Moon
▷Beginning
金曜日の午後8時30分、閉店時間のきっかり半刻前にその男は現れる。重たいガラス扉を押し開けて、同時に響く鈴の音も、番をする大倶利伽羅の抑揚のない「いらっしゃいませ」の声も気にとめず、ある水槽の前まで歩みを進める。
海の月と書いてクラゲと読む、薄暗い店内でぼんやり浮かぶように光を当てられたそいつらを、色素の薄い青紫色の瞳がじいと見つめる。いかにも仕事ができるサラリーマン風の男が、ほかり、口を開けて間抜けな表情になる。照らされた横顔を、廊下の奥、男からは垂直の位置にあるレジから何とは無しに眺める。静かなモーター音と控えめな水音ばかりが響く空間で、ふたりと沢山の魚たちは閉店時間までたゆたう僅かな時間を過ごすのだ。
現在時刻は「20:45」無機質なデジタル表示の壁時計を確認して、今日は来ないかと思う。都会には早すぎる初雪で何もかもがペースを乱された日だったから来られないのも仕方がない。
大丈夫だろうか?
名前も身の上も知らない、しかも何も買っていかないので客ですらない男の、図りようもない生活を心配してしまう自分に首を傾げ、大倶利伽羅は閉店準備に取り掛かった。
ひとつひとつ、いつもよりゆっくりと入念に水槽を点検し、水温とpHをチェックしていく。やけに大倶利伽羅に懐いている赤いベタの前であやすように指を揺らしていた時に、リリィ、と入店の合図が鳴り響いた。時計を確認すれば「20:50」単純な茶色とも灰色とも言えない髪が揺れる。傘を傘立てに突っ込むといつもと変わらぬ様子で男は定位置に向かい、腰を落ち着けた。いつからか水槽の前には、主に男に使われる為に小さな丸椅子が置かれるようになった。もとより客商売に向いてないぐらい愛想がないのは自覚しているが、ただ見るだけの客であっても、大倶利伽羅は魚類を好きな人間には同じ仲間として親切にしたいと思っている。正直に言えば大倶利伽羅はクラゲがそこまで好きではなかった。魚は筋肉をうねらせ自在に動くさまが美しい。けれど、クラゲはふにゃふにゃと頼りなく浮かんでいるばかりで、はっきりしない頼りなさを感じていた。それが、漂う丸と揺れる腕を男が一心に見つめる光景を見て、悪くないと思えたのだ。気づかせてくれた男に敬意を払って大倶利伽羅は丸椅子を置いた。
青く輝く水槽によって浮かび上がる、シルバーの無機質な椅子に座る整った男の佇まいは、不思議と調和しているように見える。半ば道楽でやっているこのアクアリウムショップの閉店間際など滅多に客はやってこない。しゃべるものがいなければ沢山の生命がさざめきあおうと賑やかとはほど遠い。今日はいつもより短い静かな時間を共有する。こぽり、こぽり、海の底に沈んで行くような空間に浸る。たまに目を細める長くけぶり輝く睫毛の震えが、思わずといった風にゆらり揺れる手の動きが、いたいけな金魚のヒレのひとふりのように感じてしまう。
ピ、時計が「21:00」を知らせた。ハッとしたように男は顔を上げ、瞬きの間にきりりとした表情に戻るときびきびした足取りで出て行った。
あの青紫色にはクラゲしか映っていないのかもしれない。ふ、とそんな風に思えて、まっすぐに見つめるさまが、水槽の中こそが自分のいるべき世界だと思っていた幼い頃の自分と重なった。
「あ、ありがとうございます」
常連のそばかすの少年に取り寄せた鯉の餌を渡してやる。けっこうな重さのはずだが、少年は細っこい見かけに寄らず力持ちだ。家は近所でも名の知れた地主で庭に大きな鯉を五匹飼っているのだという。丸々太った鯉が、この少年の細い指に飼いならされてばくばくと口を動かしているのかと思うとどことなくおかしい。
「あの、では、また二週間後に」
「お待ちしております」
リリィ。
出口に向かう少年の白い髪の残像と入れ違いに入ってきたのは、いつものクラゲ好きの男で、今日は金曜日だったかと思い出す。横目で確認した時計は「20:05」いつもより早い。在庫の確認の為に後ろを向いた大倶利伽羅の耳に、ギチィと常より乱暴に座る音が届く。所作が丁寧に見受けられた男にしては珍しい。振り返って注視すれば、水槽の明かりを受けているのを差し引いても顔色は青白く、目の下に隈が見事に浮かんでいる。外面は綺麗につくろうタイプと思っていたので、それほどまでに疲れているのかといらぬ推測を立ててしまう。さっきから勝手な分析による印象で断じてしまっているが、これはもうひとつの副業、いや本業故に、自然と人を観察して思考が動いてしまうので不躾だとは思えど止められない。
クラゲの動きに合わせて、ゆらり、揺れる身体が今にも崩れ落ちてしまいそうで不安になる。かくんと首が揺れたところで我慢できなくなって声が出てしまった。
「あんた」
眠そうな目を瞬かせ、こちらを向いた男にどう話しかけたものかとためらいつつも、当たり障りのないことから始める。
「……クラゲ、好きなのか?」
少し考えた後に男は口を開いた。
「好き、なのだと思う。見ていると落ち着く。丸くて、光を受けて透けながら輝いているのがいい」
「まぁ……海の月というぐらいだからな」
ぼんやりこちらを見返すのに戸惑う。漢字を知らない年齢にも見えないが、色素の薄いさまから伺えるようにハーフか帰国子女なのだろうか。
「……漢字だと海の月と書くんだ」
「そうなのか。月はこんな柔らかな素材ではないがなぁ」
首を傾げる仕草は緩慢で、本題を思い出した大倶利伽羅は話を進めた。
「俺は、ここの店長の伊達大倶利伽羅という……名前を、聞いてもいいだろうか?」
「ああ、俺は長谷部国重。しがないサラリーマンだ。いつも何も買わずにすまない」
「それはいいんだ、好きに見てもらって構わない。ただ、あんた、だいぶ体調が悪いように見えたから大丈夫かと……今日はもう無理かも知れないが、近くの遅くまでやっている医者を紹介しようか?」
「いや、医者は……最近よく眠れないだけで」
何かを言い澱むようにためらった長谷部はひとり頷くと言葉を続けた。
「ちょっと、俺はここでの生活に疎くて対処法がよくわからない案件があるのだが、聞いてもらえるだろうか?」
それぐらいなら元より暇な仕事だし構わない。カウンターの中から椅子を引っ張り出して向かいに腰を落ち着けた大倶利伽羅に長谷部は神妙な面持ちで話し始めた。
ひととおり聞きおわった大倶利伽羅は絶句した。話の内容もだが長谷部自身もどこか変だ。
長谷部曰く、最近自分の暮らしているアパートの一室に夜分遅く見知らぬ女性が現れてシクシクと泣く。なんとかなだめようと話しかけても要領を得ない言葉でブツブツと、悔しいだか、辛いだか、恨み言を言うばかりで一向に問題が見えてこないので、アドバイスしてやりたくともできない。
いや、夜中に勝手に自分の部屋にいるなんて明らかに不審者か幽霊だろう。しかも、そんなおかしな部屋には思い当たる節がある。
「……その、あんたの家は四丁目にあるマンションとは名ばかりの古いアパートか?」
「そうだ」
「家賃安かっただろう?」
「ああ、よくわかるな」
地元の人間なら知らないものはいない事故物件じゃないか。確か大倶利伽羅がまだ子供の時分に若い女性が自殺しているのが強烈な記憶として残っている。それは、ここでは珍しく雪が積もった日だったはずだ。外見からして大幅にボロがきている物件は上等な見た目の長谷部には似合わない。随分とちぐはぐな印象だ。
「で、どうしたらいいと思う?」
問うてくる長谷部の隈を目に映し、どうにかしてやりたいとは思うが、と考えこんでいた大倶利伽羅の頭にある人物が浮かぶ。
やつならこういったことに強いはずだ。
「ちょっと待ってくれ、そっちの方に詳しい知り合いを呼ぶ」
「すまない」
どうせ家にいるのはわかっているので、有無を言わせず呼びつけた相手はほどなく現れた。深くかぶったフードの下から眼鏡越しに不本意そうな目線を寄こすのは、大倶利伽羅の熱帯魚仲間であり、もと同級生の山姥切国広、寺の息子である。
手早く紹介と例の幽霊アパート住まいだということを説明すると、国広は渋々かけていた大きな黒縁眼鏡を外して長谷部に視線を向けた。
「いっ」
途端に変な声を出したと思ったら、顔を背け勝手にバックルームに駆け込んだ。ぽかんとしたままの長谷部と大倶利伽羅の耳にドタンバタンという物音が聞こえた後に、慌てた様子で舞い戻ってきて、長谷部に何かを投げつけた。
「み、見習いの俺にはこれぐらいしかできない……!」
ほろほろと長谷部の不思議な色の髪から白い粉が滑り落ちていく。しばしの沈黙の後になんとか現状を理解した。色々と雑だが、お祓いなの……か? 長谷部から塩らしきものを払ってやり「大丈夫か?」と問う。
「あ、ああ、……心なしか元気をもらったような気がする」
本当かよ、驚いただけじゃないのかと思えど、病も気からなのか表情に生気が戻り、「今日こそ話を聞き出せると思う」と意気揚々と出ていってしまった。
……問題はそこじゃない。
どうすることもできずに国広に目を向ければ、その手にある瓶が目に入り嘆息する。
「国広……それは砂糖だ……」
「あ……」
時計は「20:30」このくらいの時間になると扉を確認してしまう。昨日は悪いことをした。あの後、「俺が未熟だからか……」と店にいるヤマトヌマエビと話し始めてしまった国広をなだめるのに苦労したものだが、結局のところ長谷部の状況はなにひとつ改善していないはずだ。報告にでも何でもいいから顔を見せてくれないだろうか。
クラゲの水槽を拭きながら、思わず大倶利伽羅も語りかけてしまう。
「正面から見る紫色はどんな風だ?」
もちろん答えなど返ってくるはずもなく、ゆうらり漂うゼリー状の物体。本当に手応えのないやつだ、とガラスを息で曇らせる。
リリィ。
過剰なくらい音に反応して素早く振り向けば、そりゃ一日ぐらいでは良くはならないだろうが、隈をくっきりつけた長谷部がいた。
「いらっしゃいませ」
長谷部はいつもと変わらぬそぶりで大倶利伽羅の前まで来ると、手に持っていたビニール袋を差し出した。
「昨日、特別なことをしてもらったのに、お礼をしていなかった。遅くなったが」
押し付けられた袋を覗き込めば、中にはゴロゴロと、
「じゃがいも?」
「ああ、なにを贈ったらいいのかわからなくて、隣のドイツ人が最近はじゃがいもが高くて困ると言っていたから」
「……あ、ああ、助かる、あいつともわける……ありがとう」
どういう道筋を通ったのかわからないが、厚意はありがたく受け取ったものの、なにも感謝されることをしていないことを思い出し、恐る恐るその後の様子を尋ねる。
「その、夜にまた女は現れたか?」
「ああ」
国広、やっぱり砂糖ではだめだ!
「あと、なんか怒っていた」
悪化してる!? 幽霊の怒りポイントもわからないが、どう転んでも淡々としている長谷部の態度もわからない。まるで宇宙人だ。帰国子女とはこんなものなのか。
ずっしりとじゃがいもが入ったスーパーの袋を握りしめ、このままではいけないと当事者でもないのに大倶利伽羅は強い危機感を覚えた。
とりあえず、家に帰してはならないと拙い言葉で夕飯に誘い、店が入っているビルの最上階に位置する大倶利伽羅の家に向かった。
帰宅して一番に出迎えた、一緒に暮らしているミニチュア・ピンシャーの“ ふく”による顔舐めの洗礼には驚いていたようだったが、今はふくを膝に乗せて食後のコーヒーを飲んでいる。ふくも長谷部を気に入ったようでチワワに似た細い肢体をだらりと伸ばし、ご満悦だ。夕飯時には、せっかくだからと貰い物で作ったじゃがいもとコンビーフのチーズ焼きを食べた瞬間、目を子供のように輝かせていたのが印象的だった。随分と幼い仕草をするものだ、と長谷部の言動を思い返しながら、ふくを優しく撫でる手を目に映しコーヒーを啜る。まったりと馴染んでしまった空気にハッとする。美味しい夕食を食べただけで終わるわけにはいかない。
「……長谷部、あんたが今住んでいる部屋だが」
「ああ」
「あそこに住んでいる限り安眠することは難しいだろう」
「……それは困るな」
「そこで、物は相談なのだが、俺はこのビルのオーナーをしている。あの物件と同じ額とはいかないが、安くするから空き部屋に引っ越してこないか?」
「こんな広い部屋か!?」
慌て出す長谷部はお金に困っているようには見えないが、なにを懸念しているのだろう。新しくてそこそこいい物件なのだが。
「いや、これの半分くらいだ」
「それでも広すぎる! 空いている空間がたくさんあるのは落ち着かない。広くて寒くないのか?」
……懸念事項はそこなのか?
事実をいうならば、木造のアパートよりもRC造のマンションの方が暖かい。けれど、長谷部の表情が物語っているものはそういうことではないだろうと思う。接触してからこちら、予想を裏切り続ける長谷部の無垢に揺れる青紫色の見ていたら、考えてもいなかった言葉が口から転がり落ちていた。
「じゃあ、ここに一緒に住むか?」
「「え?」」
驚きの声を発したふたりで見つめあい、自分が出した突飛な提案を脳みそをフル回転して咀嚼する。
長谷部と大倶利伽羅とふくで暮らす生活。生活時間は合わなそうだが、夜はふたりと一匹で暖かい夕飯を食べ、食後はゆったりと過ごす。静かで落ち着いた時が流れる空間……部屋は余っているし、なんだか悪くないものに思えてしまった。
「……一緒に住もう。それならきっと寒くない」
クラゲ好きで善良そうな男が困っているのを助ける。言葉にすれば、当然のことに思えた。
「いいのか?」
「ああ」
腹を決めた大倶利伽羅に、目をパチパチとさせた長谷部はおもむろにふくを床に降ろすと、顔を近づけた。面食らう大倶利伽羅に構わず、どんどんと迫ってくる怜悧な顔。ぱかりと開いた口から舌がのぞいたと思った瞬間には、てろり、唇を舐められていた。
突然の熱く濡れた感触に固まってしまった大倶利伽羅の反応を気にもとめず、ぺろぺろと舌を這わせ、「あんな風に速く舌を動かすのは難しい」と首を傾げる目前の美貌。
はぁ?
なおも舐めようとする長谷部の肩を押しとどめ、呆然としつつも「どうしてこんなことを?」と問えば、「この家では沢山舐めるのが嬉しいという表現なのではないのか?」と言うではないか。
未だ感触の残る口元を引きつらせていると、長谷部は少し気落ちした様子を見せて呟く。
「何か間違えたか? 地球の慣習はよくわからない」
聞いてはいけない言葉が聞こえた気がして目を瞠った大倶利伽羅の耳に畳み掛けるように、涼やかで不思議と甘い声が響く。
「……ああ、そうするとお前の目は故郷の月のようだ。すごくいい」
笑んだ青紫色に一心に見つめられて大倶利伽羅は観念した。
まるでクラゲを眺めていた時のようにまっすぐな瞳。どうやら変な人間を掬い上げてしまったようだが、────それも悪くない。
繊細で面倒な生き物の世話するのは、職業柄慣れているのだ。
くりへしワンライお題「見つめる」
26/11/2016
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