Sea
▷まざまざと
「げ」
大浴場への扉を開いて思わず長谷部の口からもれた声に、傍らを通り過ぎようとしていた山姥切がびくりと肩を揺らした。
ここでは顔を合わせたくなかったと苛立ちまぎれに手早く身体を洗い湯に向かった長谷部が、ゆったりと湯に浸かる大倶利伽羅を睨みつけると薄い唇が開かれた。
「あんた、頑なに一緒に入るのを嫌がるから、水が嫌いなのかと」
「どういう理屈だ……」
気の抜けた声がこぼれた。
「好きだからって長湯はのぼせるぞ」言いながら掛け湯をすると、長谷部は少し離れた場所に陣取って熱いお湯で顔を拭った。「水の方が好きだ」と呟いた大倶利伽羅が肩まで浸かり息を漏らした長谷部を見やる。
「濡れてるあんたはきれいだな」
「…そういう発言は誤解を招く」
「誤解? 俺は事実しか言わない」
「……はぁ」
飄々として捉えどころのない男の言動は、長谷部とは感覚があまりにも違うのだということをまざまざと知らせて、疲れたようなため息が出てしまうのを毎回抑えきれない。大げさなため息を気にした素振りもなく大倶利伽羅は、長谷部を見つめる。
「またコレクションは増えたのか?」
大倶利伽羅は少し視線を上向かせ頷いた。海が好きだと公言する酔狂な男は、褒賞として海に関する映像や写真集を所望しては集めているらしい。いくら優秀な刀だとしても主はこいつに甘すぎる。正規の報酬でも言うことをききすぎではないか。長谷部は内心でぶちぶちと不満を述べながら髪を搔きあげた。
「大倶利伽羅、あなたそんな人でしたっけ?」
不意に横から声がして顔を向ければ、長い髪をまとめ上げた宗三がなんとも言えない顔をしていた。果たしてこの二人に接点はあったのだろうかと訝しげに見やると、意を汲んだ宗三は「まぁ、なんとなくですよ」と言葉を濁した。
「だって、強面な顔してるでしょ」
事実だが本人を前にして言うのは失礼じゃないかと思うが、大倶利伽羅は素知らぬ顔をして髪をかきあげている。
「変わるほどの時間をここで過ごしたとは思わない」
落ち着いた声に、あっという間に強くなったが彼はまだまだひよっこだということを思い出す。力強い彼の腕を思い出して、温まった身体から息が漏れた。
「あなたも消えないものがあるんですよね」
肩口に見えている龍を見やり、宗三は続けた。
「過去には刺青が罪人や任侠の証だったこともあり、その歴史から風習が廃れたずっと後になっても、公衆浴場に入れないなんて時代もあったそうですよ」
実に人は非合理だ。こんなもので人間の中身までわからないでしょうに。
宗三の口から世間話のように感情の見えない音がこぼれていく。彼の胸元にある刻印ともいえる刺青に視線を向けることはできなかった。ふと、おおらかにうねる大倶利伽羅の刺青を目に映し、こちらからは龍の顔を見えないことがひどく残念に思えた。
「まぁ、あなたは気性そのままって、感じがしますね」
「ふ……そうだな」
口から息が漏れ、大倶利伽羅の中身を何ひとつ知らないのに思わず同意していた。
「……龍そのものの刀だと、言った人間がいた」
「随分と捻りのないロマンチストな人間だこと」
宗三は彼にしては珍しく小さな笑いと驚きが混ざった声を出した。
物の見た目と中身は切り離せない。
そう頭に浮かんだところで、中身があるという前提で考えてしまったことに長谷部は苦笑する。わかるのは大倶利伽羅に龍が似合うということだけだ。褐色の肌に這う龍が湯の中から顔を出し、こちらからは見えないが彼の背中で火焔を吐き出しているのだろう。その鱗、一枚一枚の艶やかな質感に見入っていると、「出ます」と呟いた宗三が視界を横切った。
饒舌だった宗三が出ていくと、途端に空気が静かになる。浴場の中には他にも刀がいるというのに、全てが遠くおぼろげだ。深く湯に浸かり目をつぶっている大倶利伽羅にしばし見惚れる。髪が後ろになでつけられ露わになったこめかみを汗が伝う。穏やかに流れる眉の横に線を描いて顎までたどり着くと、ポツリと落ちていく。腕の龍は水中をゆらゆらと漂っている。
包丁たっての希望だという入浴剤の甘ったるさが邪魔に感じた。
閉じていた目が開かれ琥珀がすうと、こちらを射抜く。
我知らず肩が揺れた。大倶利伽羅の視線に何かを見透かされそうで、長谷部はいつもたじろいでしまうのだ。見透かされる何かがあるというわけでもないのに。視線が複雑な熱を持って絡まりあう。
「長谷部、」
「出ないのか?」
「…あんたが出たら出る」
「負けず嫌いか?」
「違う。湯から上がったあとのあんたの後ろ姿はさぞきれいだと思って」
馬鹿みたいな思考と空気を変えたくてした質問に返された答えに絶句する。察しの悪い男は「のぼせたか?」と囁きながら固まる長谷部に近づくと、張り付く煤色の髪を耳にかけさせた。褐色の指が耳朶をくすぐり、首筋を柔く触れながら伝う。つっと撫であげた先で、心臓の上に手のひらがあてがわれた。
「少し、はやい」
押し付けられた手の感触に心臓は、拍動を密にし続ける。ぐぅと何かが溢れ出すかと思った。
「……っ、うるさい!」
これ以上は無理だと感じた長谷部は、わざと乱雑に上がった。酸素を求めるように急いで出口に向かった長谷部は、背中に感じる視線に肉を震わせる。ちらと振り返ると、大倶利伽羅がからかいなどない思いの外真剣な顔でこちらを見ていた。
ふ、と湿った息が漏れる。
この男はいつも目を逸らさない。
熾火が腹でちりりと燻り、じわじわと遅効性の毒が身体中に巡る。痛みを感じるほど唇を噛み締めて長谷部は浴室を出た。
龍の顔が見たい。喉が渇く。身体が熱い。
それは肉の器というよりも心が訴えかけて来るような衝動だった。長谷部は身体が求めることならともかく、わがままでままならない心の動きは箱にしまってきた。身体は求めに応じれば満足するのに心は満足しないからだ。そして、放っておけばいつしか身体は重たい心に引きずられてしまう。脱衣場でのろのろと体を拭きながら、長谷部は大倶利伽羅という男は危険だと思った。全ての感覚が鋭敏になっており、髪の先から滴が落ちる感触にすら肌が粟立つ。
「おっと、もうあがんのか?」
不意に声がかけられた。それでも、形を失った心は長谷部の元に帰ってこない。
「やっぱり風呂はいいよな、遠征ばかりだと恋しくなるぜ。人の身体っつーのは血の巡りが肝要なんだろうな」
「ああ……」
「…どうしたのぼせたのか?」
ぼんやりとした返答しかできない長谷部の顔を覗き込み、薬研は深いため息をついた。
「長谷部、水をたくさん飲め。あと、顔も冷やしてからいけ」
「……わかった」
思っているよりも不機嫌な声が出た。子供扱いをやめて欲しい。何か自分がとても小さく矮小になった気になる。そこまで考えたところで、いや、これは八つ当たりだと気付いて腕をさする。
欲しい。いらない。欲しかった。いらなかった。
制御できない欲が箱からこぼれだす。渇いたら手を伸ばせば良かった。欲深い長谷部の身体は簡単に飲み干せる。でも、急にこわくなった。長谷部は、この感覚を知っている。
────知って?
震え出す手を握りしめると、そっと小さな手が包み込んだ。あまりに冷たい手だった。
「素っ裸で固まんなよ。風邪ひくぜ」
目を瞬かせる長谷部に言う薬研は、明るい声とは反対に置いていかれたもののような顔をしていた。彼のこの顔も知っているような気がした。
くりへしワンライお題「消えない/消せない」「お風呂」
07/10/2017
NEXT