ラストデイ
あの男は唐突な男だった。
前後の脈絡がなく話し出したり前動作なく走り出したり、聡明で勤勉だというのに日常でのあれこれは滑らかさとは程遠く、突然に跳ねるゼンマイ仕掛けの玩具のようだった。刀剣男士としての性能は良く、けれど人の器を持つにはあやうい部分も多い刀だったのだろうと、今になって思う。器を、こころを、もらった刀剣男士は誰もが赤子であり、戸惑いながらもかつての記憶で生きる人を真似、意識的にしろ無意識的にしろ人らしきものになっていった。かのこころは無意識に人と近く、それでいて誰よりも刀であろうとしていた。
眩しい。
眩しかった。
大倶利伽羅は力を込め、立て付けの悪い戸を開け放った。広がる道場のがらんとした空間には、飛び跳ね遊ぶように打ち合っていた短刀はもういない。熱心に打ち込んでいた新選組の刀もいない。染み込んだ汗の匂いを攫うように春の風が通っていく。刀剣男士の足によって擦り上げられた鈍く光る床、熱量の消えた空間を眺め踵を返す。
隣には刀が生まれる場所、鍛治場。ちょこまかと熱心に働いていた小さきものもいない。いつだって赤々と燃えていた炉はもう熱を吐き出すこともない。俺達を冷やし固める清涼な水も枯れた。ここで桜が舞うことはもうない。
本丸に向かう途中、作物の消えた畑を通り過ぎた。揺れるパステルカラーが視界をよぎる。目を向けても耕されて柔らかい土ばかりが広がり、熱心に世話をし蚯蚓と会話していた左文字はいない。
もうそんな必要も無いのに、入念に泥を落として土間に入る。主にここの住人となっていた力持ちで器用な連中もいない。立ち込める温かな湯気も容易く腹を鳴かせる美味そうな匂いもない。湿った土の匂いしかしない。
廊下を歩いていると、かたわらを足の速い短刀たちが走り抜けていく。ふわりと抜ける風といつかの残像。柱につけられた血の気の多い連中がつけた刀傷も粟田口の喧嘩の跡も、ただ痕跡だけを残し、叱られても廊下を走ることをやめない無邪気な刀はいない。普段穏やかなやつほど怒るとこわかったのが、思い出されてわけもなく可笑しくなる。
幾つも並んだ障子を開けて進んでいく。
伊達と表札が掛けられた部屋に行き当たる。国永が書いた達筆な字と貞宗が後から書き足した流れるような三日月。血の気が多く煩いやつらがぎゅうぎゅうに詰まっていた騒がしい部屋もぽっかりとした静謐な空間を湛えるばかりだ。
ひとつ雰囲気の違う戸を開け放つ。手入れ部屋の天井には、細く切れ味の良い槍がつけた線のような跡。あの時、激昂した槍が暴れてつけた怒りと悲しみの痕跡。
きゅっきゅっ、と古ぼけた廊下が鳴く。裸足の皮膚にひやりとした温度を伝える。冬場は冷たすぎて誰もが早足になったものだ。
一歩、一歩、歩んできた。
ああ、もうすぐついてしまう。
本丸でも奥まった場所にある、一振りの刀が暮らしていた部屋。彼は今よりずっと昔にいなくなった。閉じ込めていたいような、解放してやりたいような、どっちつかずの感情で、取っ手に手をかける。震える指で僅かに開いた隙間から、かつての香りが吹き出した気がした。引っ張られるように勢いよく開け放つ。
あの時のままだ。
顔が歪む。
彼はいつも壁につけて据えられた文机に向かい、ぴしりと背をのばして座っていた。かりかりとペンを走らせる音ばかりが響き、ここは静かだった。誰が訪ねてこようと動かず、声をかけられて初めて振り向く。いつも斜め後ろから見ていた姿がよみがえる。
俺は声をかけられなかった。戦場で、この部屋で、見ていることしかできなかった。
見ていることを彼は許した。最初は迷惑そうに、そのうち困ったように、最後はしょうがないとでもいうような顔を、たまに振り向けばこぼしていたように思う。
「あれ、美味いよな。木の実のシロップ漬け」
ある日、部屋の前の縁側で胡桃を齧っていた大倶利伽羅に突然男が言ったことがある。いつだって急に、返されるとは思っていないボールが投げられたものだ。今度、万屋で買ってきてやる。珍しく機嫌よく言われた一方的な約束は果たされることはなかった。随分後になって、ひとりで食べたそれは甘すぎて食べられたものじゃなかった。
懐かしい。全ては過去のことだ。何よりも審神者を大事にしていた刀は皮肉にも役目の最後までともにすることはできなかった。それで良かったのかもしれない。本人の意思は知らないが、あいつはただひとりの為の守り刀ではなく、家というものを守る刀だったのだから。長きにわたる戦の果てに協定が結ばれ、武器が役目を終える最後の時までこの本丸はここに存在した。それが全てだ。
ざまぁみろ、そう毒づいて、柄でもないと苦笑する。
そんな言葉をぶつけたいわけではなくて……俺は最後の時になぜここに来てしまったんだろう。なぜだろうか。いなくなってからの方が、彼のありようを理解できた気がするのは。いつだって残される俺には考える時間が山ほどあった。ふてくされて眠りに落ちてみてもありあまる時間。夢は時に優しく時に厳しく俺を責め立て、腑抜けることをよしとはしなかった。こころが打ちのめされようと歯を食いしばり地に足をつけ己の信じる最善を走る。それが俺の知るあの刀の背中だ。
「大倶利伽羅」
扉は全部解放されたようだね?
背後から審神者が穏やかに問う声がする。全てが止まった空間で、ただひとつ生の気配。
「ああ」
戦い笑い泣いていた刀はみなそれぞれの逸話にとけた。生きて躍動する物語の螺旋に還元され新たな構成要素となるだろう。
「……色んなことがあったね」
どうしたって終わりの時というものは、終わらせる前にふと振り返ってしまうものだ。それは俺たち物よりも、身に染みて有限をよく知っている人がせざるを得ない行為。
「すまなかった……俺の勝手な意地で彼を呼び出さなくて」
「誰を使うかはあんたの勝手だ」
「……あの時……宗三は泣き止まないし、日本号はしゃべらなくなるし、お前は頑なに引きこもって大変だったな」
最後はブチ切れた鶴丸が戸を粉々にするし、苦みまじりの笑いとともに付け足された思い出に思わず笑みがこぼれる。誰よりも己を責めた審神者も、後悔ばかりだった俺も、もう笑える。痛みは消えなくとも笑えるようになった。なってしまった。
「……喪失を味あわせてしまった」
「物なんて失っていくばかりだ、変わらない。皮肉でもなんでもなく事実としてあんたが自分の力を削って命を与えた俺たちをどう使おうとあんたの自由だ。……そりゃ、口があるものだから、好きに色々言うがな」
強がりなどではなくて揺るぎない不変の事実。
「まあ、理想ばかりを言うあんたには度々いらいらしたものだが、そんなあんただから最後までここに居られたのだろう」
「ぐうのねもでない……ふふ、君は優しいけれど甘やかしてくれないから近侍にぴったりだったね」
あの刀の仕事を引き継いでから長い長い年月が流れた。この男の新たな旅路を見送るのも悪くない。
「……わがままをいいか……最後は炉ではなくここでこの場所とともに消えたい。ここで命を与えられここで消える。それがいい」
俺より少し小さな青年は短刀のように顔を歪め、ぐうと歯を食いしばった。何て顔をしている、なんて軽口がついてでそうだ。長い間、身体から時を奪われた彼もやっと役目を終えられる。
「君のそれはわがままって言わないよ」
人はすぐに泣く。さざ波のように現れては消える、返らないかつての日々が何かを柔らかく囁く。いっそ横っ面をはってくれたら良かったのに。
「……ここでの生活は……悪くなかった」
ついには俯いてしまった人の子から視線を逸らし、頬をなでる風に思いを馳せる。花弁が舞うようにくるくると建物が持つ記憶の欠片が粒子になり煌めきとけていく。
「しゃべりすぎたな」
終わりは間近だ。今日この箱は解体される。
「……ありがとう。本当にありがとう。君たちが自分の足で歩くことで強くなったように、君たちと過ごした時間は俺を強くした。みんなの物語、何度でも読みきかせる。俺が教師だなんて笑っちゃうよな、か、かっこいい刀の武勇伝なんて子供たちは目をきらきらさせるんだろうな」
いっぱいに涙を湛えた強がりな笑顔は、なんともこの本丸の主らしい。
────さよならだ。
終わりの時が近づく。たん、とん、たん、とん、鼓の音が確かな調子を刻み、空間が圧縮されていく。縁側に座り、あの男の代わりに植えられた藤が揺れるのを眺める。誘う甘い香りが濃くなっていく。本体である刀身によく似た貞淑な背のたわみ、まっすぐすぎて目を凝らさないとわからない瞳の揺らぎ。それはあくまで大倶利伽羅の記憶に残る都合のいい残像で、当時は融通の効かない強情な男だと苛立ちを覚えたのも多々だったはずだ。だが、その頑なさも彼のびいどろのような美しさそのものだった。深く強い情の持ち主に対する想いは恋ですらなく、ただの憧れだったかもしれない。けれど、ずっと、震える藤色が忘れられなかった。
ああ、会いたいな。
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