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Moon

Melancholy of Princess Kaguya

「あんた、なんて顔をしているんだ」

 

 もう深夜と言ってもいい時間に帰宅した長谷部の顔を見て、褐色の肌を纏った青年、大倶利伽羅はぼやいた。

 顔? 俺はいったいどんな顔をしているのだろうか? 別にちゃんと人間の顔になっていると思うのだが。ぺたぺたと触り確かめても異常はない。違和感と言えば、引き結んだ口の中は渋い味でいっぱいで、今にも何かがこぼれてしまいそうだ。

 あれだ、あれ────

「口の中に飲み込めないあのオレンジの……秋に……ああ、渋柿がある」

「酔っぱらってるのか?」

 それは酔っているだろう。飲み会で美味しくもない酒をしこたま飲んだ。

 俺の身体に上から下まで目を滑らせて眉を寄せた大倶利伽羅は立ち尽くす俺をソファに座らせ、綺麗な身のこなしで台所まで踵を返す。まるで踊るように動く身体をぼうっと目で追い、いつの間にか目の前に差し出されていた冷たい水を受け取った。

「お茶がいい」

「わがまま言うな。とりあえずそれを飲んでいろ」

 むぅと唸って、大倶利伽羅を見上げる。この口が引き絞られるような感覚を流してしまいたい。

「……甘いものが食べたい」

 いつもなら飲んだ後は塩むすびを食べたくなるところだが、今日は糖分を舌が求めている。

「……甘いものな、待っていろ」

 ひやり、ため息交じりに返された言葉に少し胸が寒くなる。呆れられただろうか。

 こちらもひとつため息を吐いてジャケットを乱暴にソファの背に放ると、寝転がり窮屈な服を脱いでいく。地味な鼠色のネクタイを引き抜いて床に落とす。足を上げてスラックスを下ろし現れた靴下留めをぱちんと外す。灰色の靴下を引っ張り脱いで、それもまた床に放った。ふくらはぎにくっきり残る跡をかいてから、クッションに頭を埋める。

「う~~~」

 もやもやが胸を満たしてクッションに残る大倶利伽羅の残り香も俺を癒してはくれない。

 なんだか今日はダメな日なのだ。

 全てにおいて余裕がなく、職場では細部が気になって自分の仕事が進まずいらいらとし、八つ当たりのように新人のつたない仕事ぶりを注意する言葉選びが雑になって怯えさせてしまった。後輩だって一生懸命なのは重々知っているのに。強制参加の飲み会ではビールの銘柄が俺好みではなくて気分を上げるつもりが急降下し、悪酔いするから飲み放題の酒は嫌いなんだが飲まないわけにもいかないからやけになって杯を重ねた。いつもは楽し気に聴こえる居酒屋のざわめきも煩わしくてしょうがなくて、まるで雑踏に置いてけぼりにされた迷子のようだった。

 極めつけは、帰りの電車でくたびれた中年のサラリーマンに降り際、尻をがしっとわしづかみにされて逃げられたことだ。捕まえるべきところがあまりの早業に意表を突かれたこともあって、ただただきょとんとしてしまったのが悔やまれる。

思い出すとむかむかしてきたな。まぁ、くたびれたサラリーマンは俺もか。

 ため息を重ねてワイシャツにパンツ一枚で寝転がり弛緩した身体はもう動かせそうにない。絡みつくような重たい重力が悪いなんて、地球に怒られそうな責任転嫁をする。

 あぁ、情けない。飛ばされてはるか遠くこんなところにいるが、俺には今の仕事は向いてないんじゃないか。

「そらよ」

 うだうだと考え、だらしない様を見せつけている俺を一瞥して、大倶利伽羅はテーブルにことりと控えめな音を立てて皿を置いた。首を伸ばせば、そこには黄金色に輝くホットケーキ。丸く綺麗に膨らみ、真ん中に乗せられた四角いバターが今にも滑り落ちそうなのを見て、ようやく鼻をくすぐる甘い匂いを認識した。

 写真で見たような完璧なホットケーキ!
 途端に血が巡りだした身体を起こし、背筋を伸ばして俺の為に用意された焼きたてに向き合う。御大層に渡されたナイフとフォークを構えると、あふれた唾を飲み込んだ。

「先に着替えてきたらどうだ」

「寝巻が汚れるのがいやだから、これでいい」

「……あんたの気にするところがわからない」

「いただきます」

待ちきれずかぶせるように、教えられた食事の挨拶──感謝の言葉──を口にする。

 もうすっかり溶けて丸い粒になってしまったバターをちょいとつついて、塗り広げてから真ん中に切っ先を差し込み、ふかふかした感触を返すホットケーキを切り分ける。切れ目から、また、甘い匂いが強く鼻に抜けて目が覚める。たまらず大きいピースのままかぶりついた。じゅわり染み込んだバターがあふれ出し、噛めば噛むほど塩気と甘さが良い具合に混ざり合う。空気がたくさん閉じ込められた生地はしゅわんと熔けてしまうようだ。控えめな甘さが疲れ切った身体に染み込むとお腹の中からほわほわ温まっていく。無心に口を動かしていると訳もなくほっとして、鼻の奥がつんとした後にじんわり視界が滲んだ。安堵の吐息は、ん、と小さな音に口の中で変わった。

 横に座った大倶利伽羅がじぃとこちらを見つめているのに気付いて、今までの振る舞いが脳裏をよぎり今更頬が熱くなる。

「なんだ?」

 突き刺さる視線にたまりかねて問えば、何でもない、と首を振る大倶利伽羅。

 目の前のホットケーキはあっという間に半分だ。急に惜しくなって、小さく小さく切ってちびちび口に運んでいると、隣で笑う気配がした。

「うさぎみたいに食べなくとも、もう一枚焼くぞ」

 それはとても魅力的な言葉に思えたが、これ以上望んではいけない気がして首を振る。

「……おいしい……すごく」

「光忠の直伝だ」

 目の前の男とは反対に真っ白な肌に眼帯が様になった男を思い出す。性格も見た目も似ていないけれど金色の目だけが血の繋がりを教えてくれる大倶利伽羅の兄弟。大柄な割に器用な質なのだろうか。

 珍しく饒舌にゆったり話を続ける男の言葉に、ちまちまと欠片を口に運びながら耳を傾ける。

「……ちびの頃に泣きながら帰ったら光忠がこれを作ってくれたんだ……これよりもうんと甘いやつだけどな。あまりに美味しくて涙は止まったが、急いで食べてしまってもう少ししか残っていないと気付いた俺は、また泣いた。光忠は笑いながら、大丈夫、お月様は欠けてもまた満ちるんだよ、と綺麗にまん丸のホットケーキをまた焼いてくれた……もういいのか?」

 すっかり空になってしまったお皿を前に、子供のように素直に強請ることができない俺は、お腹いっぱいだ、とうそぶいた。

 まるで似ていないけれど、思いやることができる二人は確かに家族なのだろう。羨ましいような拗ねるような気持になって、尖らせた口を優しく俺を見る男の唇に触れさせた。

 バターでつるり滑るお互いの唇。目の前には見開かれ、月の海まで見えそうなまん丸お月様。郷愁をそそる静謐な景色をたたえた、全てを見通す力を持つ瞳。そういえば、キスというものを自分からしたのは初めてかもしれない。

「……素面の時にやってくれ」

 やれやれとばかりに言われて、もうしない、口の中でもごもごとつぶやく。輝く金色から目が離せないで見つめていると、

 ────あ、月が落ちてくる。

 思わず瞑った瞼をぞろり舐められる感触に足の先が丸まった。もぞもぞと尻が落ち着かない。

「あんたは俺だけ見ていればいい」

 耳に滑り落ちた言葉を飲み込んで、ぐぅと喉を軋ませ口を引き結べば、今度はしゅるり唇をなぞった舌が差し込まれる。やさしく口内をくすぐり、舌に絡みつく熱。与えられればもっと欲しくなって縋り付く舌。交わされとろとろと流し込まれる唾液を喉を鳴らして飲み込んで、ふと見つめ合った瞬間、焦げた匂いが鼻をつく。

「あ」

 慌てて台所に駆ける大倶利伽羅に笑って、すっかりこの男の味になじんでしまったどうしようもなく現金な俺は声を上げた。

「もう一枚たべたい!」

 

 

 

くりへしワンライお題「月」

​17/09/2016                             

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