Smile
▷ほどける
引き結ばれたあの男の唇が好きだ。
不本意にも唇をほころばせるのは大倶利伽羅の役目で、だらしなく撓んだ唇にいつも苦い気持ちになる。
へし切長谷部はよく嗤う。その表情が嫌いだ。吐かれる言葉も嫌いだ。こちらをいいようにする行動も嫌いだ。けれど、求められれば食らいついてしまう己がいる。衣をなびかせ風を孕んだ男が視界に入ると追いかけてしまう己がいる。無様に尻尾を振って飛びつき喜んで腰を振る大倶利伽羅は犬だ。熱に浮かされ思い通りにならない感情の渦で脚を踏ん張っているうちに、男のすらりとした脚に絡め取られ奥にどろりとした欲を吐き出すことしかできない。
行為の後、泥のように眠って目覚めた時にはいつもいない。
物の少ない部屋の隅に、ポツンと大倶利伽羅の腰紐が固結びにされて転がっているのみだ。
何重にもぎちぎちに結ばれたそれはもはや紫色の鞠に見える。最近ではいつも腰紐はよれて皺だらけで、光忠に格好悪いと指摘される始末だ。
知っている。
あの男の手にかかれば大倶利伽羅はいつだって格好がつかない。気まぐれ、悪戯、真意がわからない男だけれど、己があの男をどうしたいのかもわからない。
バタン。
白熱した手合わせは大倶利伽羅が弾き飛ばした加州の喉元に木刀を突きつけることで終わった。女性のように彩られた手を引き助け起こすと、好奇心を隠さない瞳がこちらを見つめる。
「すっごい手が痺れてる。結構苛烈なんだね」
揺れる爪紅が鮮やかな残像を残して、大倶利伽羅は瞬きをする。
「聞いてる? 大倶利伽羅って普段おとなしいから少し誤解してたかも」
彼が何を言いたいのかわからなくて、笑みを浮かべ滑らかに動く器用な口を追うことしかできない。
「なんだかんだ血気盛んでうるさい奴らの中で過ごしたからかな、俺なんか静かすぎると不安になるんだけど。大倶利伽羅も怒ることってあるの? 静かに怒る感じ? 血が沸くようなことってあるの?」
矢継ぎ早に赤い唇から出てくる問いの答えをとっさに出すことはできなかった。
「あ、質問責めは嫌いだろうね、ごめん」
「……別にいい……ただ、俺はこの心臓についてはよくわからない」
「驚いた……結構幼いんだね」
加州の笑みは寂しげだけれど優しくて、あの男とは違う。
「ま、でもそっか顕現したばかりだし、そんなもんだよ。これから慣れる」
怒る。鍛錬場から母屋に向かう道すがら大倶利伽羅は考え込んでいる。
怒りはわかるようでわからない。血が沸く感覚はわかる。いつだってまぐわう時は血が沸騰しそうに熱く、汗とともに目から水がこぼれ落ちる。激情は怒りに似ている。激情を抱えた自分はあの男をどうしたいのだろうか。この感情に慣れることなどあるのだろうか。いや、心静かにいたいのなら遠ざけるべきなのに。
ひたすら足を動かしていたら、突如地面が消え冷たい感触に包まれた。息が苦しい。音の無い世界で輝く鱗を持つ鯉に唇を啄ばまれ、池に落ちたのだと知る。
「ゴホッゴホッ」
池から這い上がり、いつも以上に冷たい風に吹かれながら考える。
そう、頭が沸騰して何が何だかわからなくなる。けど、この手は離しがたく欲は際限なく雄がいきり立ち、そして、心と身体が泣くのだ。
どこまでも歩いて行ってしまいたい気分でぐるぐると歩いていたら、石につまづき草むらに突っ込んだ。枯葉まみれになった頭を振っていると、ぱちり、胸に火花が散り気付く。せわしなく泣く己はひどく無様で頬が熱くなるほど羞恥に襲われているけれども、いくらあの男に嗤われても自分は細い繋がりをほどきたくはないのだ。
心なしか早足になった大倶利伽羅は何かにぶつかり歩みを止めた。はたと意識が現実に戻ってくれば、いつも大倶利伽羅で遊び気が済めばどこかに行ってしまう男が目の前で眉間に皺を寄せている。
「おい、粟田口からこわいと苦情が来たぞ。どうした? 調子悪いのか?」
こちらの意思を無視してばかりいる男の珍しく狼狽して震える唇を思わず触る。
「熱い」
「冷たい……馬鹿が」
無言で腕を捕まれたと思ったら乱暴に風呂に放り込まれ、気付いたら布団に放り込まれていた。長谷部はため息ひとつ残していなくなった。ひとり布団の中で丸くなる。
ああ、なんて情けない。
尖った熱に浮かされ骨が軋み、不意に意識が浮上した。目を開けると障子の向こうは真っ暗で、ずっと眠っていたのかとぼんやり思う。視界の端に紫色の背中が見えて、音を立てないように目を凝らせばその手元には大倶利伽羅の腰紐。またか。さぞ意地の悪い顔で楽しそうにしているのかと思ったら、小さな灯りに照らされた伏し目がちな横顔はとても真剣で────どこか切ない。
そんな顔をするな。言ってやりたくとも眠くて喉は動かない。どんな表情をしていても大倶利伽羅の心は文句を言うのか。なんてままならない。せめて見守っていたいのに瞼が己の意思を無視して怠惰に力を抜く。いつしか深い眠りに落ちていった。
目が覚めた。見回しても長谷部はいない。ただ紫色の鞠が転がるばかりだ。未だ身体は不調を訴えているけれども、今日は朝食の当番だったことを思い出し仕事ばかりはないがしろにできないと無理やり身体を起こす。
重い足取りで向かった先、厨では光忠が驚いたように出迎えた。
「あれ? からちゃん調子悪いんでしょ? 今日は僕がやるから休みな」
「……どうして」
「長谷部くんがかわってやれって、言ってきてさ。横暴だよね」
いつもそうなんだ、頼み方が雑なんだよ。なんとなくわかるからいいけど理由ぐらい言えばいいのに。つらつらと饒舌に続けられる言葉をうまく飲み込めない。
「目は確かなのさ。まぁ、長所全てを台無しにするぐらい口が下手なのは考えものだが」
歌仙がなんでもないことのように補足した。今日はゆっくりしなさいとふたりに送り出され、歩き出したものの段々と苛立ちが募る。
自室の前には、障子を開き中を覗き込む長谷部がいた。
「伝え忘れたが当番は変わった。お前は必要ないから大人しくしていろ」
いつものように色のない顔が告げる。
なんなのだこの男は。
衝動的に突き飛ばし、畳の上に転がった身体を乱暴に押さえつける。
この男の何もかもが許せない。
喉に食らいつき、跳ね除けようと暴れる手を追いかけ縫い付ける。
きつく引き結ばれた唇をねぶり唾液まみれにすると、眉間の皺にも蜜を塗りこめる。びくびくと跳ねる身体を手加減なしに閉じ込めて少し溜飲を下げる。
細い骨だ。掴んだ手首を握りつぶしてしまいたい。
「あんた俺の刀身をしっかり見たことあるか? あんたよりずっと太く重たい。あんたの骨なんてぐしゃぐしゃだ」
抵抗をやめた長谷部が顔を背け呟く。
「……知っているさ」
こちらを見ない紫色に舌打ちをして、骨を軋ませる。この男の真意を知りたいのだと大倶利伽羅は今更気付いた。なんでもいい、心のうちを見せて欲しいのだ。
「……なぜ腰紐をめちゃくちゃにしていく」
「嫌がらせだ」
「あんた……ならもっと楽しそうにしろ」
耳に押し殺した声を吹き込み、脅すように手首を締め上げる。
「…………また苛立ちながら俺のことを考えてほどいてるのかと思うと楽しい」
はぁ?
幼子のような返答に思わず力が抜け、ぐらぐらする頭を長谷部の肩口に埋めた。途端に呼吸が苦しくなり汗が噴き出す。
「おい、……病人はもう寝ていろ」
何事もなかったかのように大倶利伽羅を布団に転がし、出て行こうとするのを引き止める。もう情けなくてもいい。
「行くな」
ぱちぱちと瞬いて片眉上げた長谷部の唇がゆるりとほころび、そっと素肌を晒した指が布団の上の手に重なる。
「仕方ない、少しだけだ」
言葉とは裏腹のいたいけな震えが伝わって、潰してしまわぬように、そろり、指を絡めた。
結ぶことの出来ない指は容易くほどける。この男を拘束することなどできない。いずれ離れ柄を握りしめ戦い、そして、またいつか出会って添わせた指が呼吸する皮膚をなぞり確かめ絡まりあうのだろう。
知っている。情けない男に与えられた憐憫だと。でも、今だけは俺の手の内にある。
────へし切長谷部。
くりへしワンライお題「結ぶ」
07/01/2017
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