Part time job
▷桜が咲く前に
いつの間にか当たり前になった、いつものルーティーン。
仕事終わりに定食屋で大盛りご飯を食べて、冷えた体を温めた後の帰り道。
追加の燃料が入ったビニール袋をかさかさと揺らし、龍を飼う腕に触れるか触れないかの距離で隣り合って歩く。
暖かい夜、マフラーはもういらないかもしれない。
途中の公園で一休み。
細かく手すりの付けられたベンチに座って、開いた間は50センチ。
安い酎ハイの缶を開け一口飲んで、なんでこの味にしたのか自分に疑問を持ちながらも惰性でぐびりぐびりと喉を鳴らす。
たばこを手に取り火をつけようとしたところで、隣でがさがさと袋をあさっていた男が、割り箸に挟んだ白い物体を差し出してきた。
「炙ってくれ」
「ん? なんだそれ」
「マシュマロだ」
「わざわざその為に箸をもらったのか」
唇に張り付いたたばこを取り去り、希望に応えて慎重にライターで炙る。
「わっ、燃えたぞ」
近づけすぎたようで、マシュマロに火が燃え移り、甘く焦げる匂いが漂う。
息を吹きかけ慌てて火を消すと、表面が真っ黒にただれ溶け落ちそうだ。
体に悪そうなそれを頓着せずに、口に入れた男は表情も変えずにもくもくと咀嚼する。
「おいしいのか?」
無言でこくりと頷く。
「なんというか歯ごたえがなくて食べた気にならないから、もう何年も食べていないな」
「興味あるんだろ?」
俺からライターを奪い取った大倶利伽羅はちろちろと上手に炙る。また、甘い匂いが立ち上る。
「ん」
差し出された滑り落ちそうなそれを前に、慌てて口を開ける。放り込まれたマシュマロに熱さを警戒しながら歯を立てれば、とろりと滑った後に弾力感がある中心に当たる。綿あめみたいな素朴な砂糖の甘さが、肉体労働で疲れた体に沁み渡りくせになりそうな味だ。
傍の酎ハイを口に含む。酒には合わないな。
「もうひとつ」
口を開けば、またひとつ放り込まれる。
ただ、やっぱり食べてる気はしないなと思いながら、咀嚼する視界の端に大きなカバンを持った親子連れが映る。
子どもの頃、こんな日付が変わるのももうすぐという時間に家族で外にいることなどなかった。親として褒められた振る舞いではないと世間からは思われるのだろうか。けれど、旅行帰りらしく機嫌よく何かを話す幼児を挟んだ家族は、とても幸せそうだ。華やいだ空気が遠ざかり、いつの間にか口の中のものも消えていた。
無言で新たなマシュマロが差し出される。今度はピンク色の物体にかぶりつけば甘ったるい偽物のイチゴの味が広がって、懐かしい記憶が蘇る。
「イチゴオレってたまに飲みたくならないか。本物のイチゴの味じゃないんだけど」
「俺はコーヒー牛乳の方が好きだ」
「あれももうコーヒーじゃないな。違う飲み物」
男の足の間に置かれた袋に無造作に手を突っ込み、そのままのマシュマロを食べてみる。ふにふにと歯を押し返し、戸惑う。
「やっぱり実体のつかめない変な食べ物だ」
「ふ、あんた嫌いなものあったんだな」
「食べられないものはないぞ。なんでも食べられる。ただ、好んで食べないだけだ。……好き嫌いを言える立場になかったからな。お前は?」
「俺も似たり寄ったりだが、あえて言うなら……カレーだな」
「は?」
「嫌いではないがハヤシライスの方が好きだ」
「お前……その見た目で」
「インドは関係ないからな。俺はインドネシアとのハーフだ」
「知ってる。はは、いいなその意外性」
「驚かれるのがわかっているから言う気にもならない」
「ふふ、そうだな。……もういっこ」
「だいぶ気に入ったみたいだな」
カチリ。固いであろう着火ボタンを押して現れた火で、丁寧に表面を撫でる。溶ける白。
「んん、チョコが入っている。当たりだ」
「……砂糖のかたまりにチョコって甘すぎないか」
「そうか?」
そこまで甘いものが好きではないのに何で買ったんだと言う問いを笑いに押し込めて、肉厚な唇に手を伸ばし、親指をねじ込んで開かせたくちにドロドロになったものを流し込む。
「……甘い」
眉をしかめ呟く男に、笑いが漏れる。
「飲むか?」
「いい」
缶の残りを飲み干し、空き缶とライターを交換する。立ち上がり、たばこに火をつけて甘さに苦さを重ねる。深く吸い込んで、横に吐き出す。
漂っていた甘くぬるむ空気がかき消された。
言わなきゃならない。
「この街を出て行くことにした」
なんでもないような声が出せているだろうか。
大倶利伽羅が身じろぎ、かさりと袋が音を立てた。
「すぐにか?」
「ああ。最初から長くいられないのは決まっていた」
街灯の下の梅の花が目に入る。
「梅ももう終わってしまう」
「なぜ?」
「……俺には悪魔が取り付いているから……」
お前に出会って思っていたより長居してしまった。支え合う熱の心地よさに充たされて、冷えた体が鈍るままに、微睡んでいたくなってしまった。
「神様が怒っている」
「そんな言葉で煙に巻こうとするな」
「違う!わかっているんだ。こんな感覚おかしいって……でも、神様が監視している……」
俺にこびりついて離れない強迫観念。
「俺にもお前にも絡みつくものがあるのはわかる。でも……だめなのか?」
「きっとだめだ。まだ今なら大丈夫だから……お願いだ」
突き放そうとしているのは俺なのに縋るような情けない顔をしているだろう。
「……あんたはひとりで決めてしまう。俺の言うことなんて聞かない」
お前を悲しませたいわけでもないのに、結局俺はまわりを不幸にすることしかできない。子供の頃から染みついた甲高い呪詛の言葉が脳内にこだまする。
「約束してくれ。
番号を変えるな。
俺の番号も消すな。
出なくてもいいから」
ゆらり立ち上がった男が囁いて、俺の耳に噛み付く。皮膚を破られる感触とじんじんと主張する痛み。
「悪魔だろうが神だろうがかなわない。
これは俺からの呪いだ。
人の念が一番強い。
あんたも知っているだろう」
首筋をどろり伝う血を舐めとられる。
「あんたはもう消せない」
水気を含んだ囁く声と、離れ際に見えたあがくような瞳の中の光。
息を止めてしまったのに気付いて、喘ぐように呼吸をやっとする。
「全部やる」
俺にまだ沢山残っているマシュマロを押し付け、たばこを取り上げる。
甘い口づけをすると、馬鹿みたいに不器用に笑って、背中を向けた
たばこと血とマシュマロの味。
さようなら。
別れの言葉を口に出すことだけはできなかった。
あれから、本当に長谷部は跡形もなく消えた。消えることになれた手際の良さだった。
繋がらない電話。
呼び出し音が鳴ることに安堵して、そして、出ないことに少しの失望をする。
触れたくなる肌を思い出した時、紫の小さな花を見つけた時、仲良く手を繋ぐ親子を見た時、冷えた指を温めたい時。
淡々と繰り返す呼び出し音を聞いては、追われ続ける長谷部を想う。
突然の雨に降られて本屋に逃げ込んだ。
濡れた髪をタオルでぬぐいながら向かった新書コーナーの途中、いつまでも忘れられない紫が目に入る。まるであいつのような儚い鉱石のような紫色の表紙の絵本。
俺を呼んでいる。
作者の名前は────長谷部国重。
ふわふわとした絵本らしからぬ無骨な名前に目が潤む。
おそるおそる手に取り、その表紙を開く。
ぬいぐるみには心がない。
けれど、胸に空っぽな箱が埋め込まれています。
ぬいぐるみの小さな持ち主は、泣いたり笑ったりうるさくて、乱暴に扱ったりもするけれど、どこに行くにも一緒で手を離さず、一心に話しかけてきます。何度も何度も大事に修理され時をともにするうちに、ぎゅうぎゅうにいっぱいになった箱。
寝相の悪い持ち主につぶされて過ごすある夜に、ぬいぐるみのプラスチックの目に写る寝顔は、とても胸がぎゅっとしてしまうぐらい可愛くて、ぬいぐるみははじめて心というものを知りました。
けれど、持ち主が大人になる時、遂に手放されてしまいます。
それは、その子供へと。
子供の元では、すぐに飽きられ、ほって置かれてしまうぬいぐるみ。
時代遅れってなんでしょう。
しまいこまれた、その長い間に色んなこころを忘れて、胸の箱がひどくからっぽで、ただのくたびれたぬいぐるみになってしまいました。
長い時間が過ぎたある時、久しぶりに出され、洗われ、干された後に連れていかれたのは、それは、年老いた元の持ち主の所でした。
彼女はもう、何もわからない。
けれど、ぬいぐるみの手触りだけはわかるようで、一心になでられました。
ぬいぐるみにも彼女の熱がわかりました。そうだ、最初にこの綿の身体を抱き上げ、文字通りつぶれるまで抱きしめてくれたのは彼女だ。
そして、久しぶりにぬいぐるみは呼ばれました。
その大事な名前を。
「────ちゃん」
ぬいぐるみは最後まで一緒でした。
彼女が動かなくなるまで、いえ、動けなくなってからも。
箱がまんたんになったぬいぐるみは、とても満たされた気持ちで彼女と火の中に消えました。
何もなくなることをひどく幸せに感じながら。
それは、心がないぬいぐるみが心を持って、無くし、また思い出すお話。
とても子ども向けとは思えない、悲しいお話。
あいつが描いた自分を癒すためのお話。
馬鹿だな、立ち止まったまま、こんな。
なぁ長谷部、こんなお話じゃだめだ。
あんたは今どこにいるんだ?
最後のページ、作者の情報を指で辿る。
──長谷部国重
──北海道在住
は? 寒がりな男がそんなところまで逃げたのか。
──好きではないけど、やめられないもの
──マシュマロ
こぼれそうになる嗚咽をかみ殺して、手を握りしめる。
まだ繋がらなくてもいい。
何度でもかけるから。
冷えた指でボタンを押す。
響く呼び出し音————。
くりへしワンライお題「マシュマロ」
13/05/2016