘ったるい香りがした。
『無理難題を押し付けるあの自由人をどうにかしなさい。上から睨まれていますよ。あと、うちの職場をうろうろしていた怨念のこもってそうな手紙を回収しました。あなたが処分しなさい。』
確か彼は同期の中では珍しく福祉課に配属されていたはず。この〝自由人〟とは国永のことだろうか。いや、性格的に国永しかいない。大倶利伽羅のことで大分無茶をしている彼には負担をかけすぎているかもしれないことに今更気づいた。怨念のこもった手紙? 手の込んだ嫌がらせかと封筒の中を探れば、もう一通、差出人の名前すら書かれていない封書が現れ、封筒の姿に既視感を覚えた長谷部は唾を飲み込んだ。
静寂に包まれた空間に紙の擦れる音だけが響く。震えていることが小夜に伝わらないように、中身を改められたのか封の開いてしまっている封筒から、長谷部は慎重に便箋を取り出した。
『もうすぐ行く。待っていてくれ。 大倶利伽羅』
たった一行だけの流れるような字が長谷部に絡みつき首を締め上げる。滲んだ消印から読み取れるのは三月の『3』という数字。神降ろしの前に彼が送ったのであろう言葉が、今、長谷部の身体を侵食し細胞を沸騰させる。椅子が擦れる耳障りな音を響かせて立ち上がり、身のうちでぐうと張り裂けそうに膨らむ激情を口から吐き出した。
「国永!! 光忠!!」
常になく大声を張り上げた長谷部を、小夜が驚きでいっぱいの目をして見上げている。隅にある畳のコーナーで、据え置かれた無音のテレビの前に寝転がっていた国永が振り向き、奥にある厨房にこもっていた光忠がドアから顔をだす。
「出陣するぞ!」
きょとんとしたふたりを置いてきぼりに長谷部は宣言した。
「おいおい、要請が来ていないのに行く奴があるか」
駄々をこねる子供を宥める仕草さながら胸の前で開いた手を揺らし、長谷部に向かってくる国永の目をじっと見つめる。お前ならわかってくれるだろう、という思いを込めて。
「…………いや、おい……そう見るな」
唸って頭を掻いた国永は観念したように深いため息を吐き、「俺はお前の目には弱いんだよ」とぼやきながら隠し持っている携帯端末を取り出した。
「国永さんは長谷部くんに甘すぎるんだよ」
じとり、目を眇め呟いた光忠のエプロンをはいで、長谷部はふふんと鼻を鳴らしてやった。
苦しさは消えないが、悲しんでばかりいてやるか。
「ん?」
出陣計画を取りまとめる調整課、国永曰く何でも屋だという前田に簡単なところでいいからと、国永が頼み込み獲得した任務。指示に従い降り立った戦場には何の気配も見当たらず、三人は顔を見合わせた。
「調査だけの任務だったか?」
「いや、それほど敵は強くないと思われるが交戦が予想される地域だと……」
「…何か聞こえるな」
北の方角から、ぶうん、とモーター音に似た音が近づく。オートマタタイプかと身構えた長谷部の目に遠く黒い雲が見えた。徐々に姿が捉えられるようになると、小さな羽虫のようなものの集合体だとわかる。
「うーん、僕、虫型は苦手なんだけど」
「確かに俺たちの速さでは分が悪いな」
「しかも新型だな……どこかで?……スズメバチの改良種か!」
「何だ? その可愛らしい名前のやつは」
「人を死に至らせることもある殺傷能力の高い虫だ! 本当に節操がない……」
兵器開発が科学者たちの実験場になっているのがよくわかる。偉大な能力を持つ彼らの好むと好まざるとに関わらず。
「ん? つーことはあれか、小さいけれど強い、得体がしれない、異様に数が多い、相性が悪い。相手しない方がいいかね」
「そうだな……あ、」
退路を求めて振り返った長谷部は、思わず間抜けな声を出してから目を眇めた。正面には挟み撃ちするように人型の敵が迫っていて、瞬時に腹を決め走り出す。
「片付けるぞ!」
過去、何度も切り殺してきた経験のある慣れた敵と対峙し、長谷部は衣を翻し先手必勝とばかりに斬りつけた。慣れたものが相手ならば、三人のコンビネーションも悪くない。長谷部が隊列を分断し速さで撹乱すると、国永がまるでフェンシングのような意表をついた突きを見舞ってリズムを崩した後に斬りふせる。しんがりを務める光忠が未だ動ける撃ち漏らした敵の息の根を完全に止める。前田の予想通り大した力もない敵を簡単に片付けると、忘れかけていた羽音を思い出し、長谷部は一目散に駆けた。
「ぐずぐずするな! 走れ!」
「そうだった!」「あ〜〜」と背後に声がついてくるのを聞きながら、羽音からの距離が充分にあるのも確認して、身を隠せる森に進路をとった。
障害物を切り開きながら全力で走っても、空を行く相手の方が速いのか、じわり、じわり、距離をつめられている気がする。加えて後ろのふたりの息もどんどん荒くなる。
「はっ、はっ、ちょっとっ、長谷部くんの足には流石に、……無理、」
「あーしつこいやつらだ!」
耳障りな羽音が焦燥を煽る。転移装置までの距離を考えると苦しいかもしれない。酸欠の頭で必死に計算していると不意に肩を引かれた。
「なっ」
かろうじて足は止めなかったが、両肩にずしりと重みがかかっている。どうやら後ろのふたりがたなびくストラを握っているようだ。
「おい!」
「疲れたから引っ張ってくれ」
「馬鹿言うな!」
「ま、前から、思ってた、んだけど、この布、何の、意味があ、るの?」
「息が苦しいならしゃべるな!」
馬車馬のように手綱を引かれ走り続ける長谷部の視界に湖が見えた。羽音はもう間近────、
「……水に潜伏するぞ!」
いちかばちか、レーダーによる追跡機能が付いていないことを祈りつつ長谷部は息を吸い込み水面に飛び込んだ。足がつくぐらい浅い湖で全身を水の下に隠した三人はひたすら息を止め潜水し続ける。長いような短いような時間が流れると、ジタバタと限界を訴えた国永が浮上した。光忠と長谷部もあとを追う。
「ぷはっ」
「どうやらやっこさんたち行ったようだぜ」
「は〜、単純なやつで助かったね」
「とりあえず退却するか……」
岸に向かって泳ぎ始めようとしたところで光忠が声を上げた。
「ちょっと、国永さんいたずらはよしてくれないかな」
「俺は何もしちゃいないぜ」
「え? だって足に何か……」
ゴミにでも引っかかったのかと国永と長谷部がもがく光忠を挟み込めば、彼は足に絡みついていた何かを力づくで引っ張り上げた。跳ねた水に思わず閉じた目を長谷部が開くと、そこには。
「タコ? 何で湖にタコが、」
予想外のものに三人が見つめあった瞬間、ぶしゅうっ、黒い液体が吹き出す。発射元はもちろん光忠の手の内で身をくねらせるタコで。
「おいおい、これは驚きだ……」
ストレスを発散するつもりが飛んだことになった。やはり、自分はトラブルメイカーなのかもしれないと、痛む目をつぶって長谷部は深いため息を吐いた。
「おい、運転が雑だぞ」
「政府の車だし、いいんじゃない?」
「お前たち似てきたな」
「「は?」」
「気が合ってるじゃないか……」
あのあと戦場で、哀れなタコもどきは怒りに震える光忠の手で握りつぶされ、ぶちゅりという嫌な音と、ふふふという不気味な笑い声が隣から聴こえて長谷部は寒気で身を震わせた。どうやら吐き出された墨は毒を含んでいたようで、洗い落としてもじくじくと痛む目を開けると、長谷部の視界はぼやけたままだった。身長の関係で長谷部と国永は目を、光忠は喉をやられ、それでも戦果は必要かと三人はやけになって水底をさらってタコを潰しまくった。かしましく言い争いながら大倶利伽羅のいる施設に向かって車を走らせている今も長谷部と国永の視界はぼやけ、光忠の声はすかすかに空気が抜けたような音だ。
療養という名目で休暇をもぎとった国永の手腕が思い起こされる。転移装置近くのブランコに座り、光忠に端末で前田にコールするように指示すると、不確かな視界でブランコを漕ぎ軋んだ音を響かせた。光忠が手袋の先を噛み、貼り付く手袋を脱ぎ捨てて手際よく操作しているのがぼやけた視界では他人事のように映る。それよりも、不明瞭な視界だとブランコが立てる音が嫌に頭に響いてしょうがない。長谷部はひっそり顔を顰めた。
「おー前田か? うん、新種のタコみたいなのに遭遇してな。あ、データは上がってる? 毒は? 数日で自然治癒するレベルかー。……ふーん攪乱目的か。じゃ、俺と長谷部と光忠は治るまで休暇とるからよろしく~」
電話の先で前田が何かを叫んでいたように思うが、朗らかな笑みを浮かべているのがわかる声で一方的に言い放つと国永は端末をしまって勢いよく立ちあがった。
「じゃ、さっさと逃げてカラ坊のところに行くか!」
その後、光忠が愛車にこのぐちゃぐちゃに汚れた姿で乗るわけにはいかないと駄々をこね、軍の車を半ば強奪するように借りるという経緯もあったのだが。ともかくそうして三人は毒が抜けるまでの期間、大倶利伽羅が暮らしている施設で療養するべく元気に車を走らせたのであった。宗三にはまた嫌味を言われることになりそうだ。
「だいたいね! 長谷部くんは突然すぎるんだ」
「意表を突くのは得意だが」
「そういうことを言っているんじゃない。溜め込むから突然爆発するんでしょ!」
「お前は簡単に無様をさらせというのか!?」
「もー話が合わない! 国永さん通訳してよ!」
「いやまぁ、楽しそうでいいことだ」
「急に面倒くさがらないで!」
後ろから「ちょっと! お風呂にはいってきなさーい!」と叫ばれてもどこ吹く風、真ん中にいる光忠に手を引かれる形で、言い合いながら三人は大倶利伽羅の部屋に向かっていた。視界はぼやけているが見えないわけではないと言っても、光忠は手を離さなかった。
声を聞きつけたのか貞宗が扉を開けて出迎えたようで、大きな人影と「にぎやかだな」と笑う声が聞こえた。光忠の馬鹿力で引きずられながら部屋に入ると、「どうした?」と貞宗が異変を感じ取って訝しげな声を出す。三人とも全身びしょ濡れで擦り傷と謎の液体にまみれ、酷いありさまだからそれもしょうがない。
「いや、ちょっと、お仕事で色々あってね……」
「俺と国永は目を、光忠は喉をやられているが、まあ……大丈夫だ」
「はは、しばらく世話になるぜ」
大倶利伽羅の部屋特有の穏やかで優しい香りがすると長谷部が思った刹那、何かが壊れる音が響き渡った。
「伽羅ちゃん!」
「なんだ?」
「あ~動くなよ。コップも触るな。あんたたちもそのままな」
大倶利伽羅が取り落としたのだろうコップを片付けるべく貞宗が退出し、静寂に包まれた部屋に、ひくり、しゃくりあげる声が響いた。はっとした長谷部の目に映るのは、俯き震える大倶利伽羅の輪郭で。
「伽羅ちゃん……」
「どうした? どこか切ったか?」
ひっく、ひっく、と徐々に大きくなる泣き声は本当に悲しいと伝えていて、長谷部の胸を締めつける。思わず差し出した長谷部の指を涙で濡れた大倶利伽羅の手が握りしめた。
「痛い、のに、どうして笑う? あんたたちも、いつか、消えてしまうのか? ……俺を、置いて、いかないで」
まっすぐな思慕が胸を刺す。ひとりで生きてきた長谷部たちは何の疑いもなく物騒なこの日常を受け入れてしまっているけれど、家族というものがいたのなら、こんな風に泣くのだろうか。泣かせたくないと思うのだろうか。見知らぬ感覚への困惑と、この手からこぼれ落ちてしまった物への切なさと、少しの甘さが心臓から手足の先まで広がり痺れを残した。
泣き疲れて眠ってしまった大倶利伽羅の輪郭を毛布の上からなでる。何が真かもわからない世界で、長谷部たちはまっとうな感覚というのがわからなくなっているのかもしれない。けれど、熱い体温を持つ掌の下の身体は現実で、惑わされずにしっかりとここに在る。己が迷ってしまわないように見つめていたい背中が。
光忠がいたさっきまでは存在がうるさくて賑やかだったのに、今はとても静かだ。
『寝かしつけるのも手慣れたものだね』
光忠がいつもの美声とはかけ離れた声で言うのに図らずも笑みがこぼれるが、続けられた言葉に長谷部はピシリと固まった。
『まるでママみたい』
『おい、気持ち悪いこと言うな……お前の方がぴったりだろ?』
『は? かっこよくて頼もしい兄の座は譲らないよ』
話が合わないふたりのまた始まってしまった口喧嘩は、貞宗に呆れた顔で諫められるまでぽつぽつとテンポ悪く続いた。
時折聴こえる鈴虫の唄に懐かしさを覚える。長谷部と眠る大倶利伽羅、ふたりきりの部屋、この身体で今を生きることの意味を考える。うねる髪に指を通してその感触を愛おしみ、穏やかな寝息に胸を締めつけられ、頬に頬を寄せ柔らかさに安堵する。
見ていたい。お前の姿を見ていたいよ、大倶利伽羅。
振り切るように長谷部は立ち上がり、眠る子を残して、静かに部屋を出た。
6
しゅるり、きぬずれの音と僅かにベッドが揺れた振動で長谷部の意識は浮上する。薄く開けた目に映るのは、部屋を出て行く人影。長谷部たちが施設で療養を始め、同時に強く大倶利伽羅にねだられ長谷部が一緒のベッドで寝るようになってしばらく経つのだが、彼は空が白み始める頃合いに、まだ薄暗い部屋をこっそりと抜け出す。いまだ子供の世界を生きる彼は秘密にしたいようだが、眠りの浅い長谷部はその行動に気付いていた。
微睡みながら手を這わせ、シーツに残された温度をなぞる。
どこへ、と言う疑問は貞宗が内緒だと言いながら長谷部に囁いたことで早々に解けた。眼裏に浮かぶ、森を走りリズミカルに息を吐き出して鍛練する大倶利伽羅の躍動する肉体。お守りがわりのカーンの梵字が入ったネックレスも同時に跳ねる。
それは記憶の中の彼で、しかし、きっと今も同じように走り込み身体を鍛えているのだろう。昔も今も、強くなるために彼は走る。長谷部は彼のそんな魂が愛しい。
噛み殺せない欠伸をひとつして、ひとり分の熱が足りないことに、ふるり、寒さを感じて丸まった。
大倶利伽羅の匂いに包まれ、どうやら長谷部は結構な時間うとうとしていたようだ。またベッドが軋んで覚醒した。帰ってきた大倶利伽羅が布団に潜り込む気配がして、目は開けず息をひそめる。大倶利伽羅の熱い手が最初は様子を見るようにおずおずと長谷部に触れ、次第に強い力を込めて抱き込むのを感じる。
同じ布団で寝ることをねだった割には、彼の態度はよそよそしく、眠りにつく時には長谷部に背を向けているのだが、朝の鍛練後にはこうやってしがみつくのだ。火照った肌の感触と汗の匂いに、寝たふりをしている長谷部は苦しくてたまらなくなる。きゅうとパジャマを握りしめるこの手は、きっとまた硬く厚い皮膚を持つようになるだろう。それがいいことなのか長谷部にはわからない。寝たふりを続けたまま、すり、と僅かに頰を熱い身体に押し付けた。
色づいた葉の深みが増し、圧倒される色彩に囲まれたポーチには、いつのまにかビーチチェアの数が増えていた。幾分の肌寒さを感じつつも、日向に場所を移動させ光合成よろしく国永と長谷部と大倶利伽羅は、身体を横たえてゆったりとした時間を過ごしていた。光忠は喉の症状が改善し、名残惜しげな笑みを残して一足先に戦場へ戻った。
静かな寝息を立てている国永の隣で、長谷部と大倶利伽羅はひとつのビーチチェアに大きな身体をふたつ詰め込んで窮屈な思いをしている。視界が不明瞭な長谷部を気遣っているのか、大倶利伽羅がそばを離れなかったのだ。そのくせ、彼の様子はというと、最近のならい通り長谷部が彼の方を向いて目をこらせばぷいと顔を背ける。珍しく気を使って「つまらないだろ? 俺は大丈夫だ」と好きに遊ぶよう促しても、「ここがいい」と言って譲らなかった。
ぼうっと何もないぼやけた空を見上げていた長谷部は、手慰みにかたわらで絵本を読んでいる大倶利伽羅の赤が色づく髪に指を、しゅるり、絡めた。びくりと彼の肩が揺れて、
「すまない」
無意識の行動を認識した長谷部は慌てて手を離した。
「いい。やめるな」
「ん」と頭をこちら側に押しつけてくるので、蛇行する艶やかな流れにまた指をそわせる。指に巻きつけては放ち、巻きつけては放ち、触りごこちのいい柔らかな髪は長谷部を和ませる。視界が不明瞭なことも関係しているのか、身体の片側だけふれている変わらない体温に安心する。
「あったかいな。お前の体温」
思わずこぼすと、ぱっと遠ざかる熱。寒さが身に染みて、喪失感で眉が下がった。そんな長谷部の表情を目一杯離れた距離から見ていた大倶利伽羅は、突如ぎゅうとしがみつくように長谷部を包み込んだ。図らずも耳を押しつけた胸から早い鼓動が伝わる。上目に伺えば、彼はそれでもそっぽを向いていて、嫌々くっついてるいるのかと思うといたたまれない。どう動いたらいいか迷子の長谷部は、束の間の熱を甘受する。拍動と血潮だけが聞こえる世界で、ふたりが固まっていると隣から呻き声がした。
「んー俺はもう完治したっぽいな」
浅い眠りから目覚めた国永がのびをして、目を瞬かせる。
「おー眩しい。君たちがくっついてるのもよく見えるぞ」
にんまりと笑っているのであろう声に、状況を思い出し急いで離れた。
「はは、好きなようにしろよ」
俺はちょっとこれな、と言って鼻歌とともに消えた。右手の動きが見えて煙草を吸いに行ったのかと思う。
「そうか、国永も帰るか」
「光忠……もう行ってしまった」
「また来る」
「あんたも行ってしまうのか」
「そうだな」
「戦わなければいけないのか」
「ああ」
以前なら戦うしかない境遇を呪い、なぜ俺ばかりが、とでも思っていたことだろう。けれど、今は。浮かぶのはかつての大倶利伽羅の背中。
「……違うな。戦いたいんだ、自分の手で」
手、と呟いた大倶利伽羅は長谷部の手を矯めつ眇めつ眺めると、掌の皮膚をなぞった。
「あんたの手、かっこいいな」
くうと胸が鳴いて長谷部が唇を引き結んでいると、彼は手を表に返し、
「きれいだ」
と囁いた。爪の先をなぞり爪と指の間をくすぐる褐色の指。己の手をなぞるように視線が刺さるのを感じる。長谷部は悪戯な手を決して振り払うことができない。
「また来るよな」
「ああ、みんなまた来るさ」
「ちがう、あんただ」
「ああ、……来るよ」
変に気を使われて距離があるのも切ないが、まっすぐな態度もひどく困る。きゅうと小指に絡まった小指がゆるく揺らされる。また、約束だ。叶えられなくても何度でも繰り返す、約束。
ここを去る前にぽそりとこぼされた光忠の声がよみがえる。
『もしかしたら、伽羅ちゃんはこのままここで暮らしていく方が幸せなのかもしれない』
多分に慈愛を含んだ切なく優しい声が、暗闇に佇む長谷部に投げかけられた。
長谷部は頷くことができなかった。
熱い吐息が頬をなでる。耳から入り込んだ熱が脳を蕩めかし、甘く爪を立てられたように痺れている。むずがるように髪を散らし長谷部は唇から湿った息を吐き出した。
「ん」
甘い蜜に絡め取られた微睡みの世界から現実に戻ってくると、いまだ部屋の中は闇に沈み深夜だということをかろうじて認識する。
「はっはっ」
ひどく熱い身体が長谷部の身体を囲うように覆いかぶさり擦りつけられている。困惑で満たされた長谷部は腿に感じる固く張りを持つ肉の感触に気づいて、ぶわりと鳥肌が立つような不随意な身体の戦慄きに襲われた。自分では制御できない欲が腹の奥から全身を、じわり、侵す。
大倶利伽羅。
いつのまにか馴染んでしまった身体は、見えなくとも彼以外のなにものでもないと本能的に感じとっている。匂いも熱も感触も。盛んに擦りつけられる雄と頬に吐きかけられる苦しげな呼吸。彼の身体にこもる熱が出口を求めて荒れ狂っているのか。助けてやりたくてぼやける視界の中、長谷部がのばした手は大倶利伽羅に絡め取られた。
「お、くりから」
泣いている。彼のこころが。そして、きっと長谷部のこころも。ずっと触れたかったものにやっとさわれたというのに、なんて遠い感触。求められて胸がつまるほど苦しくなるなんて知らなかった。長谷部自身を求めてくれているのか。誰でもいいんじゃないか。このままでいいのか。何が正解かわからない。でも、苦しむ彼に手をのばしてしまうことは正しいことではないだろう。わかっている。長谷部だってわかっているけれども、放ってなど置けるはずもないのだ。嵐のように不協和音が頭の中をかき回す。好き勝手なことが囁かれる。冷えて瘧のように震える手が肉の薄い頰にふれた。さわりたい。さわってはいけない。さわりたくない。どこまでも勝手に叫ぶこころを持て余し、あふれ出そうとする涙をかろうじて押しとどめる。歪な感情を孕んだひしゃげた声が、包み込むような静けさを壊した。
「つらいのか?」
荒い息で肯首する大倶利伽羅が長谷部の身体にしがみつく力を強くする。汗でしっとりとした髪をなで、骨が隆起する背中をたどり、締まった腰までたどり着くと、名残惜しく離した。ひとつ深呼吸をする。ままならない手で胸を押して身体を起こさせた。掌の下で跳ねる心臓の息吹に歯を食いしばる。されるがまま身体を起こしたものの、いまだ長谷部から視線を逸らさない大倶利伽羅にひとつくしゃくしゃにかすれた笑みを見せて、「大人の身体は定期的にここを処理しないと苦しいんだ。手伝ってやる」からからの口で努めて冷静な言葉を吐いた。大倶利伽羅の反応は見ないようにして、汗で張り付くシャツも性器が布を押し上げているズボンも下着ごと脱がす。濡れた服で風邪をひいてはいけないから、なんて苦しい言い訳を胸のうちで呟こうと、本当はずるい長谷部が彼の肌を手に刻み付けたいだけだと知っている。左腕に巻きつく願いの証が滲んで見えて、目をそらした。
汗の匂いに誘われるように育ちきった雄に顔を近づける。野生の獣のような香りが鼻腔をくすぐり、はしたない欲望そのままに唾液が、じゅ、とあふれた。しとどに濡れた舌が膨らみきってそびえ立つ肉棒に迫る。長谷部の短い舌が生きたえぐみを味わった瞬間、自制心が、ぐずり、崩れたのを感じた。優しくなるよう自制しながら粘膜で包み込む。震える大倶利伽羅の大きな手が長谷部の頭を掴んだ。上目に伺った彼の瞳は今にも泣いてしまいそうに潤んだ光を放ち、それでも一心に長谷部の所業を映している。その目で見ないで欲しい。けれど、長谷部を捕まえていて欲しい。ずっと欲しかった。ずっとふれたかった。恋しい熱はこの身を焼き尽くす。
迷いを払うように口内で震える雄の裏筋を動かしづらい舌でゆるゆるとなでながら、頭を動かした。びくびくと跳ねる肉を大丈夫だと宥めて愛でる。
お前は生理現象に悩まされているだけ。長谷部のこころなど、粉々に砕いてしまっていいんだ。
降り注ぐ熱く湿った息、必死で髪を引っ張る指、初めて知った生臭い大倶利伽羅の味、喉奥をくすぐるいたいけな震え。大倶利伽羅という自然に包み込まれているようで、勝手に長谷部の欲も膨れ上がり性器が首をもたげる。幹を濡らす唾を塗り広げると、浮いた血管の膨らみが指の腹を押し返し、それにすら愛おしさを感じてたまらない。ぱつんと張った雁首を舌でなぞり、覆った唇で、ちゅるり、吸い上げる。
「んん、はっぁっ」
大倶利伽羅の味が濃くなった。もっと欲しい。もっと大倶利伽羅の味を舌に覚えさせて欲しい。小さく押し殺した喘ぎをこぼす大倶利伽羅の唇から涎が光って伝うのを目にして、限界が近いのかと思う。じゅるじゅると吸い上げながら、上顎を擦るようにこすり付け、喉奥で締め上げた。口の粘膜が離したくないと吸いついている。彼の雄の弾力がある感触はこんなにも長谷部の身体を悦ばせる。
長谷部はもじもじと腰を揺らしながら、ついには大倶利伽羅の腰が突き上げるように動くのを歓喜とともに受け入れた。ぎちりと髪が軋み、頭を掴む力が強くなる。思わずぱんぱんに膨らんだ陰嚢に指を這わせ伝う唾液を柔く塗りのばす。全部。全て出して欲しい。身勝手な長谷部は思う。頭を前後する速度を上げて、先走り混じりの唾を飲み込む。
「くっ、ぅ、ぁ」
ぎりと歯を食いしばる音が響いて、押し込まれた雄が喉奥をこりこりとくすぐったと思った瞬間、どぷり、粘度の高い液体があふれ、長谷部の奥をぐじゅぐじゅに濡らした。びゅくり、びゅくり、吐き出すごとに震える肉の生きた感触が、揺れる腰の甘える仕草が、呻きえずくことしかできない長谷部の頭も白く染める。いつのまにかこぼれていた涙を生理的な反応のせいにして、名残惜しさを訴える舌で柔くなった性器を清め、残滓を吸い上げる。舌の上に張り付くゼリーのような種を丁寧に飲み込んだ。
「、楽に、なったか?」
苦しい呼吸の合間に確認すれば、唇が粘ついて不快で、擦り上げ続け熱を持つ痺れた舌で拭った。はふ、と満足なのか後悔なのかわからないため息が呼吸音だけが交わされる部屋に響いた。
最後に一度、大倶利伽羅の頭をなでて気持ちを切り替える。
新しい服を着せて寝かしつけようと動かしかけた腰に、ぎちり、何かが絡みつく感触がして、冷たい舌が舐め上げたかのように背筋を寒気が走った。視線の先には龍のうねる腕が。恐慌をきたして力の入らない身体はそのままいいように引き寄せられた。
さわさわと探り、腿を這い降りる手が、
「ぁ」
腫れ上がった長谷部の熱を見つけてしまった。
「はせべも」
やめてくれ。
いやいやをするように髪を振り乱しても、優しい吐息が長谷部を縫い止める。確かに恐怖を感じて身体が戦慄く。おそろしい。何が? この男の優しさが。ふれられたら、何かが、長谷部の中が、変わってしまうかもしれない。痛みに似た罪悪で思考が溺れていき動けない間に、隠したくて縮こまる四肢から衣服が奪われていく。まって。声にならないかすれた雑音がきぬずれの音にかき消された。
肌寒さに震える身体の中心で、長谷部の欲望を写すようにはしたなく立ち上がった性器に落とされていく頭を認識して、とっさに髪を掴む。加減が効かない手が痛いくらい握りしめてしまっていることに胸を痛めつつも、止めなければいけない。それだけはやめて欲しい。訝しげに伺う大倶利伽羅に何度も何度も首を振って懇願する。
ひとつ、場違いな仕草で首をかしげた彼は、こわばる長谷部の手を丁寧に開かせ指を絡めて引っ張り上げ、自分の膝に乗せた。そして、呆然としてされるがままの長谷部の手ごと褐色の手でふたりの性器をあわせ持つように包み込んだ。大倶利伽羅の雄は力を取り戻しており、ふれあう薄い皮膚ごしにその脈が伝わるようだ。大倶利伽羅はぱかりと開けた赤い口から舌を伝わせ唾を落とし、生ぬるい液体を纏わせると長谷部の手と一緒に扱き始めた。
「はぁっ、んっ」
目の前にある眉を寄せた精悍な顔に、また涎があふれる。くっと噛みしめられた唇に食らいつきたくて眼窩が痺れた。長谷部を誘うように舌なめずりをして、苦しげな呼吸を逃す為に薄く開いた唇が恨めしい。長谷部の口の中で踊る舌が縋る先を求めているけれど、それだけはしてはならないと思った。下から立ちのぼるぐちぐちとした水音が、どこか遠くぼやけて聞こえた。
「ぉ、くりから」
何もかも吐き出してしまいたくて思わず漏れた声に、大倶利伽羅が覗き込むように顔を近付ける。とっさに顔を背け、唇を噛みしめた。ほっとしたのも束の間、不意に心臓の上を、ぬらり、舌が這う感触が。顔を戻した長谷部の視線の先で胸の尖りが大倶利伽羅の肉感的な唇に吸い込まれるのが見えた。己の制御を外れて反る背で倒れてしまいそうで、たくましい首筋に縋りつく。
「やっ、ぁ、んんっ」
口をふさぎたくとも片手はしとどに濡れた雄を扱くのに使われ、片手は掴まるのに精一杯で、どろりと媚を含んだ音が醜悪に撒き散らされるのを止めようもない。
「あ、あ、ん、ぁあぅッ」
まるで母の乳を吸う飢えた子のようにぢゅうぢゅうと吸い上げたかと思えば、女を嬲る女衒のような舌が腫れきった尖りをねぶる。こりこりとしたしこりを玩具のように執拗に扱かれ身の内を舐めるように走る電流に肉をくねらせることしかできない。胸と陰茎を同時に責め立てられて、離れていた間、男を想って慰めていた後孔がはくりと震えた気がした。再会した時に使うこともあろうかと羞恥と浅はかな期待を入り混じらせて長谷部が広げ慣らした粘膜が、大倶利伽羅を喰む想像だけで疼き蠕動している。擦りつけあう雄の間で粘度の高いぱちぱちとした水音が弾け、勢い余った手が肌を打つ高い音が逸るリズムを刻み、高まり続ける熱がじくじくと溜まってのたうつ。
「はっはっ、ぅ、ぁ、は、せべ」
「あ、ん、ぁあっ、ぅん、アッ」
身を焼かれるような熱と痛みが、暴力的な衝動が、渦巻く。悪魔の囁き声、天使の怒号、世界が軋む音、何かが口々に勝手を囁き、不協和音が身体を満たす。自分は、彼は、誰だ?
この身を貫き埋められた鉄の刀身が痺れるように共振して、ひくん、痙攣する身体が白に落とされた────。
震える瞼をようやっと開き、白く塗りつぶされた世界から覚醒すると、荒い呼吸の合間にふたりの胸から腹にかけて、つうと白濁が滑り落ちていく。生ぬるい感触が紛れもない罪の証のようで、目を伏せた。
疲れ切ったように長谷部の肩に額を預ける大倶利伽羅に気づいて、そっと身体を離し横たえさせる。うつら、うつら、上下する瞼に安堵の息を吐き、寝かしつけるように髪をなでる。根元から燃える紅の先まで滑らせて、昼間は気付かなかったが髪がのびたかもしれないと思う。成長を続ける肉体はいつか長谷部を追い越して行くだろう。幼い寝顔を眺め、冷えた頭に浮かぶのは、うれしい、むなしい、かなしい、ぐちゃぐちゃに握りしめられた捉えようのない想い。
ただひとつ、罪を重ねてしまったことは確かだ。だがたとえ、これが罪でも、この身が役に立つなら己は差し出してしまうのだろう。
長谷部は大倶利伽羅の閉じられた瞼を、張りのある頰を、シャープな顎を指でたどり、腕の龍を過ぎ、硬い腹までたどり着くと、臍の上に咲く白い花を掬って口に含んだ。生臭いえぐみが〝生〟を感じさせて、自分たちは鉄に隷属する存在ではないのだと感じながら、喉を鳴らした。白い花弁をひとつひとつ舌で拾い集め、下生えに絡む白濁も梳くように拭い、全て飲み下していく。最後にくたりと力を失った陰茎の先を唇で覆い、残滓を吸い上げた。
お前の種が俺の中で芽吹けばいいのに。長谷部が女であったなら、この種を腹に抱え、ひとり、魂の欠片を愛することもできたのに。
叶うはずもない駄々が肉の器を重くしていた。
7
季節外れの花火が寒空の下、瞬く。湿気っているのか火の付きが悪いそれは何度も途切れ、息を整えてから熱を爆発させた。大倶利伽羅と貞宗が仲の良い子犬の兄弟のようにじゃれあい走り回り、見守る光忠が水の入ったバケツを指し示す。
施設に来る前、鯰尾に渡された花火も役に立ったようだ。
『また行くんですか? じゃあこれあげますよ』
『忘れていたのを押しつけただけだろ』
憮然とした長谷部に悪戯がばれた子の顔で笑った鯰尾は声を張り上げた。
『いつやろうときれいなものはきれいですから!』
弾ける光が描く放物線をぼんやり距離のある長椅子から眺め、確かにな、と珍しく同意する気持ちになった。時期を過ぎても価値が変わらないものはある。あんなふうに屈託無く笑う光忠を久しぶりに見ることができたのだから。過ちを重ねてしまった夜のあと、長谷部は寮に戻ってすぐに己の罪を光忠に告げた。
大きな手で口元を覆った光忠は長い長い沈黙を経て苦笑した。長谷部くんは正直すぎるよ、と。
「秘密にしとけばいいのに」
ぽそりとこぼした言葉とともにどこか諦めたような表情をする彼に、子供の癇癪さながら、違うんだ、と長谷部は思った。自分は何があろうと微笑む目の前の男の優しさに何度も救われていた。だから、
「俺は……お前の〝長谷部くん〟につなぎとめられていた。昔の名も、お前はいつも丁寧に音に乗せて呼んでくれた。その度に俺は、認められたようで……この世界に在る自分を確認できた。だから、…その、うまく言えないんだが……お前には正直でありたいと、」
何度もつっかえながら気持ちの十分の一も伝えられていない言葉をやっと紡いでいると、光忠はまた仕方ないなぁとでも言うように眉を下げ唇を歪めた。それは彼にしてはなんと不格好な表情だっただろうか。
「長谷部くんのばか。そんなことを言われちゃったらもう怒れないじゃないか……敵わないなぁ。本当は……わかっているんだ君のせいじゃないって、いつだって……理不尽なことは降って来る」
降ってくる。言い得て妙だと思った。
────彼の優しさに報いる何かを自分は持っているだろうか。カサつく冷えた手を握りしめる。
「寒いな。もうこたつが欲しいぜ」
隣で黙って缶コーヒーを飲んでいた国永が急にそんなことを言った。
「な」
笑いながら白い指が固まってしまった長谷部の拳を開かせる。吐かれる曇った息は甘ったるい匂いがした。安っぽい甘さが気安く長谷部を包む。缶コーヒーで温められた体温と、いつも冷静でありながら太陽のような暖かさを持つ瞳が、不意に長谷部の口を軽くした。するりと、秘めていた想いが突如あふれだす。
「あいつが幸せならこのままの方が本当はいいのかもしれない。生活は保証されているし平和だ」
視線の先の三人は手持ち花火から鼠花火に移行したようで、ことさら大きな歓声が響いた。
「でも、俺は……大倶利伽羅を諦めてやれない」
静かにじっと国永は耳を傾ける。
「どちらにしろ、俺にできるのは待つことだけなんだが……まぁ、色々と不安になる」
「そりゃあな」
どちらからともなく、くふりと笑った。
「…このまま記憶は戻らないんじゃないか、とか。あいつが俺に懐くのは付喪神の記憶ゆえであいつ自身の好意ではないのではないか、とかな。俺自身の感情さえ俺だけのものかわからなくなる……そして、いつか、あいつを置いて行ってしまうことが、こわい」
落とした視線の先、爪の周りでけばだつささくれに血が滲んで、些細でいて無視できない痛みが存在を主張する。堂々巡りする思考は、それでも、待っていたいのだと叫んでいるのだ。
「……ひとつ、おとぎ話をしよう」
すうっと息を吸った国永がおもむろにそう言って、長谷部の目にかかる煤色の髪をすくい耳にかけた。
「昔、変わり者の神父が教えてくれた話だ」
長谷部の目を見つめる国永の瞳は、遠く何かを懐かしむような色を帯びていた。
「その人は、なんでこんな色なんだとわんわん泣くガキの頃の俺に言ったんだ。天の上で神様が色と色を混ぜて俺たちの形を創る。ある日、神様はその作業中にポケットに入っていた欠片を落っことしてしまった。それはあまりにも輝きが美しくて拾ったものの忘れていた欠片さ。そしたら、できた魂はとても強く美しい。それから、神様は祝福を与えるように、たまに欠片を混ぜて魂を創るようになった。神様は偉大だが間抜けだから、お前を創る時は白ばっかりと金色の欠片を入れてしまったんだろう、ってな」
ふーっと息を吐き出し、国永は長谷部を見て笑った。
「そんな話あるか? 子供騙しにしてもバカバカしくって思わず笑っちまったよ」
長谷部は笑えなかった。泣いてしまわないように必死で歯を食いしばっていた。
「この話には続きがあってな。俺が兵士になる道を歩むと決めた時、さも今思い出したかのように、おとぎ話の続きを語ったんだ。おかしいだろ? 突然、神様が気に入った欠片なんだがって、俺が覚えているとは限らないのに。……その祝福の欠片とは昔々に戦い、眠りについた鉄屑の欠片なんだと。お前はいずれかつてのお前と出会うだろうって」
付喪神と俺たち、ばらばらになった欠片が一緒になるだけってな。
「たわいのないおとぎ話さ。だけど、こんな考え方もある。ま、俺はもっと現実主義だから信じちゃいないぜ。ただ、心残りを抱いた寂しい刀の付喪神と寂しい子供の魂が出会ってしまったんだろうと思っている」
噛みしめ戦慄く長谷部の唇を国永は、ちょんとつついた。
「なぁ、長谷部……お前がどう思い、どう受け入れるかだよ。流れ込む付喪神の記憶は自分ではないが、自分でもあるんだよ」
随分と呪われた祝福だよな、と意思を煌めかせ笑う国永を見つめ、何も言うことができない。許しの物語は長谷部の世界に少し色を付ける。幼い感嘆の声が響いた。純朴な手触りがする音のかたまりがそこかしこに散らばり、打ち上げ花火に移った三人は光の束に見惚れていて、視界に映る光が滲む。
「なぁ、お前だけでカラ坊を背負おうとするな。退役するまで俺たちの身体は歳をとらないから、ながーい話になるかもしれないが、一年前よりあいつは成長した。もしかしたら、精神が追いつき記憶が解放される時が来るかもしれない」
今もさりげなく風上に立ち、火を決して光忠には向けない大倶利伽羅。彼は歩み続けている。
「ああ」
胸がいっぱいで呆けた返事をすることしかできない。ロケット花火残ってるかな、と呟いた国永が長谷部の肩をポンと叩いた。
「カラ坊を待つことぐらい、ぞうさもないさ。家族だろ?」
最後に派手なやつでもかますか!
走って大倶利伽羅の背中に飛びつく白い残像。華やかに笑う光忠。愛しいものの輝く魂。夜でも明るく燃える金色の灯火がななつ浮かぶ。待つのは苦しいけれど、きっと、もう、こわくない。
「電話だぜ」
花火も終わり、冷えた身体を談話室で温めていると、貞宗が電話を差し出した。
「あ〜〜〜、こっちの電源切っててもダメか」
受け取った国永が神妙な顔で応対する。隣に座っている大倶利伽羅がぎゅうと長谷部の手を握り、不思議に思い伺えばとても真剣な顔をしていた。
「はー、緊急招集…ふだん融通してもらっているからなぁ。とにかく数が必要らしい…行くか」
頷き立ち上がろうとした長谷部の身体を力強い腕が縫い止めた。
「俺も行く」
虚を突かれた三人が見つめる中、立ち上がり空いている右手を自身の胸に当てた大倶利伽羅は目を閉じた。すうと大きな呼吸音が響く。
彼は何を言った?
小刻みに震える手があてられた心臓の上の皮膚が発光する。困惑気味に仕草を見守っていた長谷部は、やっと彼がやろうとしていることがわかった。
「大倶利伽羅! やめろ!」
柄のない剥き出しの茎がじくりと見え出す。
「伽羅ちゃん!!」
「カラ坊!」
意思の力だけで完全ではない刀を呼び出そうとしている彼の額には、大量の汗が浮かんでいる。慌てて大倶利伽羅の胸に掌をあて戻るように必死で祈る。無理をすればどんな副作用があるかわからない。
「ダメだ! おおくりからっ、無理をするな! 待っていてくれ! ……絶対に帰ってくる」
まだ、その時ではないんだ。
目の前にある大倶利伽羅の震える瞼がひゅっと大きな手で覆われる。貞宗が背後から大倶利伽羅の頭を抱え込み、光る目で状態を探っていようだ。視線でひとつ彼に牽制をして、子供の名をひたすら紡ぐ。嫌だ嫌だとうわ言のように呟く大倶利伽羅の唇に息を吹きかけ続けた。
「待っていて欲しい。お願いだ……なぁ、指切りをしよう……約束を」
ふつりと光が止んで刀が消えた。貞宗がするりと身体を離し、目を開けた大倶利伽羅は縋るような瞳で長谷部を見つめる。
「……まだ、休暇は残っているんだ。必ず、お前のところに帰ってくる」
頰と頰をあわせ抱きしめる。いつだって終わりは眼前にあり、この身は離れがたい。けれど、約束することはできるのだ。ふたりの間、震える指と指を結んで、ほどいた。
「……約束だぞ」
「ああ」
「まってる」
「うん」
別たれた褐色の手を貞宗がつなぎ、抜き身の刃のようないつになく真剣な声で諌めた。
「からちゃんは弱い。それぞれの役目があるから、力のないものは行っちゃならねぇ」
からちゃん、もっと強くなろうな。
頷く大倶利伽羅の頭を、国永が、次いで光忠が、最後に長谷部がなでて、戦場に向かう。強さを求めるかつての大倶利伽羅は、確かに彼の中で生きている。強くなるために必死で踠いている。
大倶利伽羅、長谷部は待つと決めたら果てるまでまっている。きっと、待っている。だから、────まっていてくれ。
ヒューヒューと抉れた頰から息が漏れる。地面に転がる長谷部の顔の横に、血が伝う白い足と刀が突き立った。
「まっていてくれる者がいるってのはいいもんだねぇ」
腕が飛び息も絶え絶えで横たわる長谷部に、片足を持ってかれた国永は言う。
「ふんばれる」
今日の敵は青白い光を纏った人型で知能の高さが伺え、他の隊員と分断された上に数も多く随分と苦戦した。心臓が血液を送りだす度に口を開けた傷口で燃えるような痛みが弾けて、噛みしめた歯が軋む。何度戦おうと、脳を引きちぎられるようなじくじくとした痛みに慣れることはない。
「帰ろうか、よっと」
ひとり軽傷の光忠が慣れた仕草で、国永と長谷部を肩に抱え上げた。
「その前に流石にこりゃ修復室だな。カラ坊が泣く」
「ははっ、そうだね。でも、伽羅ちゃんはもうこの姿を見ても泣かないよ」
音を紡げない口の代わりに大きく頷いたら、光忠の背中に頭突きをしてしまい、「もうなんなの、長谷部くん」と光忠が笑った。前を見つめる大倶利伽羅は強い。彼はもう泣かないだろう。
「しかし、いてーなー」
一説によれば、痛覚には作業能力を高める効果があるらしい。痛みがあるから人は死に物狂いで頑張れると。どこまでも世界は意地悪だが、どこまでも足掻くのが長谷部たち戦士の性分だ。
「こればっかりはしょうがないよ。長谷部くんも意識飛ばさないでよ」
無事な手で目の前の尻をバチンと叩く。
「こら!」
────さあ、帰ろう。
足音高く賑やかに。ハリボテみたいな現実を、行進する兵士の帰還だ。
8
こたつの天板に顎をのせぬくぬくと温まり、欠伸を噛み殺した長谷部は向かいで寝っ転がっている国永に話しかけた。白い頭だけがかろうじて見えて、何をしているのか蠢いている。
「今更なんだが、この部屋はこたつ置いたり、こんな私物化して大丈夫なのか?」
「本当に今更だな。君だってのりのりだったじゃないか。サダ坊はいいって言ってたぞ」
簡素な病室に近い造りだった部屋は、いつのまにかクッションフロアにカーペットまで敷かれ、中心にはレトロなこたつが存在感を放ち、いやに所帯染みた雰囲気になってしまっていた。そして、今はその上にカセットコンロが置かれ、出番を待っている。部屋の主である大倶利伽羅は、黙々と長谷部が秋田からもらった植物図鑑を眺めている。
長谷部が待つ覚悟を決めてから、もう一年以上がたった。別れの季節、春も間近だ。その間に記憶は戻らないけれど、大倶利伽羅は努力と成長を続け幾分大人びてきた。休みの度に通う三人との関係もただ甘える子供から、国永とは喧嘩友達のように、時には厳しく諌める光忠とは本当の兄弟のようになり、長谷部は……添い寝をするぬいぐるみだろうか。
国永はこたつを始めとする様々なものを持ち込み、すっかりこの施設全体をおもちゃ箱に変えてしまい、止めても無駄だとわかった乱は呆れた顔をすることすらやめた。光忠は相変わらずまめに立ち働いて施設のスタッフにも評判がいい。光忠が来ると女性スタッフが色めきだって仕事にならないとの苦情が乱から寄せられるくらいだ。では、長谷部は、自分は何をしていただろうか。一心に大倶利伽羅の変化を見つめていた。
相槌の言葉が「うん」から「ああ」になり、きょろりと動いていた瞳がすうと空気を切るような動きになり、無垢な笑顔が滲むような笑みに変わり、柔らかな掌の皮膚は厚く硬くなった。長谷部と出会った頃の大倶利伽羅に近づいてきたように思う。
「ちょっと、ドア開けてくれない?」
すっと立ち上がった大倶利伽羅が扉を開けると、蓋の隙間から激しく湯気が噴き出している鍋を抱えた光忠が入ってきた。
「お鍋できたよ!」
「調理場に乗り込んで作る面会者ってのもお前ぐらいだろうな」
「長谷部くんは、ふわふわのつくねいらないのかな?」
ぐっと喉を鳴らして長谷部は口を噤んだ。おいしいものを前にすれば人は無力だ。
「締めに雑炊を作ろうね。もらいものの金柑もあるよ」
「ああ、そういえば俺も包丁からもらったクッキーが……」
あいつ不器用なのに一生懸命作るんだよな。微笑ましい努力を思い出して眉を下げながら長谷部が差し出した袋を、大倶利伽羅はぷいと顔を背けて受け取らなかった。
「俺は甘いものは好かない」
何か気分を害しただろうかと長谷部が戸惑っていると、国永が意地の悪い笑みを浮かべた。
「カラ坊、嫉妬か〜」
「国永、うるさい」
「おーおー、昔は素直で可愛かったのになぁ……まあでも、お前の可愛いところはばっちり動画に撮ってあるから安心だな! 雷が鳴って、鬼が迎えにきたーって泣くところとか可愛かったぜ」
「お前いつのまに……」
「長谷部はカラ坊しか見ていなかったからなぁ」
「消せ」「やだよ」「消せ」「やなこった」、子供のようなやりとりを続けるふたりを尻目に、自分の態度があからさま過ぎたことに長谷部は顔を赤くしていた。目の前で国永を絞めあげようとしている大倶利伽羅は、反抗期の少年のようでかつての大倶利伽羅よりずっと表情が豊かだ。微笑ましいのと同時に一抹の寂しさを覚える。
「はいはい、ご飯の時は喧嘩しない」
温かいご飯を前にすれば、育ち盛りは不毛な言い合いもやめて行儀が良くなる。口々にいただきますとしっかり手を合わせると、食という戦場に向けて箸を構えたのだった。
どんどんと大倶利伽羅がおかわりをよそるものだから常になく食べ過ぎてしまった腹を抱えて、長谷部は温まりきった吐息を吐いた。光忠特製の食感のアクセントにこりこりとした軟骨が入ったふわふわのつくねを充分に堪能した。いくら食べ盛りの成人男性四人とはいえ、鍋の全域に浮かんだ球体はやりすぎだと思ったが。
口の中をさっぱりさせたくて目についた金柑を手に取る。少食の国永が「もうピンポン球は見たくない」と大の字を描き、暑くなったのか光忠と大倶利伽羅は半袖姿になっていて、行動が一緒のふたりは気が合う兄弟に見えた。ぼんやりしながら口に転がした金柑に歯を立てる。甘みと酸味が弾け、遅れて舌を刺激する皮のほどよい苦味に目が覚める。ぱちりと瞬いて無心で咀嚼していたら、がりり、歯に響く嫌な感触がして顔をしかめた。
種があることを忘れていた。これだから果物は面倒臭い。不器用な長谷部には向かないのだ。
隣でよく切れそうな白い歯をクッキーに沈み込ませていた大倶利伽羅が、不思議そうにこちらを見る。やっぱり甘いものが好きなんじゃないかと思うが、見事に頭がなくなっているスノーマンに何ともいえない気持ちになった。バリバリと気持ちの良い音をさせて咀嚼し、ぽこりと張った喉仏を上下させ、「どうした?」と問う。
喋るのも嫌で、べぇと舌を出した長谷部は、そういえば自分の舌が短いことを指摘したのも目の前の男だったと懐かしさが胸に膨らんだ。舌に張り付く砕けた種の欠片をじぃと見つめた男は、つ、と指をのばした。
「んん」
慌てて舌をひっこめ口を閉じても遅く、薄く拙い動きしかできない舌は男の指に囚われた。柔く歯を立てても解放する気配がない。
「やめぉ」
腕を掴んでどかすよう抵抗してもびくともせず、逆に左手で顎を包まれいいようにされてしまう。線香に似た香りのする親指が舌の表面をなで、舌の裏からのびる筋状の舌小帯を嬲り、唾液でぬかるむ口内を掻き回し、口蓋を擦る。口の端から唾液がこぼれていった。
こんなふざけた振る舞いは誰かの入れ知恵かと、視界の端で固まる国永をぎろりと睨み、
「つうまうか?」
と問うと「いやいや」と勢いよく首を振る。ならば、
「みちゅただか?」
「僕じゃないって」
人をいいようにする行動の解が出なくて混乱する長谷部は、いっそ噛み付いてやろうかと男の表情を伺った。いつになく真顔の仏頂面で長谷部を煌々と輝く目が観察している。
この表情はどこかで────。
「興味持っちまったのかね? 随分と強引だな……ん?」
「伽羅ちゃん気になるものにはしつこいから……あれ?」
ぐいぐいと身体を押しつけられて後ろ手についた腕が震える。かくりと力が抜け、遂に押しつぶされた長谷部は座布団に頭を埋め、目を瞬かせた。はずみで抜けた指に、これ幸いと唇を閉じた。しかし、ぬらり、熱い感触が、また唇を責め立てる。それは大倶利伽羅の舌で、表面をなでると呆然とする長谷部の緩んだ口に忍び込み蹂躙する。執拗に長谷部の舌をなでさすり絡まる熱は器用に種を集めていく。取りそこねた欠片がちくちくと舌を刺激する。酸欠で呼吸を喘ぐようにしたところで、やっと解放された長谷部は叱ろうと動かしかけた口を呆けたように止めた。眼前に迫るのは鼈甲飴のように潤んだ瞳。骨が砕けそうなほど強い力で締め上げる男が長谷部の耳に熱い息とともに吹き込んだ名は────、
「くにしげ」
今は呼ばれることがなくなった特別な名前。役目を終えるまで、この身に返って来ることのない名を呼び戻す。
「……国重、…国重」
じわり、眼窩が熱を持つ。目の前にある薄い耳に戦慄く唇で呆然と呟く。
「……まっていた」
「ああ」
震える手を背に回し、きゅうと白いシャツを掴む。
「……まっていた」
「うん」
きつく閉じてしまいたい瞼を必死に開いて大きく男の匂いを吸い込む。
「まっていたんだ」
「……すまない、たくさん待たせた」
硬い背をなで、前に回した手で懐かしい仏頂面を包み込む。眉も目も口も、すぅっと切り裂くように鋭利な線を描いているのに、その筆致は雄々しくて、止めに優しさが滲んだ彼の表情。
何かがつかえたように喉がひしゃげて言葉が出てこない。
「国重」
低く少しかすれた音のかたまりが、さわり、耳朶をなでる感触がして、抑えつけていた膜が弾け、涙があふれる。
「ぉ、ぉ、くりから」
次から次へと止めようのない海が皮膚を浸食し、あふれていく。
「ぅ、ぁ……ぉ……おかえり」
水面越しに見える大倶利伽羅の不恰好に引きつった笑顔とも言えない笑顔。頰に雨粒が、ぽつり、落ち、彼も泣いているのだと知る。縋りつくように長谷部の肉体を絡め取った大倶利伽羅がぼそりと囁いた。
「ただいま」
────まっていた。
幼い頃から長谷部は約束をぐちゃぐちゃに握りしめて、でも、だって、いつか、きっと、幾度も呟きながらずっとまっていた。
果たされない約束が降り積もるほど、諦めることを、求めないことを覚えた。そんな長谷部が、どうしても諦められなくて捨てられなかった、ひとつの琥珀色した約束。やっと果たされた約束は長谷部の大事な宝物となる。諦めの悪い自分の性質を自嘲して、認めざるを得ないなぁと嘯く。
しつこい己はこの身が果てるまでずっと、この男を抱きしめて離さないだろう。
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