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His GOD.

 背筋を撫で上げるような媚をべっとり含んだ鳴き声に、長谷部は今、落ち着かない身体をソファの上で揺らしていた。部屋の隅に置かれたケージの中で、なぁなぁ、と甲高い声を上げるクロが恨めしげにこちらを見ている気がする。

「彼は……どうしたんだ?」

 この家の主で年下の友人でもある大倶利伽羅は気にした様子もなく、入れたてのコーヒーをテーブルに置いた。

「あいつはメスだ。発情期がきた」

「……っはつじょうき」

 噎せたように長谷部の喉が変な動きをした。

 クロがメスだったことにも驚いたが、発情期という言葉にも過剰に反応してしまったようだ。生きた動物には当たり前の話であるはずなのに、なんでこんなに自分は動揺しているのだろう。

「クロはまだ小さかったから時期を待っていたんだ。今度避妊手術を受けさせる」

 すまないが、それまで煩いかもしれない。

 綺麗な唇が続けた言葉も耳に入らず、長谷部は呆然とした。避妊手術。これから妊娠することのないよう、彼女の身体から子を成す能力を奪うということ。

「そ、それはしなければならないのか」

「だいたい里親を探すにしても飼うにしても、よほどの理由がない限り、避妊、去勢手術をするのは必須だな」

 淡々と事実を述べる大倶利伽羅には、長谷部の中にある自分でも説明しようのない動揺は一欠片も伝わっていない。

「発情期ってのは抗いようのない本能で、猫は自由に行動することも多いから行き場のない子供が産まれてしまう可能性が高いんだ。病気を防ぐメリットもある」

 合間にコーヒーを飲む唇を見つめて、何故か己のこころが、しくんと音を立てて萎れて行くのを感じた。

「望まれない子猫はすぐに保健所にさらわれなかったことにされてしまう。あっという間に」

「……そうか」

 長谷部が今まで見てきた世界の外にはそういった話がごろごろあったのだろう。なぁなぁ、と耳朶が痺れるような甘い声でクロは鳴き続ける。

「そんなに決まりの悪そうな顔をするな。つがう相手を求めて鳴くのは悪いことじゃない」

 そうじゃない。そうじゃないんだ。胸が詰まる感覚を抱えて長谷部は気持ちとは裏腹にひたすら頷いていた。ケージの傍、鉄格子を挟んでシロがクロを一心に見つめている────。


 

 どこか呆けた気持ちを拭えないまま長谷部は家路についていた。

 まだ冷たい空気を纏った暗闇の奥から、そろり、忍び込むように思い出すこともなかった過去の記憶が、眼前にその姿を現す。

 先祖返りの色彩から周りに距離を置かれていた小学生の長谷部。かと思えば孤立してひとりでいる長谷部に知らない男が近づいていく。纏わりつくような視線と手に不快感を覚えた少年は足を思いっきり踏みつけ逃げ出した。あの時自分は────、

 満員電車で痴漢にあう度、きっちり警察に突き出し続ける青年。同性に惹かれてしまうことを自覚してからは自分が悪いのかと思った。汗で滑る気色の悪い手を捻り上げる時、自分は────、

 そして、大学時代にありふれた交通事故にあって生殖機能を失った青年。己の遺伝子を生み出す場所は失われ、ショックで性器は勃たなくなった。男としての価値はなくなったが、長谷部は大丈夫だと思っていた。自分はゲイだし、家族を作れるような性格もしていないと。

 けれど、重ねられたいくつもの瞬間、あの時の自分は────、

 長谷部はずっと傷ついていたのだ。

 じくじくと痛む傷を見ないふりして平気な顔をしていた。

 遠く季節外れの花火が上がっている音がする。長谷部に懐いている耳の大きなシュナウザーのあの子は、大倶利伽羅の家で音に怯え震えているかもしれない。

 わかっている。今を生きるには仕方の無い措置なのだと。種を残すことができない長谷部の境遇と重なって自己憐憫でただ悲しくなっただけだ。

 いつも眺めていた教会前の聖句からも顔を背け足を速める。長谷部は追ってくる音から逃げるように、冷えた一人分の箱まで家路を急いだ。



 

 引き出しの奥にしまわれていた煙草に火をつける。久しぶりの慣れた味に目を細め、ため息とともに煙を吐き出した。クロのことを知ってから、長谷部はふつりと大倶利伽羅の家に行くのをやめた。平日は仕事に打ち込み、大した趣味もないので空白の休日を消化する、また元通りの日々。元から絡まるはずのない縁だったんだ、と自嘲する。

 コーヒーでも入れようかと思ったところで、傍の携帯電話に光が灯った。

 ひゅっと息を飲む。

 ディスプレイに表示されているのは“てんし”の文字。

 出てはいけないと手を強張らせているうちに、長いこと震えていた呼び出しは切れた。ほっ、と安堵なのか落胆なのかわからない息を吐き出し、慰めにもならない煙草を消す。

 電源を切ってしまおうかと手を伸ばした先で、また着信を告げる光が弾ける。てんしの文字が震えているのを目に映し、眉が下がる。こわい。こわいけれど声が聞きたい。あの低く優しい声が。

 迷っているうちに、また電話は切れた。

 自分はどうしたいのだろう。途方にくれた長谷部が少しの期待を持って見つめる先で、わかっているかのように、再度、着信が告げられる。迷った末に恐る恐る手を伸ばした。

 久しぶりに聞く天使の声は────、

『長谷部……なぁ、クロが寂しがって鳴いている。よく頑張ったと撫でてやってくれ』

 喉が詰まって声が出ず、見えない相手に向かって必死で頷いていた。

 彼はいつも、優しく、強引に、長谷部に理由を与えてくれる。




 

 長谷部は本当に臆病だ。もちろん生来の気質もあるだろうが、臆病になるには理由があるはずだ。クロが発情期を迎えてから家にくるのをやめてしまった長谷部に、彼の抱える何かに触れてしまったんだろうと大倶利伽羅は思った。しびれを切らして、出るまで鳴らすつもりでかけた電話に意外とあっさり出た彼が、受話器の向こうで泣いている気配を感じた時、これは曝け出させるべきだとクロを撫でながら大倶利伽羅は感じたのだった。多分に己の願望も混じってしまったかもしれないが。

 そうして、やっと姿を現した長谷部の、また硬くなってしまった身体を定位置だったソファの上で物理的に解しながら大倶利伽羅は彼のこれまでの話を聞いた。

「人間のエゴだけれど、クロは失うことで身軽になったんじゃないか。あんたは、自分が悲しいということを認めてやればいい。悲しんでいいんだ」

 ひどい肩こりでかちかちの肩を解しながら言うと長谷部は俯き、どんどんと上半身を倒し丸くなっていく。ぼそぼそと喋る口に耳を寄せて覆いかぶさるようになれば、小さく聞こえた。

「赦されたい……」

「ん?」

「俺は罪深い、子を残せない指向も、異端の見目も、」

「あんたほんとに俺を神の使いか何かと思っているのか?」

 この男にぎちぎちの道徳観念を教えたのは誰だと、大倶利伽羅が大きなため息を吐くと、びくり腕の中の身体が縮こまる。そうじゃない。頭をがしがしと掻いてから正面に回り、握りしめられた手を取って、努めて穏やかに声を出した。

「俺は天使じゃないが、あんたが赦しを求めているなら俺が赦してやる」

 こちらを伺う濡れた瞳と目を合わせ、湛える甘露を舐めとってしまいたい衝動と戦いながら、大倶利伽羅は続けた。

「子を残すこと、それだけが全てか? 生み残すものは人それぞれで子供だけではない。……たとえ何も残せなくとも勝手に生きていい。今ここにある生が全てだ」

 ひくんとした震えとともに、アメジストからついに雫が溢れる。ただの人間である大倶利伽羅は、こらえ切れず、本能のまま、熱を持つ唇を涙の跡が光る頰に寄せた。



 

「ほーそんな問答に付き合ってやったのか、君が」

 プライベートな情報はぼかしながら大倶利伽羅が経緯を話すのを、鶴丸は驚きを持って聞いた。彼がこんなに口を軽くしていること自体が、もうすでに可笑しい。

「しかし、こいつは前途多難だな。一歩進んで二歩下がる、か」

 蕾がほころぶのは遠いのに、忍耐強いことだと思う。

「下がってない。進んだ」

 ガキの物言いで、褒美に唇に口づけをする権利を得た、とかつては達観した印象だった青年は続ける。

「お前が天使なら祝福の接吻だろうが、ユダの接吻かねぇ」

「俺は裏切ってない」

「手に落ちるのを待っているんだろ?」

「裏切らない」

「そうかい」

 優しいけれど、どこか熱さの感じられなかった大倶利伽羅の変化は、彼を幼い頃から知っている鶴丸にしても嬉しいことだ。

「ふん、暖かくなったら、散歩に連れてくる。あんたにも見せびらかす」

「くくく、デートって言えよ。あれだろ、実はほっとしてるのか? 会えない間焦ったんだろ」

 くっと口を噤んでこちらを睨め付ける大倶利伽羅に、動揺が透けて見えるようになったとは本当に変わったもんだと嘆息する。

「君のハセベくんに今日の聖句を教えてやりたいね」

 彼を変えた稀有な青年にこの言葉を贈りたい。

『愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。』

 掲示板に貼られたそれを目に映し言えば、

「俺は偽者じゃない」

 大倶利伽羅は憮然と返す。

「はいはい」

 まぁ、何を信じるかを決めるのは彼次第だ。偽者がいいというならそれでもいい。

 神はそれぞれの心に……なんていうのはやっぱり聖職者失格かね、と鶴丸は花開く前に手折ってしまいそうな男を前に自嘲した。

 

くりへしワンライお題「変化」

​04/02/2017                             

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