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Moon

Too sweet

 カシャリ、カシャリとした音がする。瞼は震えるばかりで一向に開かない。頭に線を描いたそばからとろとろと物の輪郭が崩れていく微睡みのなか、肌に小さく爪を立てるような金属音をひたすらに耳は追う。軽やかな足音に重なって、カチカチと飼い犬の爪が立てる音がリズムを刻んだ。
 冷たい。
 無意識に動かした手の先には求めていたものはなく、ただよそよそしい温度のシーツにふれただけだった。そら寒いここちのまま泥のような感触の眠気に足をとられる。遠く、滑らかな声がした。甲高い音に続いて慌てた声が頭の中で跳ねて、次いで、ぷわり、ぷわり、と膨らむぼやく声に変わって転がる。我知らず口角が上がったのを広光は感じた。口の端をよだれが伝っていくのがわかるが、まだ起きたくない、とぐずぐずに甘えた頭は意識を手放そうとする。温もりを求めて小さく身体を丸めた。ばたばたと続く物音が広光の周りを踊っては肌をなでて、よい眠りを、と囁く。
「う、」
 促されるまま、とぷんと意識が沈んだ。

 ベッドが沈んだ気がして目が覚めた。うなりながら薄く開けた目に映るのはグレーのシーツばかりで、やっぱり隣に求めたものがない。甘い香りが鼻をくすぐる。嗅ぎ慣れない匂いに、目覚める直前、唇にふれたやわらかい感触を思い出す。舌で唇を拭えば、わずかに甘い。胸を締め付けられるようなここちがして、声にならない音を漏らしながら、広光は隣の枕に顔をうずめた。冷たい布の奥から彼の匂いがする。甘ったるい香りよりずっと広光を慰撫する、赤ん坊がまとうような瑞々しい香りが。
 もっと、もっと、包まれていたい。
 気だるい身体は早々に匙を投げて弛緩し、再びの眠りに誘われる。うめき続ける不審な声に呆れた飼い犬のフクが、背中の上で情熱的なダンスを踊って穴を開けようと掘り続けるまで、広光は逃げようのない誘惑にとらわれていた。


 午後になって開けたアクアリムショップで店番をしながら、どことなく気の抜けた気分であくびをかみ殺した。ささやかな水流音を響かせるいくつもの水槽に囲まれていると癒されるのは確かだが、癒しを通り越して眠気も同時に催される。
 あのあと九時近くになってやっと広光が起きだした頃には、同居人であり真面目な会社員である長谷部の姿はもちろんなく、何かしていたと思われる台所も綺麗なものだった。ただひとつ、どこかテンションの高いフクと漂う甘い香りだけがいつもとの違いを伝えていた。ここ一週間ぐらい眠りが浅い感覚がしていた理由の一端を見つけた広光の起き抜けでまわらない頭は、それでも朝の感覚からして悪い兆候ではないだろうと判断して、通常通り午前中に所持している物件に関する諸々をやっつけると、本業である店に足を向けたのだった。
 まどろんでいた時間が、あまりにも心地よかったのだろうか、水槽の掃除や発注をする手は止めないが、ずっと夢を見ているような感覚が続いている。

 いや、よく考えたら彼に出会った時から広光は夢を見ているのかもしれない。
 月から落ちて来たと言い、どこか浮世離れした言動をする男、──真っ直ぐにクラゲを見つめていた長谷部──の横顔に視線を惹きつけられた時から。

 リン、とベルが客の訪問を告げた。
 焦りの滲んだ足音で現れたのは、友人の国広だった。彼は緊張した面持ちで広光と対峙すると、手にしていたものをカウンターに置くやいなや、海老のようにすごい勢いで後ずさった。
「どうした?」
「兄弟に言われて、あんたには渡して置こうと思って……た、他意は断じてない! 友チョコというやつだ! せ、世話になっているからな!」
 何を焦っているんだかわからない国広を尻目に渡されたものをまじまじと見れば、ハート型をした煎餅だった。そんな行事が近いと世間の様子で感じてはいたが今日だったかと納得する。
 友チョコだという煎餅。
 それにしても、バレンタインというイベントの本筋からも、チョコレートという物質からも遠い、随分と矛盾した存在だ。くれるものはありがたくもらって国広の言い訳を聞きながら、さっそく袋を開けた。
 いわく、兄弟に日頃お世話になっているひとに渡してきなさいと言われた。寺の息子だとか、男だとか関係ない。言葉にするのがうまくない国広にはいいイベントだ、前向きに機会を利用してこい、と。
 広光も会ったことがある声が大きな彼の兄弟のどこまでもポジティブな姿勢は、同時にひどく合理的な考え方でもあると気付く。
 しどろもどろにしゃべる国広を見て、流石に言葉の方がずっと楽なのでは、と思ったが言わない。久しぶりに食べた味は普通な煎餅は思いのほか美味しかった。
 もう一枚差し出した国広は「以前、悪いことをした彼にも渡しといてくれ」と言いおいて、肩の荷が下りたとばかりに出て行った。大学生は暇なのだろうか。いや、彼は工学部に所属しているから実験だなんだと忙しいはずだ。忙しい合間を縫っての行動に少しばかり感動しながら、以前の幽霊騒動を気にしていたのだな、と反省をした。国広がおっちょこちょいなのは確かだが、あれは巻き込んだ広光も悪かったのに。
 口の中に残っていた煎餅を飲み込んで、ふっと息を吐く。
 今までイベントごとなど気にしたことがなかった広光は、ここにきて不思議な感覚を覚えた。誰かが勝手に決めた祝い事の何がそんなに楽しいのかとずっと思っていたが、特別な日に変えるのはそれぞれの思いひとつなのかもしれない。伝えたい、喜ばせたい、感謝したい、素朴な思いが、その日を特別なものにする。
 ────さては、同居人である彼も。
 きらきらと輝くうつくしい目の下に、ここのところ長い睫毛が作るだけではない黒が張り付いていたのを思い出すと、胸がおかしな音を立てた。
 甘く苦しい。
 ひとり、身をよじった広光の視界にチョコレートグラミーが映った。変わった動きで水中を行く小さな魚と動きが同調したようで、国広のことを言ってられないな、と内心で自嘲する。この、ただ揺蕩うのではなく、どことなく意思を感じさせるユニークな泳ぎ方に魅せられるのか、飼育難易度が高いわりには人気が高い熱帯魚に思わず近寄り目を凝らす。海外から仕入れたばかりの頃と比べて随分と元気になっている。餌の時間だと勘違いしたのか、水面近くで震えるさまに頬が緩んだ。

 そうだ。広光だって、ひとごとのように眺めてばかりではいられない。

 

 時節柄、品薄になっていたが目当ての材料も買えて、夕飯の仕込みも終えた。そわそわと落ち着かないフクに餌をやろうと容器に手をかけたとき、突然耳をきゅるりと動かした彼が瞬時に玄関に走った。鍵を開ける音についで顔を出した長谷部に、すぐさま熱烈な歓迎をお見舞している。
「おかえり」
「ただいま」
 バンビのようにぴょこぴょこ跳ねる子犬をいなしながら歩いてきた長谷部は、無造作に手にしていた紙袋を差し出した。
「やる」
 きらびやかな袋の中にあったのは名前だけは聞いたことがある高級なショコラティエの箱だった。
「バレンタイン……なのだろう? 世話になっているから」
 昼間にも聞いた台詞に、「本来は誰に贈るものか知っているか?」と問う。なにぶん彼は普通の感性をしているとは言い難く、ぬか喜びになってはたまらない。
 だって、広光が欲しいものは友人に贈るようなものではないのだ。
「……特別な好意を持つ相手へ」
 なぜか眉間にしわを寄せて彼が言う言葉に、まるでフクの尻尾のように広光の心臓は揺れた。満足感で知らず知らず口角があがる。厳しい表情だった長谷部は一瞬ぽかんとし、照れ臭そうに顔を背けると自室に向かった。スーツが窮屈で仕方ないらしく、いつものように脱ぎ散らかして行くのを目に映しながら、疑問を口にする。
「あんた、手作りしようとしてなかったか?」
 だらりとした長袖シャツにジャージという姿で居間に戻ってきた長谷部は眉間のしわを深くした。
「バレてたか……どうしてもうまくいかなかった」
 それで、急遽デパートに寄ってきたんだ。
 女性でごった返すフロアなか、頭ひとつぶん背の高いすらりとした姿の男が、端正な顔をしかめて真剣にチョコレートを選んでいるのを想像すると、抑えきれない笑みがこぼれた。ひどく甘いものを口に詰め込まれたように、嬉しいのに困ったような顔になってしまう。表情を誤解したのか、長谷部は途端に気落ちした様子になった。
「おまえの口には合わないかもしれない……迷惑だったら誰かに」
「いいや、すごく、うれしい」
 目に見えてほっとする長谷部の瞳を覗き込み、目の下のくまをなぞった。
「でも、もっと欲しいものがある」
「なんだ?」
「聞いてくれるか?」
「俺で買えるものなら」
「……あんたにしか作れないものだ」


 大きなマグカップで作った手製のフォンダンショコラを贈ると甘い物好きの長谷部は目を輝かせていた。今すぐにでも食べたそうな彼にお預けをして、もうひと働きを要求する広光はわがままな同居人だと思う。けれど、欲しいものは欲しいのだ。思春期の多感な少年の頃にだって、こんなにチョコレートを欲しいだなんて思ったことはなかった。
 広光は残った材料で、長谷部に手ずから作ってもらうことを望んだ。
 「知っていると思うが俺は不器用なんだ」とためらう言葉には「俺が都度、教える」と答えた。広光は知っている。好奇心が旺盛で真面目な長谷部は不器用なんかではない。ただ、少しばかりボタンを掛け違えることがあるだけなのだ。

 しまった腰の上でひらひらと揺れるエプロンの紐を眺めて、広光は内心で子供のようにはしゃいでいた。チョコレートを食べてはいけないというのに、おこぼれを求めて長谷部の足に絡みつくフクのことを言えない。幼い頃、使い勝手が悪い台所で素朴なおやつを作る母の後ろ姿を、まだかまだかと眺めていたのを思い出す。マンションに建て替える前の古びた一軒家での懐かしい思い出だ。家も母も、もう、記憶の中にしかいない。
 ひとつずつ、手順に加えて分量の計り方のルールや、かき混ぜる力加減など、丁寧に教えてやれば長谷部の手際は決して悪いものではなかった。生真面目にきっちりと動く彼は、感覚さえ掴めればお菓子作りに向いているかもしれない。
 そんなに激しく動かさなくていい、といった広光の助言に従い泡立て器を慎重に動かし混ぜ合わせている長谷部の首筋に、つと視線を走らせる。
 くっと流れていく頚椎の描く曲線と、隠すようにそう甘そうな色した髪に誘われた広光は、そっと背後から首筋に鼻をうずめた。びくりと揺れた身体には構わず、深く息を吸えば甘ったるい匂いの奥にある香りに、安心感を覚える。
「おい、邪魔するな」
 身をよじった長谷部に睨みつけられ、広光は両手をあげて、もうさわらないことに同意した。彼はいつだって真剣なのだ。でも、名残惜しい。ちらちらと間近にある首筋越しに手元を覗きながら、フクには悪いが今日はふたりきりで、後ろからぎゅうぎゅうに抱きしめて眠ろう、と決める。
「……なぁ、よく考えたら、このタイプの菓子はお前には甘すぎるんじゃないか?」
 甘すぎない菓子を探して、何度レシピとにらめっこをしたと思う。
 気づかれるとは思ってなかった広光はわずかに目を見開いた。
「……今日はいいんだ」
 目の前で不満そうに尖っている唇に軽い口づけを落とした。
「ごまかすな! そういう優しさは不本意だ!」
 長谷部が怒れば怒るほど、それは想いの強さを表すようで、調子に乗った広光は騒ぎ続ける口を薄く開いた唇で封じる。
「…んっ、ん、ぁ……っ」
 歯列を舌で執拗になぞれば、試食でもしたのだろうか、ビターなチョコレートの味がして、飢えた獣のように食らいつく力を強くしてしまう。
「いっ」
 思いっきり足を踏まれて身体を離した。静かに痛がる広光を、しかめっ面をして眺めていた長谷部は、ふっと表情を緩めると眉をあげた。
「あとで見てろよ」
 広光の唇をかぷりと甘噛みして、さっさと作業に戻る長谷部の耳が赤い。向上心の塊にふわりと口元がほころんだ。わざと挑発するように「お手並み拝見だな」と耳元で囁いて、すぅと香りを吸い込んだ広光は目を細める。
 月から来た彼は探究心が旺盛で、とっても負けず嫌いでもあるのだ。
 くぅとふたりの腹から鳴る音に押されるように、最後に腹いっぱい甘いものを食べるため、量を少なめにした鍋に火をつけた。
 からっぽの腹がいまかいまかと待っている。
 少し目を離した隙にやらかしたのか、焦ったような声が小さく聞こえて、ふ、と息がもれた。

 ああ、食べる前から充分に口の中が甘い。
 広光にとって、この時間が、なによりのギフトだ。

 

くりへしワンライお題「残り香」「チョコレート」

​10/02/2018                             

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